1 杣正助は毎日のように小さな泉の傍を通る。
杣正助は毎日のように小さな泉の傍を通る。
その泉は通学路に使っている自然公園の片隅にひっそりと横たわっていて、基本的に誰からも顧みられることがない。
正助なども近くを通っても泉が意識に上ることはほとんど無く、とにかく存在感が無いのだった。
その日も高校からの帰り路、正助は自然公園の入口にさしかかった。
「杣くん、ちょっと待って」
背後から呼ばう者がある。
クラスメイトの小野だった。
彼女とはご近所同士で帰る方角が一緒なのだ。
「やっと追いついた。
ねえ、どこ行くの?」
小走りで来たのだろう、彼女は肩からずり落ちそうになっているリュック——荷物がたくさん入って丈夫そうではあるが女の子が背負うには少し野暮ったい——の肩紐を直すと、化粧気の無い面をこちらに向けた。
「どこって、家だよ。
帰る途中だもん」
「え、じゃあこの公園通ってくの?」
「うん……って、なにその顔」
小野は信じられないという顔をしていた。
「だって、この公園なんだか怖くって。
不気味っていうか」
怖い、という言葉を聞いて正助は少々意外の念に打たれた。
だがすぐに言われてみればそうかもしれないと思い直す。
公園はあまり手入れが行き届いておらず日射しは厚い葉群れに遮られて昼でも薄暗い。
そのせいか散歩などで訪れる人も疎らで毎日通っているというのに誰かとすれ違うこともほとんど無い。
正助はそれほど気にならないが、小野が怖いと感じるのも無理は無いのかもしれなかった。
「でも近いんだよ、こっち通った方が」
「そうなんだろうけど……」
公園を迂回すると住宅街を大回りしなければならず歩く距離が倍にもなるのだ。
多少怖いからといってこの近道を使わないのは、いかにももったいない。
「とにかく俺は行くよ。
小野も家に帰るんだろ、また明日な」
「う、うん。
ねえホントに公園通っていくの?」
小野は不安そうに訊ねる。
「そりゃね、いつも通ってるし」
そこで正助はあるアイデアを思いつく。
「そうだ、今日は小野もこっちから帰らないか?
二人だったら怖くないだろ」
自分でも妙案だと思った。
有用な近道は小野にも教えてあげるべきなのだ。
一人が怖いというのなら付いて行ってあげればいい。
近所の誼というやつだ。
「いや、でも」
「こっちの方が絶対楽だから、ほらほら」
小野は乗り気では無かったが、正助は肩を押すようにして一緒に公園の中に入って行った。
ふと振りかえると小野はひどく神経質そうに周囲に視線を配っていた。
いったい何をそんなに警戒する必要があるのだろうか。
「そんなに怖がらないでも」
正助は見かねて声をかける。
だが彼女は少しも気を弛めようとせず声を潜めて言った。
「もしかしたらクマが出るかもしれないでしょ」
都市部のど真ん中にあって住宅街に周りを囲まれているこの公園にクマが出る可能性はほとんどゼロに近い。
正助はそう思ったが彼女のあまりに真剣な様子に指摘することができなかった。
公園の中は薄暗かった。
ほとんど陽の落ちない冷たいアスファルトの上を二人は歩いていく。
遊歩道は造られてから大分経っているようで所々ヒビが入っている。
つまづいたら危ないと思うのだが予算が無いのか補修もされずにそのままだ。
アスファルトの割れ目からは日照不足で生育の悪い雑草が申し訳なさそうに顔を出していた。
やがて泉の近くにさしかかる。
ふと視界の端に違和感を覚えて、正助は普段は意識することのほとんど無い泉の方に視線を向けた。
「どうしたの?!」
神経過敏な小野がすかさず質問してくる。
「いや、なにかいた気がしたんだよ」
普段はさざ波すら立たない水面で何かが蠢いていた気がしたのだ。
「クマじゃない?
