待ち焦がれし宿敵
砂煙を巻き上げながら、オフロード車のタイヤが止まる。
降りた二人を待ち受けていたのは、地平線の彼方まで広がる大草原だった。
「んー、良い空気。素晴らしい眺め。飛行機を乗り継いで、はるばる星の裏側まで来た甲斐があったわね」
ミチルはふんわりと髪を靡かせながら、目一杯伸びをした。
流星ミチル、旧姓桜庭ミチルはワタルと結婚する以前は、髪を腰のあたりまで伸ばしていた。
現在は肩口に届かない程度のミディアムヘアだが、ワタルはよく今の髪型の方が彼女には似合っていると言っている。
「オーバル共和国ヘベライ州、ベルフェア国立公園……。写真で見るのと実物とじゃえらい違いだな。これだけ壮大な自然に触れていれば体のダメージの回復も早そうだ」
ワタルはズボンのポケットに手を入れ、すまし顔で風を感じていた。
「感謝してほしいわ。私と一緒でいなければ、まず訪れることの出来ない場所なんだから」
ミチルは眼鏡の下の大きな瞳で得意げにワタルの顔を見上げた。
彼女は普段コンタクトレンズを使用しており、このような眼鏡姿は稀である。
ベルフェア国立公園。この建物一つない、手付かずの大草原は面積約七千平方キロメートルにも及び、低木とイネ科の植物がひたすらどこまでも続く、文字通り緑の大地である。
ワタルたちが現在立ち止まっている場所は本来一般人が入れない区域であるが、ミチルの研究者としての立場がそれを可能としていた。オオムシ神という、世界中どこにでも現れる脅威は国や文化すらも越えた人類共通の敵であり、それゆえ優秀な研究者の持つ権限は国境による制限を受けない。
二人は景色を数枚写真に収めると、再び公園管理局よりレンタルした車に乗り込んだ。
「しかし舗道されていない道路というものは運転し辛いものだな。努力はしているつもりだが、どうにも車が揺れる。ミチル、大丈夫か」
「いえ、あなたの運転ははっきり言ってましな部類よ。ガイドに任せると大抵もっとガタガタだけれど文句の一つも言えないもの。本当に気楽でいいわね、夫婦水入らずっていうのは」
「そうか、それはなによりだ」
少し安心した様子で、ワタルが溜め息をついた。
定期的にフィールドワークに付き合うようになったとは言え、彼がこのような外国での調査にまで同行するのはこれが初めてのことである。それも今回に限ってはミチルの方から言い出したことではなく、ワタルの方から提案した要望であった。
「でも今でも信じられないわ。あなたがはるばるこんな所まで私の調査のお伴をしたいだなんて言い出したことが」
「言っただろう。家に一人でいると無駄に体を虐めそうだったのと、今回は“ヤツ”のはっきりとした痕跡をお目に掛れるんだろう? ぜひこの目で見ておきたくてな」
「はいはい。まったく、直接会えるわけでもないのに恋人のように言うんだから……。困った人だわ」
車はゆっくりと、道なき道を進んでいく。
この自然公園には多種多様な野生動物が生息し、適当に車を走らせているだけでも本来、至るところでその姿を目撃出来る筈である。
「しかし、先程から草はこれだけ生い茂っているのに動物らしき影はまるで見当たらないな。その事実がすでに、奴がここに来たということを物語っているか」
「ええ、報告からはもう五日は経つのに、未だに通り道付近に生物が一切寄り付かないというのは、恐怖に敏感な野生の危機管理能力ゆえでしょうね。現にそういった事例は過去にも何度か報告されているわ。あなた、止めて」
「これは……。間違いないな」
道の左手に現れたのは、大蛇のようにうねりながら果てしなく伸びる、抉りとられた地面の痕だった。
周りを見渡しても近くに氾濫するような川はなく、当然このような地形が自然発生することはあり得ない。
「通った後は地形が変わる。古今東西ありとあらゆるオオムシ神の中でも、そんな個体は他にいないわよ」
「ああ、俺も何度も間近で見たことがあるから分かる。しかし、この光景を見ると嫌でも思い出すな。ヤツと戦っているときのあの胸の疼きを」
ワタルの肩は震えていた。しかしそれは恐怖から来るものではない。
そんな彼に、ミチルは珍しく冷めた目をして言った。
「何度も言うようだけど、私は狩り師としてのあなたの大ファンだし、あなたの考え方も尊重しているつもりよ。でもね、はっきり言って今まであなたがアレと戦って生き残ってこられたのは奇跡としか言い様がないわ。アレは他のオオムシ神とはまるで次元が違う。あなたがあなたらしく正面から戦って、どうにかなる相手ではないのよ」
