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第5話 甘く、危険な夏の追憶

 大学の食堂は昼休みを迎え、多くの学生たちで賑わっていた。


ざわめきの中、俺は恭介と向かい合って座り、手元のコーヒーを軽く回しながら他愛もない話をしていた。


 「そういやさ」


 不意に恭介が口を開いた。


 「お前と雌伊子ちゃんの馴れ初めってどんな感じだったんだ?」


 興味津々の目を向けてくる恭介に、俺は一瞬言葉に詰まった。


 「……なんで急に?」


 「いや、お前ら見てると不思議な組み合わせだなって思ってさ。どうやって付き合うことになったのか、ちょっと気になってな」


 「……まぁ、普通の出会いじゃなかったな」


 俺は短く息をついて、ふと遠くを見るように目を細めた。


――それは、高校三年の夏の夜だった。


 蒸し暑く、寝つけない夜。俺はシャツが肌に張り付く不快感を覚えながら、夜風を浴びるためにランニングに出た。


 夜道は静まり返り、時折虫の鳴き声が響くだけ。


 街灯が途切れ途切れに灯り、闇の中に島のように浮かんでいた。


 俺は一定のリズムで足を運びながら、ぼんやりとした思考を巡らせていた。


 だが、その静寂は突如として破られた。


 遠くから、甲高い悲鳴が響いた。


 「……!」


 反射的に足を止め、耳を澄ます。


 それは、間違いなく助けを求める声だった。


 視線を巡らせると、声のする方向はトンネルの方だった。


 鼓動が高鳴る。俺は瞬時に走り出した。


 暗闇が支配するトンネルの入り口に差し掛かると、中からかすかな物音が聞こえた。


 俺の目が暗闇に慣れていくと、ぼんやりとした輪郭が浮かび上がった。そこには、もがくように揺れる細身の影と、その上からのしかかるような大きな人影があった。


 「いや! 寄るな、変態!」


 少女の切羽詰まった叫び声がトンネル内に響き渡る。


 息を荒げ、必死に腕を振りほどこうとする彼女。その細い肩が激しく揺れ、抵抗しても男の力には敵わず、地面に押しつけられそうになっていた。


 その瞬間、俺の中で迷いは吹き飛んだ。


 「……クソが」


 俺は一気に間合いを詰め、男の腕を掴む。そのまま力を込めて振り上げると、男の体は宙を舞った。


 「ぐっ……!」


 次の瞬間、背負い投げの要領で地面に叩きつけた。


 鈍い衝撃音が響き、男はもんどりうって倒れこんだ。しばらく微かに痙攣するように動いていたが、それでも意識はあったらしく、弱々しく「た、助けて……」とうわごとのように呟いた。


 そんな男に対し、俺はその胸元を掴み、顔を近づけて低く脅すように言った。


 「次見かけたら、こんなもんじゃ済まねえからな。覚悟しとけよ」


 俺の言葉が効きすぎたのか、男はびくりと震えた後、そのまま気を失った。


 俺は乱れた息を整えながら、ゆっくりと少女の方を振り向いた。


 彼女の表情を確認しようとした瞬間、俺の全身に戦慄が走った。目の前の光景に思考が追いつかない。


 少女は頬を紅潮させ、荒い息を漏らしながら、自分の胸元と下半身に手を当て、身をくねらせていた。


 「……あぁん……すご……かったぁ……」


 光悦な笑みを浮かべ、身体をまさぐる姿はあまりに妖艶で、俺の脳内は一瞬、真っ白になった。


 食堂の喧騒が耳に戻ってきた。遠くで食器がぶつかる音や賑やかな話し声が響いている。


 「ちょっと待て…え? そこはきゃー助けてくれてありがとうございます! 好き! じゃねえのか?」


 困惑しながら言う恭介。その目は驚きと理解の間で揺れていた。


 「じゃねえな……」


 俺はため息をつきながら、肩をわずかにすくめた。


 「ぶ、ぶれないな、雌伊子ちゃん…」


 呆れたように言いながらも、恭介の口元はわずかに緩んでいた。


 「……あいつは俺が好きというより、俺の目つきが好きなんだよ……」


 俺は重苦しく呟く。思い出すのは、あの夜のあいつの反応。普通なら怖がるか、感謝するか、それが普通のはずなのに——なのに、あいつは違った。助けたことなんてどうでもよさそうに、俺の顔をじっと見て、うっとりとした目で俺の目つきを見つめていた。あの視線が頭から離れない。


