第8話 メスガキ彼女の誘惑バトル(3)
三日目の夜が訪れた。
大学で恭介と話し、少し気が晴れた俺は、今日こそぐっすり眠れるかもしれないと期待しながら、早めにベッドへ潜り込んだ。布団の心地よい重みに包まれ、徐々に瞼が重くなっていく。久しぶりに安眠を得られそうだと安堵しかけた、その瞬間——
テーブルに置いていたスマホが鳴った。
俺は反射的に起き上がり、布団を跳ね除けると、スマホを手に取った。画面には雌伊子からのメッセージ通知。指先がわずかに震えながら開くと、メッセージは空白で、ただ一つの動画ファイルが添付されていた。
背筋がぞくりと粟立つ。
その時、三日目に雌伊子が言った言葉が脳裏をかすめた。
『あ、もし寝取られたら動画送って教えてあげますよ? ほら漫画とかであるやつ、事後報告、みたいな? ふふっ』
喉が鳴る。静まり返った部屋に、その小さな音が染み込んでいく。
意を決して、動画を再生する。
画面に映ったのは——滑らかな白い肌と、わずかに覗く胸元。
息を呑み、無意識に口元を押さえる。胸の奥がざわつき、嫌な予感が膨らんでいく。
まさか、本当に……?
最悪の想像が脳裏を駆け巡る。目を背けたいのに、画面から視線が離せない。喉が詰まり、息をするのも忘れるほどだった。
すると、画面がわずかに揺れる。
次の瞬間、スマホから明るい声が響いた。
「残念! 足でした~! キャハハ!」
画面には、雌伊子の太ももが映っていた。スマホ越しに響くのは、俺をからかうような軽やかな笑い声だった。
……。
俺は呆然と画面を見つめ、思考が停止したまま硬直した。
次の瞬間、スマホを乱暴にベッドの上に放り投げる。
「ふざけんなあああぁっ!」
思わず声を上げると、すぐに近所から「うるせえぞ!」と怒鳴り声が響いた。しかし、そんなことはどうでもよかった。俺は枕に顔を押し付け、悔しさと苛立ちを抑えるように深く息を吐いた。
――翌日、キャンパスは昼下がりの活気に包まれていた。
春の暖かい陽射しが校舎の窓に反射し、芝生の上では学生たちが談笑している。ベンチでは講義帰りの者たちがコーヒーを片手に雑談し、遠くではサークル勧誘の声が飛び交っている。昨夜の俺の叫びなんて何もなかったかのような平和な風景だった。
しかし、俺の心は未だにざわついている。
エントランスで立ち尽くし、雌伊子に呼び出された理由を考えたが、特に思い当たることはない。ただ、あいつが素直に "会いたい" なんて言うはずがないことだけは分かっていた。
すると、遠くから手を大きく振る金髪の小悪魔が視界に入る。今日も元気いっぱいの笑顔だ。そんな様子に、昨夜の怒りが少しずつ蘇ってきた。
「せんぱ~い!」
駆け寄ってきた雌伊子が、何のためらいもなく俺の腕に抱きつく。頬をすり寄せ、まるで猫のように甘えてくる。
「……何のつもりだよ」
「え? 何がですかぁ?」
とぼけた顔をする雌伊子。その態度に、俺は深いため息をついた。
その時——
「雌ちゃん!」
男の声が響いた。
階段を駆け下りてくるのは、昨日の動画でちらついた名前——早瀬だった。
「昨日、どうして黙って帰ったんだ? 何度も連絡したのに、無視するなんて……!」
困惑した様子の早瀬が、雌伊子に詰め寄る。しかし、雌伊子は知らんぷり。
「お前、一体何やらかしたんだ?」
嫌な予感がして、俺は尋ねた。
すると、雌伊子はつんと澄ました顔で答える。
「別に。ただこの人のホームパーティーに来てた女の子たちに、こいつの裏の顔を暴露して、その場をしらけさせてやっただけですよ」
……は?