「何度も聞いた話だが、お前は相変わらずヤツのこととなると豹変するな。俺はそこまでどうにもならないという認識はしていない。そしてもし次にヤツと遭遇したとしても、俺は戦う。お前だってこの間、俺がオオムシ神に食われる時まで付いてきてくれると言ってくれたじゃないか」
「確かに言ったわ。けれど端から勝ち目のない相手に無謀過ぎる戦いを挑んで、なにも出来ずに無駄死にするのを見るのは嫌よ」
「だからそんなもの、やってみなければ分からんだろう」
「……行きましょう。こんなところでこんな話をしていても無駄よ」
二人は車から降りると、現場の元へと歩み寄った。
近付けば近付くほどに、そのスケールの大きさが浮き彫りになっていく。
横幅にしておよそ十メートル、周辺の草は枯れ、隕石でも降らない限り出来ないような深さの溝を作りながら移動するオオムシ神など、普通に考えればあり得る筈もない話である。
「ミチルはこの跡からなにか分かるものなのか?」
「ええ、それが仕事だもの。ちょうど雨季から乾季への移り変わりで雨が少なかったのが幸いね。少しでも手掛かりを残していなさいよ――“黒皇帝”」
そう言うとミチルは率先して溝を滑り降りていった。
黒皇帝。
即ちこの超弩級の規格外個体の生態調査、並びに進路予測こそが、現在の彼女の研究においての最重要課題であった。
* * * *
黒皇帝。
その個体は一見ムカデのようなフォルムをしているが、他のオオムシ神とは一線を画す漆黒の皮膚を持っていた。
全身の至るところからは刃物のような鋭い棘が生え、体長は五十メートル超。
最高速度は時速百キロをも上回ると言い、通過した地形を破壊しながら、ありとあらゆる物を食い散らかす習性を持つ。
三十年前に初めてその出現が記録されて以来、その黒き暴君は数々の狩り師たちを返り討ちにしながら暴虐の限りを尽くしてきた。
今や、名実ともに最大にして最強のオオムシ神である。
「あら、この土……。わずかにここの土と色が違うわね。体に付着した土が剥がれ落ちたものかも知れないわ」
「そんなものを調べてどうするんだ」
「どこから来たか分かるかも知れないじゃない。こういう僅かな手掛かりをひたすらかき集めて考察して、それを何度も繰り返して、行きそうなところを絞り込んでいくのよ」
「なるほどな。しかし分かっちゃいるが、気の遠くなるような作業だな」
「仕方ないじゃない。普段は地中や海を進むから衛星じゃ捉えられないし、その強さゆえに発信器の取り付けも出来やしない。各地のセンサーが地上に出たアレを捕捉してからじゃ避難は間に合わないのよ」
ワタルは腰を屈めて夢中で土を採取する妻の背中を見ながら、邪魔にならないようにその場で突っ立っていることしか出来なかった。
「そう言えば黒皇帝は一時期、オオムシ神とは別の生物ではないかという説が浮上したことがあるんだよな?」
「ええ、体の色もさることながら、一切の繁殖能力が確認されず、巣を持たずに彷徨う習性を持つからそう言われてきたわ。その後の研究により繁殖能力がないのは彼が女王個体ではなく、なんらかの原因で巨大化した雄の兵隊個体であるからだと判明したんだけど、その独り身ゆえの身軽さから来る放浪癖は古くから人類の頭を悩ませ続けてきたのよね」
今回のケースのように地表に彼が姿を現すのは稀である。
黒皇帝は普段地中の比較的浅いところを掘り進み、大海すらも平然と泳いで渡る。ゆえの神出鬼没。そして一度現れれば狩り師の集団や軍すらも寄せ付けず、すべてを喰らい尽くして去っていく。
この三十年間において、彼が都市部に現れたのは計七度。
その推定犠牲者数はゆうに二万人を超えていた。
「よし、採取完了よ。あとは体毛の一つでもあれば今の黒皇帝の体調が分かったりもするんだけれど。正直、病気で弱ったりしてくれたらいいのよね」
「冗談じゃない、それじゃつまらんだろう。と言ったら怒るか?」
「あなたねえ」
「……後で美味いものでも食いに行くか」
「そうね。口に合うかどうかは分からないけど、この地方の郷土料理には単純に興味があるわ」
そこからしばらく、無言の時間が続いた。
なにかのレーダーらしきものを手に持ち、溝のあちこちを歩き回るミチルをよそに、ワタルは雲一つない晴天をぼんやりと見上げていた。
そのとき彼が思い描いていたのは、巨大な黒いオオムシ神と激しい戦いを繰り広げる、大きな槍を持った男の姿であった。
「……まあ、あなたが黒皇帝との戦いに拘りたい気持ちも分かるわ」
ポツリと呟くようにミチルが口にする。
するとすぐにワタルは返した。
「俺も、お前が俺に奴と戦わせたくない気持ちも分かるさ」
五日前にあの黒皇帝が現れたとはとても思えない、長閑な風が二人を包み込んでいた。
その後二人はホテルのある街へと戻り、仲良く揃って絶品のオーバル料理に舌鼓を打ったのだった。