現実とプライド
「言っちゃあ悪いが、あいつが助けに来なくてもあの場面、俺ならなんとかなった」
愛車である群青色のスポーツカーのハンドルを握りながら、ワタルは口を尖らせた。ちなみにこの車はスターとして周囲から舐められないようにと、ミチルの薦めで三年前に購入したものである。
助手席の窓から外の景色を眺めていたミチルは、眉を八の字にしてワタルの横顔を見た。
「ええ、それはもうさっきも聞いたわ。私もそうだと思うけど、客観的に見れば彼があなたの命の恩人ということになるのは間違いないのだし、だからこうして日を改めてわざわざお礼をしに行っているのでしょう?」
「ああまあ、それはそうだ。そうなんだが屈辱であることに変わりはない。仮に百歩譲って俺があの場面やられたとして、戦いの中で死ぬのは別に恥ではない。後輩の、しかもよりにもよってあのジョージに守られたことが屈辱なんだ」
「気持ちは分かるけれど、それを顔に出したら駄目よ。相手に伝わって余計ややこしいことになるわ」
「そんなことは分かっている。流石に俺もそこまで子供じゃない」
ジョージの屋敷に近づくにつれ、街のあちらこちらに彼の活躍を讃えるポスターや顔写真入りの看板が増えてきていた。
二年前にはワタルの写真が貼られていた場所ですらも、今や彼のものに置き換わっている。
サウスランド州でも一二を争う富豪である黒岩邸の敷地は、ゴルフ場がすっぽり入るくらいに広く、案内人なしではまず迷うほどであった。
ワタルたちは黒服の執事に案内され、立派な応接室にて彼の登場を待つこととなった。
「これはこれは。あの社交性のなさで有名な流星先輩がわざわざ訪ねて来てくれるだなんて、光栄なこともあったものですね」
金髪の伊達男、ことジョージ黒岩は予定の時間の五分遅れで現れた。
やたらと高級そうな白シャツの胸元を開け、これまた高級そうなネックレスをチラつかせるそのセンスはテレビなどで見せる彼のキャラクター性そのものである。
「ふん、社交性のなさはこいつと一緒になって幾分は改善されたさ」
ワタルの紹介に合わせて、ミチルがぺこりと頭を下げた。
ジョージはそれに合わせるように軽く会釈をすると、言った。
「ほほう、噂通り綺麗な奥さんですね。僕もそれなりに女性を見てきましたが、これほど知的で品のありそうな方はなかなかお目にかかれませんよ。さあどうぞお二方ともお掛けになって」
ワタルは長話に付き合うのは御免と言わんばかりに客人用に用意されたソファーに腰かけると、ジャケットの内ポケットから一枚の小切手を取り出した。
「ミチルを褒めてもらったことに対しては礼を言う。だが俺は、嫁を自慢しにここに来たのではない。こないだの戦闘ではその……世話になった」
「おや先輩、これは一体なんのつもりです?」
「先日の件で協会から受け取った依頼料だ。知っての通り成功報酬の分は貰っちゃいないが、こいつはお前が受け取るに相応しい」
するとジョージはへらへらと笑いながら、差し出された小切手を突き返した。
「嫌だなあ先輩。僕が現在いくら稼いでるか知ってるんですか。こんなはした金、あってもなくても変わりませんよ。というかこれ、流星先輩にとっては久しぶりの有り難い収入なんじゃないですか? そんな大事なお金頂けませんよ。お気持ちだけで結構です」
「なんだと。なら助けられた借りはどう返せばいい」
困惑した様子のワタルに対し、ジョージは肩を竦めながら次の言葉を口にした。
「だからお気持ちだけで結構ですって。僕からしたら、善良な一般市民を一人守ったのと同じなんですから。先輩、僕からのアドバイスですが、もう少し現実を見たほうが良いですよ。確かに昔は強くて人気だったかも知れませんが、いつまでもそのつもりでいない方がいいってことです」
「なに!? それは、どういうことだ」
「先輩の今の戦い方は危なっかしくて痛々しいって、周囲は見てるってことですよ。この調子じゃ協会もますます先輩を起用することは減っていくでしょうね。まあでも引退するなら安心してなさってください。今後先輩の担当していた地域の平和は僕が守りますから。先輩はもう居ても居なくても……あ、さすがにこれは失礼しましたか」
ワタルが熱くなる寸前に、ミチルがそっと彼の腕に手を触れた。お陰でワタルは肩を震わせながらも、目の前の男に殴りかからずに黒岩邸を去ることができた。
しかし無論、それで納得がいかなかったのは言うまでもない。
その日、ワタルはプリン三個をやけ食いした。
そんな彼が協会本部に呼び出され、猛喧嘩をして帰ってきたのは翌日のことである。
ワタルは帰宅するなり無言で冷蔵庫を開けると、上着も脱がずに昨日に引き続きプリンをガツガツと食べ始めた。
明らかなやけ食いである。
ミチルが見兼ねて声を掛けると、ワタルは酷く苛立った様子で語り始めた。
「奴らは俺がもう雑魚相手にも通用しないと思っていやがる。こないだの場面はジョージの奴が助けに来なくてもなんとかなったと、何度言っても聞く耳すら持ちやしない」