クマだったらすぐに逃げちゃダメだよ。
相手から目を逸らさずにゆっくり後ずさって……」
正助はそれには答えずに泉の方に近づいて行った。
改めて間近で見ると泉は抽象的と言ってよいほどきれいな真円状をしていた。
サイズは思っていたより小さく向こう岸までの距離も短い。
仮に正助が思いきり助走をつけて跳び越えようとしたら、向こう岸のギリギリ手前で落ちる程度の幅だった。
しかし面積に反して水深はかなりありそうで暗い水の下にどれだけの深さがあるか窺い知れない。
「何かいたー?」
遊歩道に残っていた小野が声をあげる。
「少なくともクマはいないよ」
正助は背中超しに返事をすると水面をじっと注視する。
しかし常と変わったところは無い。
水の縁ギリギリまで近づいてもう一度観察してみる。
やはりそこには想像力が入り込む余地のある、いかなる変化の兆しも見出せなかった。
「ねえ、結局何かいたの?」
気になったのか小野が遊歩道を離れて背の高い草むらを踏み分けながら歩いてくる。
正助まであと数歩の距離まで近づいて来たとき、にわかに彼女の近くの草むらが騒めき立った。
小野がびゃっと短い悲鳴を上げる。
すぐさま音のした方に目を向けると草むらの中から何かが飛び出してきた。
キジだった。
一羽のキジが草の中から抜け出て一目散に公園の奥へと走り去って行ったのだった。
正助は安堵する。
しかし小野の反応は違った。
彼女は自分を脅かしたのが臆病な一羽の鳥でしかなかったことに気づいていない。
なぜなら草むらから音がした次の瞬間には、クマがクマがと叫びながら後も振り返らず駆け出していたからだ。
ついさっきクマに背中を見せて逃げたらダメと言っていたのは何だったのだろうか。
パニックになった小野は喚きながらこちら目がけて突っ込んでくる。
その必死の形相に正助もつられて逃げ出したくなった。
だがすぐに思いとどまってその場で彼女を身体で受け止めようと決心する。
もし自分まで逃げてしまったら、動転した小野が派手にこけて怪我でもするかもしれないと考えたのだ。
正助は腰を落として突進に備えて身構えた。
直後、むやみやたらと腕を振り回しながら小野が突っ込んできた。
正助は相手を止めるために正面に立ちはだかる。
恐怖で顔の引き攣った小野が縋りつくようにこちらの身体を掴んだ瞬間、正助の脳裏に稲妻のようにある一連のイメージが閃いた。
それはときおり不意に、また無意味に正助の頭を占有する「暴漢に襲われたときどう対処するか」という妄想の一場面だった。
妄想の中の正助は暴漢が掴みかかって来ても決して慌てることはない。
彼はまず片足を後に引いて身体を横向きに開く。
すると直線的で単純な相手の攻撃を難なくかわすことができる。
だがかわすだけでは終わらない。
相手の身体が目の前に来た瞬間、突進の勢いを利用してすかさず突き放すのだ。
暴漢は頭から地面に突っ込んでそのまま気絶してしまう……。
正助は時々こんな愚にもつかないイメージトレーニングをする癖があった。
だが同時にそんな事態が実際に起こる確率なんてほとんどゼロに近いということも分かっていたし、仮に起こったとして現実は妄想のようにはうまくいかないだろうということも十分理解していた。
それがまさかこんな形で実際に遭遇する機会があるとは思ってもいなかった。
そのうえ自分でも驚くほど見事に妄想通りに身体が動いてしまうなんて。
気づけば泉から大きな水しぶきが上がっていた。
正助は条件反射的に小野の突進をいなして泉の中に突き落としてしまったのだった。
「やばっ……」
はっとして我に返る。
落下の衝撃から水面は激しく波打っていた。
「ごめん小野、大丈夫か!」
慌てて呼び掛ける。
だがリアクションは無い。
ショックのあまり反応もできないのだろうか。
なんせ助けてくれると思っていた相手から突然技を掛けられて水に突き落とされたのだ、無理もないことかもしれない。
正助は小野が落ち着いて上がってくるのを待った。
しかし暫くしても相手は一向に浮かんでこない。
(溺れているのでないか)
正助の頭から血の気が引く。
もう一度大声で呼び掛けてみる。
だがやはり浮かんでこない。
間違いない、小野は溺れているのだ。
どうする。
考えるまでもない、自分が助ける以外にない。
少し躊躇したあと正助は泉に跳び込む覚悟を決めた。
靴を脱いでカバンと一緒に無造作に放り投げる。
その場でじりじりと後ずさりを始める。
やがて助走をつけるのに十分な距離を前方に確保すると、思い切り息を吸い込んで、駆け出した。
全力で助走路を駆け抜けて、水際ギリギリのところで地面を踏みしめる。
まさに跳躍しようとしたその瞬間、異変が起こった。