「裏話? 解散?」
俺はまだ状況が飲み込めない。
「この人、やたらと持ち上げてくるんですよね~。だからちょっと試してみたんです。『あの人と比べて私のこと、どう思う?』って」
顎に手を添え、目をきらりと光らせながら上目遣いで見つめる。この手口は何度も見た光景だ。
「それで、この人が話したことを録音して、パーティーにいた女の子たちに順番に聞かせてあげたんですよ」
得意げに語る雌伊子。
……悪魔か、こいつは。
「それからねぇ、あいつが彼女を寝取ったとか自慢してたから、それも全部皆に伝えてあげましたよ。結果、三日目のパーティーには誰も来なくて、私と早瀬さんだけになっちゃったんです」
雌伊子は面白がるように笑った。
「やっと二人きりになれたね、って言ってましたよね? それ聞いたとき、吹き出しそうになりました」
楽しげに肩をすくめながら笑う雌伊子。
気がつくと、周囲にはいつの間にか人だかりができ、誰もが好奇の目でこちらを見つめていた。ざわざわとした声が飛び交い、何事かと囁き合う学生たちの視線が集中する。
「私のこと好きなら、今の彼女と別れてって言ったじゃないか! だから君のために別れたんだぞ!?」
叫ぶ早瀬。
だが、そんな彼に雌伊子は——
「え~でもぉ、私が好きになるとは言ってませんよねえ?」
涼しげな目で早瀬を見下ろし、薄く笑う。その表情には、ほんの少しの冷ややかさが滲んでいた。
「それにぃ~」
言葉を引き延ばしながら、雌伊子はゆっくりと自分の胸元に手を当てる。そして、その手をゆっくりと下へスライドさせながら、まるで確かめるように言葉を続けた。
「ここから……ここまで、全部、恵純先輩のものなんで」
にやりと笑う。目の端には愉悦が滲んでいた。
その瞬間、早瀬の顔が絶望に染まる。足元が崩れたかのように膝を突き、声にならない呻きが漏れた。
「……そんな……嘘だろ……?」
愕然とする早瀬を見下ろしながら、雌伊子は小さく鼻を鳴らした。
「ねえ? 早瀬先輩……私のこと、本当に抱けると思ったんですか?」
首を軽く傾けながら、わざと間を取る。そして、最後の一撃を放つように微笑んだ。
「顔洗って出直してきたら?」
完全に打ちのめされた早瀬を背に、雌伊子は俺の腕に絡みつき、人だかりの中へと俺を引っ張るようにして消えていった。
騒がしいエントランスを抜けた俺たちは、並んで歩きながら静かな外の空気を吸い込んだ。雌伊子は上機嫌で、俺の腕にしっかりと抱きついている。
「なあ」
俺が呼びかけると、雌伊子が楽しげに振り向く。
「ん~? どうしましたぁ、先輩?」
「なんで早瀬にあんなことをしたんだ?」
俺の問いに、雌伊子は一瞬戸惑ったように視線を逸らす。そして、少し恥ずかしそうに頬を膨らませながら答えた。
「あの人…最初に声をかけてきた時に言ったんですよ…」
「なんて?」
「『あんな目つきの悪い野良犬みたいな彼氏、どこがいいの?』って…」
「えっ? お前、俺が悪口言われたから怒ってあんなことを?」
確かに早瀬の言ってることは間違ってはいない。俺自身、鏡を見るたびに自分の目つきが悪いことくらいわかっている。それでも、こいつがそんなことで怒るとは思わなかった。
「「だって……す、好きな人のこと悪く言われたら……むかつくに決まってるじゃないですか……!」」
雌伊子は顔を赤くし、ぎゅっと拳を握りしめたかと思うと、頭をがしがしと掻きむしるようにして誤魔化そうとする。唇を尖らせてそっぽを向くが、その耳まで染まった赤みが彼女の本音を物語っていた。
「もう帰りますよ先輩! きょ、今日は晩御飯奢ってもらいますから!」
恥ずかしさを隠すように怒る雌伊子。その頬はまだ赤く、視線を逸らしながらも、俺の腕をぎゅっと掴んでいる。その仕草が可愛らしくて、思わず口元が緩んだ。
「そうか。じゃあ、好きなもの食わせてやるよ」
俺がそう言うと、雌伊子はちらりと俺を見上げ、少し口を尖らせた。
「……絶対ですよ? ケチったら怒りますからね」
「はいはい、お前が満足するまで付き合ってやるって」
そう言って歩き出すと、雌伊子は嬉しそうに俺の腕に寄り添った。
夜風が心地よく、月明かりの下で並んで歩く俺たちの影が、ゆっくりと揺れていた。