「このところ苦戦続きで前回のアレだからそう思われていても仕方がないわね。さっき少し覗いてみたのだけど、ネット上でも今のあなたは見ていられない、引退したほうがいいという意見で溢れていたわ」
「ふん、今まさにその引退を勧められてきたところだ。直接的な言い方は頑なにしなかったが、奴らが言いたかったことは要するにそういうことらしい」
「協会はあなたのような一流狩り師をクビに出来ないものね。かといって干すのも印象が悪いから、あなたの方から引退宣言してくれると助かるという話でしょう。それで、どうするの?」
「どうするもこうするもない、辞めるかよ。俺はまだ戦える。協会の支援がなくたって、一人で狩りを続けてやる。どうせ俺にはそれしかできん」
「そう言うと思ったわ。まあうちには子供もいないし、生活が出来なくなることもないでしょう。あなたがいずれオオムシ神に食われるそのときまで、ミチルはあなたについていきます」
「まったく、お前はよくこんな俺を好きになってくれたよ……。そうだミチル」
「はい?」
「鉄分だ。貧血対策でしばらく鉄分を食いまくるぞ。ミチル、鉄分たっぷりの料理を頼む」
「分かったわ、でも貧血予防には鉄分の他にビタミンCも重要ね。あなたはこれからトレーニングに行ってくるの?」
「ああ、三時間ほどで戻る」
ワタルは走らずにはいられなかった。
走りながら、今一度考えを纏める時間が必要だった。
狩り師は極めて危険な職業である。強力なオオムシ神が相手ならば、協会が推す絶対的なエースが呆気なく死ぬこともざらにある。
であるにもかかわらず、自分がこの仕事に拘り続けている理由は何なのか。彼は先程自分にはそれしかできないと言っていたが、実際のところはそうではない。他にも生活の為の賃金を稼ぐ手段はあり、彼は自ら好んでこの道を選択していた。
高い技量と人並み外れた体力、そして命を賭けるだけの覚悟。狩り師とはそれらを併せ持つ、言わば選ばれた人間にのみ可能な職業である。
つまりそれだけ多くの人に注目され、羨望の目で見られる面は否定できない。
それも確かに理由の一つではあるが、ワタルが戦いに身を投じ続ける真なる動機は、そのような他人依存の部分には存在していなかった。
そしてそれは純粋に弱者を守りたい、人の役に立ちたいという、綺麗な感情ともまた違っていた。
人間の欲求において、最も高いレベルにあると言われる、自己実現欲求。
その圧倒的な充足感を、ワタルはオオムシ神との戦いの中にこそ、見いだしているのである。
命を賭けた戦いにおいて、自分のスタイルを貫きつつ相手を蹂躙することでのみ得られる、何物にも代えがたき自己肯定感。怪物の猛攻を紙一重で掻い潜り、本能のまま切り刻むその瞬間は、彼にとって己の才能を最大限発揮していると感じられる場面であり、すなわち人生において最も幸福な瞬間であった。
ワタルはそんな自分が狂っていることを自覚してはいた。
しかしその一方で三十を越えた今となっても、いまだ胸が熱くなるような戦いに飢えていた。
ゆえに外野がとやかく言おうとも、彼の脳内に引退の二文字はあり得なかった。
「そうだ、俺に最初から迷う余地などない。俺は協会のためのスターがやりたいんじゃないんだ。戦いの中に身を置いてこそ、流星ワタルだ」
速度を上げ、風を追い抜き、ワタルは走る。次第に体の痛みすらも快感に変わっていく。
彼が狩り師を目指した切っ掛けを辿れば、幼少時にまで遡る。
オオムシ神に襲われた故郷の村を救った、おとぎ話よりも格好良い英雄への憧れ。そのときの彼は確かに、自分もあんな風に強くなって皆の力になりたいと純粋に願った。
しかしそれが戦いを重ねるにつれ、いつしか彼は重度の戦闘狂と化していた。
その過程において彼の理解者は次々といなくなっていったが、彼本人は気にも留めていなかった。
「まったく、ほんとあいつは変わってるよな」
ワタルはふと、妻のことを思う。
彼の大ファンだと言って近づいてきたその女性は、死に急ぐような彼の生き方を理解し、尊重し、それでも一緒に寄り添う道を選んだ。
そんな女性が他に一体どれだけいるか、ワタルは想像すらも及ばない。
結婚して以降、彼は常々ミチルに自分がいつ死ぬか分からないことを説いてきた。
その度にミチルは頷き、あなたなら大丈夫だと言い続けた。
けれどもし次のオオムシ神との戦いで、本当に自分が身勝手に死んでしまったとしたら。
考えかけ、ワタルは力強く首を横に振った。
「くだらない。俺は負けたりなどしない。第一、あいつも俺の強さを信じてくれているんじゃないか」
引き締まった顔つきで、走るペースをさらに上げる。目的地点である隣町の工場跡までたどり着くと、ワタルは背中から槍を下ろし、穂を覆っていた布を外した。
この工場跡は彼が修練場として買い取った土地であり、ゆえに一般人が立ち入ることはない。
そこから彼は二時間、気の済むまでひたすら槍を振り続けた。