 俺が誰かにとって特別な存在だというわけじゃなく、ただ目つきが気に入っただけ——そんなふうに思うと、胸の奥が妙にざわつく。


 恭介は肘をテーブルに突き、興味深げに俺を見た。


 「だとしても、別にいいだろ」


 そう言って、軽く笑いながら持っていた空き缶を指先で弾くようにゴミ箱へと放る。


カランと軽快な音が響き、缶は見事にゴミ箱へと収まった。


 「別にって……俺はな」


 俺が言いかけたところに、恭介が被せるように言った。


 「きっかけが何でもいいってことだよ。大事なのは今どう思ってるか、じゃね?」


 俺は少しだけ考え込む。確かに、過去の出来事がどうだったかなんて今更変えられるわけじゃない。


 「大事なのは今……か……」


 そう呟きながら、ふと向こうの席で女子たちと笑い合う雌伊子を見つめる。


 俺の視線に気づいたのか、雌伊子がこちらをちらりと見て、唇の端を持ち上げる。まるで「また見てるの?」とでも言いたげな、いたずらっぽい笑み。


 俺はそっとため息をつき、コーヒーを一口飲んだ。


すると、その視線に気が付いた雌伊子が、くすっと微笑みながら急に席を立ち上がる。


 突然の行動に、周囲の学生たちもざわめき出す。


 「え? 何?」「急に立ち上がってどうした?」


 静まりかけた食堂の空気を破るように、雌伊子は堂々と俺の方に向き直ると、唇を尖らせ、指先を軽く振りながら愛らしい投げキッスを送ってきた。


 「ん~ちゅっ」


 その仕草は、まるで映画のワンシーンのように決まっていた。


 場内の空気が一瞬止まり、次の瞬間、男子学生たちの間から驚きと羨望の声が漏れた。


 「え、今の……?」「なんだよあの可愛さ……」「え、あいつら、そういう関係なのか?」


 女子たちは「うわぁ」と笑いながら、雌伊子の行動を面白がっている。


 俺はあまりの突然の出来事に驚き、思わず身を引いた拍子に、椅子がぐらりと傾いた。


 「うおっ……!」


 バランスを崩し、体が大きく揺れたかと思うと、そのまま後ろへ倒れ込んだ。


 「うわっ、マジかよ……!」


 周囲の学生たちがざわめく中、俺は床に尻もちをつき、痛みよりも恥ずかしさに顔が熱くなる。


 「きゃははっ!」


 雌伊子が楽しそうに笑い、周囲からも笑い声が広がった。


 恭介が机を叩きながら爆笑し、周囲の学生たちもちらちらとこちらを見ている。


 「おいおい、何そのリアクション!? 最高に面白いんだけど!」


 俺は顔を赤くしながら立ち上がり、何事もなかったかのように振る舞おうとするが、耳まで熱くなっているのが自分でもわかった。


 「たく、笑い過ぎだろ……」


 「はは、お前らやっぱおもしれえわ」


 恭介が腹を抱えて笑う。

ムカつくが、こっちが恥ずかしがれば恥ずかしがるほど面白がるやつだ。


 俺は軽くため息をつき、ズボンについた埃を払って椅子に座り直した。


 そんな俺を見ながら、恭介は急に真顔になり、低い声で言った。


「あちゃ~、ありゃ強敵のお出ましだな……」


「……は?」


何のことか分からず聞き返すと、恭介は顎をしゃくって視線を促してきた。


つられて目を向けると、雌伊子に話しかける高身長の男が見えた。


「グランピングサークルの部長、早瀬だな……」


恭介がぼそっと呟く。


「早瀬?誰だそれ」


 名前に聞き覚えはない。そもそもグランピングサークル自体よく知らない。確か普通のキャンプと違って設備が整っているキャンプだとかなんとか……とりあえず最近流行ってるらしいが、俺には縁のない世界だ。


「やべえぞ、恵純」


恭介がわざとらしく肩をすくめる。


「あいつ、相当手が早いって噂だぜ? グランピングサークル自体、ただのやりサーって話もあるくらいだしな」


「……マジかよ」


この状況はちょっと面倒かもしれない。


雌伊子は男を弄ぶのが得意だが、相手がその気になりすぎると厄介だ。


気づけば、俺は軽く拳を握りしめていた。


馴れ馴れしく話している男の姿が、なんだか気に入らない。


「おーおー、分かりやすく反応してるな?」


恭介がニヤニヤと笑いながら、肘で俺を軽く小突く。


「どうするよ、彼氏さん?」


からかうような口調。でも、その奥には少しだけ忠告の色が混じっている気がした。


俺は小さく息を吐き、視線を戻す。


恭介の言葉は軽口に聞こえるが、全く見当違いってわけでもない。


雌伊子は、まあ楽しんでるんだろう。


でも、もし相手が本気になったら?


そこまで大ごとにはならないだろうけど、なんとなく胸の奥がざわつく。


大丈夫……だよな?


そんなモヤモヤを抱えたまま、俺はもう一度雌伊子の方をちらりと見た。

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