ワタル、出撃
とある人里からそう遠くない山中、月の明るい夜である。
フクロウや鈴虫たちの鳴き声がそこかしこに聞こえる中、硬い地面がひび割れ、まるで針のように鋭く尖った、昆虫の足と思わしき物体が天に向かって突き上げた。それらは二本、三本と瞬く間に増えていき、各々しきりに周囲の土を掻き分けてはどかしている。
やがてその中心から、化け物のように大きな昆虫の頭部が隆起した。虫頭は左右に首を振り、周辺の様子を確認すると、再び足で土を掻き分ける作業を再開させた。
盛り上がった土の中央から本体がようやく姿を見せたのは、その約十分後のことであった。
月光を乱反射し、銀色に輝くそのあまりにも目立つ体は、外敵の目を欺く必要のない強さを物語っている。
大型のクマよりもさらに一回り大きい程度の、オオムシ神としては中型のサイズであるが、その個体には蜘蛛のような八本の足が備わっていた。
地表に出たばかりの八本足は顎をしきりに左右に動かし、口からは涎を垂らしている。
と、次の瞬間、その口の中央から長い舌がカエルのように伸び、木の上に止まっていたフクロウを捕まえた。
オオムシ神は個体により身体的特徴や能力が異なるが、この攻撃は他のオオムシ神にはない、この個体固有のものである。
八本足のオオムシ神はあっという間にフクロウを呑み込むと、美しい銀色の体躯を赤く染め上げた。こちらはすべてのオオムシ神に共通する特性であり、食事の直後、正確には生物の生き血を取り込んだ直後は全身が赤く発光し、身体能力や皮膚の硬度が一時的に向上する。
やがて八本足のオオムシ神は律儀に掘り返した土を綺麗に元通りになるまで踏み固め、その場を立ち去った。
行き先は定かではないが、目的は大方決まっている。
現れたばかりのオオムシ神がまず初めにすることと言えば、拠点として居座ることの出来る、餌の豊富な場所の探索である。
そして向かった方角は、運悪く人里のある方であった。
ビーッ。ビーッ。ビーッ。
ワタルの携帯電話の着信音が、突如として鳴りだした。
この警報音のような喧しいメロディは、協会から連絡が来た時専用のものである。
例え泥棒が侵入してきても動じないトレーニング中のワタルでも、このときばかりは例外であった。
即座にダンベルを床に起き、ワタルはソファーの上に置かれた携帯電話を手に取った。
「……承知した。今すぐ準備をする。ミチル! 出動要請が出た! 行ってくる!」
間髪入れずにクローゼットから特性の防護ジャケットを取り出し、袖を通す。
特殊な防刃防弾加工が施されたこのジャケットの防御力はかなりのものであるが、それでもオオムシ神の本気の一撃を正面から受ければ致命傷は免れない。
「ひさしぶりの出動要請ね。まだ怪我は完治していないのだから無理をしては駄目よ」
「なんでもジョージのやつが講演会とやらで出張中で、にわかには出動できないらしい。まったく、若いのにいいご身分だぜ」
肘にプロテクターを装着しながら、ワタルは上機嫌そうに言った。久々の実戦に、狩り師としての血が湧き立っているようである。
一方のミチルはそんな夫とは対照的に、冷静にタブレットの画面を眺めていた。
研究者としてそれなりの地位を得ている彼女は各関連機関との繋がりを持っており、それゆえ彼女はワタルよりも先に出現したオオムシ神に関する詳細情報を知ることが出来た。
「どうやら集落に現れた兵隊個体と思わしきムシ神には、蜘蛛のような八本の足が生えていたそうよ。生まれてきた兵隊には女王の身体的個性が反映されるから、潜んでいるオオムシ神も八本足の可能性が高いわね。だとするとかなり機動力が高いということも予想されるから、気を付けて」
「そうか、だが実際に見てみないと分らんな。なんだかんだで現場に行って肌で感じた情報が一番頼りになる。その辺はまあ、出たとこ勝負だ」