突如として泉の中心あたりから渦が巻き起こったのだ。
正助は慌ててその場に踏みとどまる。
見ると渦は瞬く間に大きくなって、やがて泉のほとんど全体にまで広がる。
やがて渦の中心辺りの水の中から妙なものがせりあがって来た。
正助は唖然としてその様子を眺めることしかできない。
まず波うつような長い髪が水の上に現れた。
続いて豊かな髪に縁取られた白い頬、伏せた目、高い鼻梁。
そしてチュニックというのだろうか、古代ギリシャの女性が着ているような貫頭衣に包まれた上半身。
まるでおとぎ話に出てくる女神様そのものだ。
だがひとつだけおとぎ話と違う点があった。
なんとなれば彼女は異常にデカかったのだ。
単純に身体がデカい。
下半身は水の下に隠れているがおそらく全長にして5メートルはあるのではないか。
女神?はこちらの方を向くとにっこりと微笑みかけてきた。
正助も思わず会釈を返した。
女神は微笑を浮かべたまま語り掛けてくる。
「オノを落としたのはあなたですか?」
急に日本語で質問されて面食らう正助。
戸惑いながらも頭の中では素朴な疑問が次々と湧いてくる。
あなたはいったい何者なんですか、とかなんでそんなにデカいんですか、とか。
だが今は緊急事態、そんなことよりも先にはっきりさせねばいけないことがある。
小野が無事かどうかだ。
「ええ、ええ、たしかに俺が落としました。
だけどまだ浮いてこないんです」
正助は悲鳴にも似た声で答えた。
こうしている間にも彼女の命に危機が迫っているかもしれないのだ。
やきもきしながら女神に質問する。
「小野を知りませんか。
彼女は無事なんでしょうか」
すると女神はよくぞ聞いてくれましたとばかりに得意満面で泉の中に両手を突っ込んだ。
暫しアライグマみたいに水の中で何か探る仕草をしていたが、やがて目当てのものを見つけたらしく手を引き抜く。
彼女の手には奇妙なものが握られていた。
はじめそれは人形のように見えた。
だがすぐに女神の体が大きいせいでそう見えただけに過ぎないことに気づく。
握られていたのは紛いも無く人間だった、女の子だった。
女神は正助の目の前に手を突き出すと、人形遊びでもするように女の子をぽんと地面の上に立たせた。
その子は正助の知っている小野では無かった。
小野と同い年か少し年上くらいの見た目。
正助の学校の女子制服——不思議と水に濡れていない——を着ている。
ただスカートは小野などよりも随分短く上げて履いていたし、ブラウスの胸元も開けていた。
金色の明るい髪色を払う指にはネイルが光り、顔面には女子高生に稀によく見られる出所不明の自信を湛えた笑みを浮かべていた。
彼女は畢竟、ギャルであった。
「あなたが落としたのはこの金のオノですか?」
女神は言った。
「え、金の……なに?」
正助が意味が分からずまごまごしてると目の前のギャルが口を開いた。
「自分で落としといて忘れるとか、ひどくない」
ずいぶん気安い話し方だった。
言葉遣いで相手との適切な距離を測るというような手続きを始めから放棄しているかのようだ。
「いや俺が落としたのは」
「小野でしょ。あたしじゃん」
正助は目の前のギャルをまじまじと見た。
だが自分の知っている小野とは明らかに別人だった。
髪の色も違うし身長も本物より高い。
それに胸の大きさも全然違う、明らかに本物よりも大きい。
「あなたは、小野さん?」
「当たり前でしょ。
なに寝ぼけてんのオタクくん」
小野はオタクくんなんて呼び方はしない。
同姓の別人ということだろうか。
「あなたが落としたのはこの金の小野ですが?」
女神がさっきと同じ質問を繰り返す。
「いえ、違いま……」
「あたしでしょ! あたし!」
否定しようとしたら金の小野が割って入ってくる。
「よく見なってオタクくん!」
そう言うと上向きの胸を正助に突き付けるようにして迫ってきた。
「ちょっと待って……、あんまり近寄らないで……」
正助が金の小野の陽の気にあてられてまごついていると、
「あのー、早く答えてもらっていいですかね」
女神が答えを催促してきた。
「ちょっと状況が掴めないんですって」
正直にそう言うと女神はめんどくさそうに、
「じゃあ、もうとりあえず次行きましょう、次」
次ってなんだと思っているうちに女神はまた水の中に手を突っ込んで何か探し始める。
やがて手を引き抜いたと思ったら、今度は別の女の子を握っていた。
女神はその子も正助の前に立たせた。
「あなたが落としたのはこの銀のオノですか?」
今度の女の子は銀色の髪をしていた。
金の小野は本物の小野より身長からなにから色々大きかったが銀の小野は逆に小さい。
ぱっと見中学生、下手をすると小学校高学年くらいに見える。
