一つのコイン
ある夏の日。
お忍びで出かけた貴人が道で転んでしまった。
変な捻り方をしてしまったのか、痛みが強く一人で立つことが出来なかった。
かといって、近くに召使も兵士も居ない。
身を焦がす日差しの中で貴人は途方に暮れてぽつりと座っていると、ひょこひょこと肩を揺らしながら乞食の少年がやってきた。
「お姉さん、どうしたの。そんなところに座って」
親し気に話しかけてくる乞食に対して、貴人は一瞬の安堵を抱くも彼が放つ悪臭に思わずハンカチを出して鼻をふさいだ。
直後、自分があまりにも失礼なことをしたと気づきハンカチを外そうとしたが、乞食はけろけろ笑って言った。
「いいさ。あんたにゃ、おいらの臭いは辛いだろう?」
そう言うと乞食はちらりと貴人の足を見る。
熱い日差しが乞食の影で遮られ、不思議な冷たさを感じた。
「くじいちまったのか」
乞食はそう言うとさらに一歩前に出て貴人の体を完全に影で覆う。
「あんたさえ耐えられるなら、おいらが背負ってあんたの家まで連れて行ってやるよ」
不潔さを身に纏う乞食の作り上げた微かな日影の安息所が貴人の心を安堵させ、同時に人を外見で判断した自らの卑しい心を責めていた。
貴人はハンカチを鼻から外し笑顔を向けて乞食の好意に甘えた。
「そうこなくっちゃ」
乞食は貴人を背負い、おぼつかない足取りで歩き出した。
貴人は乞食の臭いから彼がゴミにまみれて暮らしているのだろうと思った。
きっと、自分が想像するよりもずっと汚いところに住んでいるのだろうとも。
「あんたにゃ想像もつかないだろうけど」
乞食が言う。
「おいらが生まれて住んでいる場所はさ。とにかく汚ねえんだ。まぁ、おいらからしちゃ、それが普通なんだけども」
彼が語る貧民街の話は貴人からしたらまさに夢物語のようなものだった。
「毎日誰かが死ぬんだ。飢えや病気や喧嘩でさ。葬式? そんなもんしねえさ。だって、日常の出来事だもん」
自分には信じられない世界。
そこに住む者達は必死で日々を生きていると言う。
それこそ奪い、奪われ、どうにかして自分の命を繋ぐ……そんな場所。
しかし、今こうして自分を救ってくれているのは、そんな貧民街を生きる乞食なのだ。
貴人は乞食の悪臭に耐えながら考えた。
どうすれば彼らを救えるのだろうか、と。
「さぁな。何をどうすれば助けられるかなんて頭の悪いおいらじゃ全く分からねえよ。ただ、一つだけ確かなのは毎日食えるもんがありゃいいってことさ。腹が満ちりゃ苛立ちも減るからよ」
話が終わる頃には乞食は貴人を彼女の世界の入り口にまで運んできていた。
「ほらよ、到着だ」
貴人は礼を言うと乞食は再びけろけろ笑う。
「いいってことよ。今度からはちゃんとお付きを用意しておくんだぜ」
そう言って立ち去ろうとする乞食を貴人は呼び止めて、自分の持っていた金のコインを一枚手渡した。
ぽかんと口を開ける乞食に貴人はなお告げた。
今日はこれだけだが必ず恩返しに行くと。
乞食はコインを大事に握り「待ってるぜ」と笑顔で言った。
貴人の体には乞食の臭いが移っていたが彼女は気にも留めなかった。
周りの者が口々に罵ったが貴人は平然と言い返した。
彼の気高き行動を決して侮辱するな、と。
閉口する者達を尻目に貴人は乞食が言っていた言葉を反芻していた。
空腹さえなくなれば問題の一つは解決する。
取っ掛かりとして良い知れない。
そこで貴人は炊き出しをすることを思いついた。
きっと、それが始まりになる事を確信して。
翌日、兵士を伴いつつ貴人は乞食が住んでいる貧民街へと向かった。
自分の世界と彼の世界を繋ぐ橋の下に死体が一つ流れていくのに貴人は気づいたが気にもとめなかった。
乞食が語ったようにこれが彼の世界の日常なのだろうから。
騒ぎを聞きつけてやって来た痩せこけ、傷にまみれ、悪臭を漂わせる者達を前にしながら貴人は昨日自分を助けてくれた乞食を探した。
しかし、見つからない。
名前を呼ぼうと思い、その時になり初めて彼の名前を知らないことに気づいた。
そこで貴人は昨日自分が乞食に渡したコインの話をした。
誰か知っているものは居ないか? と。
幾人かの目が動いたような気がしたが、結局答える者は誰も居なかった。
貴人は失意を抱きながらも集まった者達に自分がこの場に来た理由を告げた。
突如現れた兵士たちに恐れおののいていた住民たちは、貴人がここへ来た目的が炊き出しであると知った途端それが歓声へと変わり、まるで隠れていたネズミが出てくるかのように次々に建物から外へ人々が出てきた。
勿論、中には疑う者も居たけれど。
その声は炊き出しの回数を続けていく内に少なくなり、やがて消えていった。
貴人はその後、生涯を捧げて彼らの生活を変えることに尽力し、彼女がこの世を去る頃にはそこはありふれた一つの町に変わった。
貴人と乞食は再会を果たすことはなかった。
けれど、コインだけは見つかった。
後世において、貴人を救った乞食のあまりにも献身的な姿勢や二度と二人が再会しなかったこと、そして何よりたった一枚のコインで町そのものを変えてしまった事を含め、乞食の正体は妖精が姿を変えてやって来たのだとか……そんな滑稽な役目を与えられ結びとされていることが多い。
つまり『妖精と貴人の優しさがコインで繋がり町は平和になりました。 めでたし、めでたし』などと。
現代において、この二人の物語は大幅に脚色され町の名物となり、彼らを模した人形や彼らの物語を絵本にして、今なお人々に小さく温かい心を与えている。
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「この子を丁寧に埋葬してあげて」
汚い川に浮いていた遺体を抱きしめながら貴人はそう言った。
川は人々の生活でどす黒く汚れており、この世界を端的に表しているようだと貴人は思った。
暑い日差しを阻むものはなく身が焼かれるようだった。
早く自分にも施しを寄越せと乞う声が貧民街から聞こえ、それの煩わしい声がより貴人の体を熱くしているような気がした。
けれど、両腕で抱きしめた体は心地良いほどに冷たくて。
冷たくて。
それが自分を慰めているようだと貴人は思った。