彼の驕りとも過信とも取れるこのような発言は今に始まったことではなく、むしろこの自信こそが流星ワタルの強さの源であるとも言える。
その辺のところはミチルも十分に分かっているのか、それ以上の口は出さなかった。
長年の相棒である大槍を装備し、ワタルの準備は完了した。
通常兵器の通用しないオオムシ神に対抗し得る特殊な武器とは即ち、オオムシ神の皮膚組織を素材として用いた武器である。それらは血を取り込むことで強くなるオオムシ神の特性をも反映しており、つまり真価を発揮させるためには代償として使用者の血液を必要とした。
ワタルの槍もまたその例に漏れず、左腕から這わせている特殊な血液供給チューブにより、本人の任意のタイミングで切れ味を調整することが可能であった。
「それで、肝心のオオムシ神の居場所は分かったのか。さっきの電話じゃ、目下調査中だがもうすぐ分かりそうとのことだったが」
「ええっと、今入った情報によると潜伏場所が確定したみたいね。現在そことは離れたところで小型の兵隊たちと地元の警官隊が交戦中、付近の村の住民は既に避難が終わったみたい」
「了解した」
ワタルは今の話を聞き、今回のケースも少なくともかつて彼が経験したような大惨事には至らなさそうであることを確信し、安堵した。
今回のように人口の少ない山間の集落に突然現れた場合であっても、対応がこれだけに迅速であるのは、それだけオオムシ神と人類の戦いの歴史が浅くないことの裏付けと言える。
とは言え、世界各地の人里の周辺に兵隊個体以上のムシ神に反応するセンサーが設置されたのはつい最近のことであり、その立役者こそが彼の妻である流星ミチルであった。
「ん、どうやら迎えが来たようだな」
いつの間にか窓の外から回転翼によるけたたましい音が聞こえてきていた。
狩り師を自宅から現場へと運ぶ、協会専属のヘリコプターの羽音である。機体はやや旧式だが性能に対する信頼性は高く、またワタルが乗りなれた機種でもあった。
「頑張ってあなた。クレイジーストームの華麗な復活劇を期待しているわ」
「ああ。任せろ」
高々と右手を上げ、ワタルがヘリへと乗り込む。
白髪頭の年老いた運転手はワタルとよく見知った仲であり、彼は過去に何度もワタルを戦地へと送り届けていた。
「久しぶりじゃな、お前さんを現場に運ぶのは。最近はまたいろんな奴が出てきたが、わしはお前さんの戦いぶりが一番好きじゃよ」
「爺さん。ヘリってのは最高速度でも三百キロほどなんだろ。ジョージの奴を見習って協会も専用ジェットとかを買う気はないのか」
「馬鹿を言え。あの組織のどこにそんな予算がある。上はお前さんたちの給料を支払ったら、後は自分たちの私腹を肥やすことしか考えないような連中だぞ」
「それもそうだな」
ワタルは小さく笑うと静かに目を瞑り、狩り前のルーティーンである瞑想へと入った。
果たして彼に今のような軽口を言うほどの余裕があったのか、それとも胸に抱える一抹の不安の裏返しなのか、その答えはもうじき始まる戦闘で明らかとなる筈である。
* * * *
「ハァ……ハァ……」
ワタルの息は上がっていた。
大槍を構えた姿勢のまま、彼はもうかれこれ十分近くは走らされている。
ミチルが事前に警告した通り、八本足の動きは素早かった。
それぞれの足を巧みに運ばせ、木々生い茂るこの森の複雑な地形の中でも、驚異的な高速移動を見せていた。
またこの個体独自の特性である、舌による攻撃も強烈だった。
射程が長く、樹木さえも貫通するパワーゆえに木陰に身を潜めて盾代わりにすることもままならない。
しかしそれらは珍しいものであっても、ワタルが過去戦ってきた数々の強敵と比べて格段脅威と呼べるものではなかった。
ではなぜ十分以上もの間、彼がこの獲物を仕留めきれずにいたのか。
それは単にワタル自身の体が、本人の思うような動きをしていなかったからである。