やはり正助の学校の女子制服を着ているがサイズはぶかぶかで手も半ばまで袖で隠れてしまっている。
正助がまじまじと観察している間、銀の小野はというと相手を一瞥だけしてあとは何の興味も無いとばかりにそっぽを向いた。
そして女神の方に振り返ると、
「なぁ、もう帰っていいか?」
男の子みたいな口調で言った。
そこで正助はあることに気づく。
女子の制服を着ていたから何の疑いもなく女の子と思い込んでいたが、よくよく見れば同じ年ごろの女の子とは体つきが若干違うような気がする。
オーバーサイズの制服に覆われた細身の身体からは成長期の少女の、あの外界に否応なくはみ出していくような肉の気配をあまり感じないのだ。
「あの、この子もしかして男の子じゃ……」
率直な疑問を口にすると女神はこともなげに、はい、と答えた。
正助は呆れた。
もはや元の小野と性別まで違っている。滅茶苦茶だ。
「かわいいんだから別に構わないじゃないですか。
よく見てください、ほら、ほら」
女神は銀の小野を掴んで正助にぐいぐいと押し付けてくる。
なりゆき至近距離で見る羽目になったが、たしかに銀の小野はきれいな顔をしていた。
女の子のように伸ばした髪は細くしなやかで、中性的な顔立ちも相まって地味な本物の小野などよりもよほど華やかな雰囲気がある。
正助はなにやらばつの悪いような、落ち着かないような奇妙な心理に囚われる。
まるでうっかり同年輩の女の子のパーソナルスペースに入ってしまったときのような居心地の悪さがあった。
銀の小野はそんな正助のそわそわした、挙動不審な様子をじっと眺めていたがやがて、
「ふぅーん」
何か得心がいったというようににんまりと笑った。
銀の小野は突然正助の腕を取ると、
「お前が落としたのってさ、オレだよな? な?」
甘えるような声を出した。
相手の態度の豹変に正助は戸惑う。
「えっ、なんかさっきまでと態度違くないですか?」
「べつにぃぃぃ」
銀の小野はとぼけて見せた。
「じゃあ落としたのは銀の小野ってことでいいですか?」
女神がまた訊いてくる。
「いや、そういう訳では……」
「そういうことにしとけって」
腕にまとわりつきながら銀の小野が囁いてくる。
「ちょっと!
落としたのはあたしじゃんって!」
二人の様子を見かねた金の小野が割って入ってくる。
「しっ! しっ!」
銀の小野は野良犬でも追い払うみたいに言った。
「あっ! オタクくん今の見た!?
このガキんちょ最悪なことした!」
正助を挟んで金の小野と銀の小野はいがみ合いを始める。
「ちょっとやめてください……」
正助は弱々しい声を上げるが二人は威嚇し合うのを止めない。
「さっさと答えないからですよ」
女神はまるでこんな状況になったのは正助の責任であるかのような口調だった。
「そんなこと言ったって僕が落としたのはどちらでもないんですよ」
「じゃあもう、次のオノに行きましょうか。
これで最後ですよ」
女神は水の中を探るとまた一人の女の子を取り出して、ぞんざいに地面の上に置いた。
見覚えのある顔を見て正助は思わず声を上げた。
「小野! 無事だったのか!」
「杣くん!」
最後に水の中から出てきたのはよく知る姿の小野だった。
正助は小野に駆け寄る。
「ごめん俺、つい技を掛けちゃって……」
「ううん、いいの。
私もクマに背中を見せて逃げちゃったからおあいこだよ」
かみ合ってるんだか合ってないんだか分からない会話を交わしていると、
「あなたが落としたのはこのただのオノですか?」
女神がお決まりのセリフを吐いた。
「ただの小野……」
正助は思わず口の中で反復した。
ずいぶんと失礼な言い方な気がしたのだ。
しかし今の状況、つまり小野が3人もいるという状況下ではそのな呼び方も仕方がないのかもしれないと思い直す。
それに華やかな金と銀の小野と比べるとただのという言い方は、残念ながら小野の雰囲気をよく表していると言わざるを得なかった。
ともかくも三人目にしてようやく正解が現れたのだ。
正助は答える。
「僕が落としたのはこのただの小野で……」
「「ちょっと待った!」」
言い終える寸前に横から金の小野と銀の小野の二人が言葉を遮る。
「オタクくん、よく考えなって!
そんな地味な子よりも絶対わたしじゃん!」
「そんな野暮ったいのに比べたらオレの方がまた色気があるだろ!」
二人は盛んに失礼なさえずりを始める。
なにをそんなに必死になっているのだろうか。
「杣くん。
落としたのは私だよね?」
ただの小野も不安そうに聞いてくる。
女神が心なしか厳かな声で最後の質問をした。
「あなたが落としたのはどのオノですか?」
「僕が落としたのは……」
「金の小野です」 …… 2へ
「銀の小野です」 …… 3へ
「ただの小野です」 …… 4へ