「冗談じゃない。こんな無様な戦い……。ギャラリーの連中はそろそろ不甲斐ない俺に苛立ち始めているんじゃないか? いい加減しっかりしろ」
自身に言い聞かせるようにワタルは呟いた。
上空では撮影用のヘリやドローンカメラがしきりに飛び交い、その様子を中継している。
脇腹の痛みはやはり出ていた。しかし、今日の彼はそれだけではなかった。
体調が万全でないことを加味しても、多少のリスクを冒しさえすれば懐に飛び込む機会は幾度もあった。
それを悉く潰してしまうほどに、なぜだかこの日のワタルは慎重になり過ぎていた。
八本足が素早く舌を伸ばす。牽制と知りつつ、ワタルは槍の穂先でそれを弾き返す。
そして死角に回り込まれないように、すぐに相手の動きに合わせ移動する。
彼はこれをひたすら十分間、繰り返していた。
「これじゃ埒が明かないじゃないか。どうした、流星ワタル。お前はそんな臆病な男じゃなかったはずだ」
苛立ち混じりにワタルは吐き捨てた。
自身の現状に一番怒りの感情を溜め込んでいるのは、他の誰でもない本人である。
かつての彼は、危険を顧みない大胆な突撃が信条だった。
生きるか死ぬかのギリギリの瀬戸際の中でしか味わえないスリル、興奮、達成感。そして褒美として待ち受ける、多くの人からの拍手喝采。それらを味わうためだけに、ワタルはひたすら過酷なトレーニングを積み重ね、自らを追い込んできた。
自分が死ぬときは狩り師として戦いの中でのみ。そう決めたのはワタル本人であり、今までずっとそのようにして生きてきた。
だからこそ、彼には今のこの現状が許せなかった。
シュルシュルと風を切る音を伴いながら、またもや舌がワタルに向かって襲い掛かる。
ワタルはそれを受け流すと素早く切り返し、ついに八本足との接近を試みた。
この日はじめて彼の見せた積極的な行動である。彼もこの十分間、なにも考えずにただ逃げ回っていたわけではない。後手に回らされ苛立ちを覚えながらも、その裏で着々と相手の行動パターンを観察、およびそれに基づく分析をこなしていた。
その読み通り、八本足はワタルの思惑通りの方向に動き、両者が鉢合わせの状態で向かい合う形となった。
吃驚した八本足が慌てて首を横に振り、横薙ぎの形で舌を振り回す。
しかしその行動も既にワタルは予測していた。
深く体を沈み込ませてそれを躱すと、ワタルの槍が血を吸い、穂先が光りだす。
「ようやくか。手こずり過ぎだ……」
呟くワタルの脳内にははっきりと切り上げから始動する連続攻撃により、眼前の獲物が細切れになるイメージが見えていた。
大腿にぐぐっと力を込め、大地の反力を大いに感じながらワタルは叫んだ。
それはこれまで数々の難敵を葬り去ってきた、泣く子も黙る流星ワタルの必殺技である。
「くらえ必殺! シャイニング・テンペス……」
がくっ。
「――っ!?」
結論から言うと、技は不発に終わった。
医学的にその現象を説明するならば、貧血による立ちくらみである。
突如としてワタルの視界はぼやけ、次の瞬間彼は力なく膝を付いていた。彼の狩り師としてのキャリアは長いが、まさかこんなところでこのような初体験をするなど、夢にも思わなかったことである。
ワタルが膝を付いていたのはほんの二三秒であったが、命のやり取りにおいてその時間がどれだけ大変な時間であるかは、言うまでもない。
「くっ……」
表情を歪ませるワタルの身に、体勢を立て直した八本足の次の一撃が迫る。
丸太をも穿つ強烈な舌攻撃が放たれようとした、まさにその時であった。
ワタルがテレビで最近耳にしたようなジェット機のエンジン音と思わしき轟音がにわかにしたかと思うと、八本足の頭頂部に風穴が空いていた。
苦い顔をして、ワタルは空を見上げる。
その瞳に映りこんだのは見慣れた赤色の飛行機雲と、見慣れたパラシュートで落下してくるにやけ顔の伊達男の姿だった。
その光景はワタルにとって、まさに屈辱以外の何物でもなかった。