かつての英雄
かつて、国中を驚嘆させた孤高のオオムシ神狩り師がいた。
その男は他の狩り師たちが躊躇するような大型相手でも臆すことなく懐に飛び込み、他の狩り師たちでは持て余すような大槍を自在に振り回した。
その怒涛の連続攻撃を一言で言い表すなら、“狂気たる大嵐”。
人々は畏怖の念を込めて彼のことを「クレイジーストーム」と呼んだ。
というのも、今となっては過去の話である。
「おいミチル。見えてるか、あれ」
「ええ。こんな山中にあんな小さな女の子が一人でいるなんて。親とはぐれて迷子になったのかしら。しか
も進行方向に切り立った崖があって危ないわ」
「……行ってくる」
「はいはい。あなた、子供は苦手なんだから泣かさないようにね」
双眼鏡を持った女が言い終えた頃には既に、男は駆け出していた。
そこから少女のいる場所までの距離はおおよそ六百メートル。急こう配な上り坂な上にごつごつとした岩肌剥き出しの足場は悪く、一般人ならば相当歩行に苦戦するであろう道のりである。
この場合、登山慣れしている者ならまず焦らずゆっくりと、少しでも傾斜を緩やかにするためにジグザグに進む方法を選ぶだろう。
しかし男はその六百メートルを、まるで陸上の短距離選手のような軽快な足運びで一直線に駆け上がった。
「まったく、昔はこのぐらいで疲労を感じることはなかったんだがな」
全速力で空気を切り裂きながら、男は言い捨てた。
鍛え抜かれた彼の大腿とふくらはぎには疲労のサインである張りが確かに生じていた。
人間三十を超えると体力が徐々に衰えてくると言うが、五年ほど前の彼からすれば、まさか自分がこの程度の登山で息を上げることになるなど思いもしなかったことである。
「よっと」
藪から勢いよく飛び出し、男は無駄に華麗な受け身とともに少女の背後に着地した。
彼がこのような行動に至った理由としては、常日頃から実戦を想定して動く癖が付いているからとしか言いようがない。
少女は最初、男の登場にまったく気付かなかった。
それはなにも彼が気配を消していたとか、そういう話ではない。
赤い帽子を被った年端もいかない少女は、近くの木に止まる、小さな銀色の虫の観察に夢中になっているようである。
「こんなところに一人でいると危ないぞ。親はどうした」
「おじちゃん誰?」
「おじ……」
男の眉がピクリと反応を見せた。
それは彼にとっては言われ慣れていない呼称であったが、少女の歳から考えれば自分も十分におじさんなのだろうと、男は冷静に思い直した。
「俺は流星ワタル。一応この辺じゃ名の知れた狩り師だ」
「ふーん、しらない」
「そうか。それで、パパとママはどこへ行ったんだ」
「んーとね、山小屋ってところでご飯一緒に食べた」
「大分距離があるが、ここまで一人で歩いて来たのか?」
「うん。冒険してきた」
「……やれやれ。ミチルには悪いがもう一仕事出来てしまったようだな」
少女はワタルの顔を一目見ただけで、会話中もほとんど彼の方を向いていなかった。
彼女の視線を釘付けにするその小さな虫は木肌に止まったまま、二枚の硬い前翅をパタパタとさせている。
ワタルは目を細め、少女に尋ねた。
「その虫、なんていう虫か知っているか?」
「しらない。なんて?」
「ムシ神。ムシの神様と書いてムシ神だ」
「このちっこいやつ、神様なの?」
「いいや違う。そいつらは害虫を殺してくれる益虫であり、神々しい見た目からかつて神のように崇めた文化もあったが、そいつら自体はただ本能で生きているだけだ。神でもなんでもない」
「ふうん、そうなんだ」
「この個体はこれ以上大きくなることはないし、またこれ以上大きな個体を生むこともないだろう。だがまれに突然変異で現れるオオムシ神、つまりムシ神の女王個体というやつは危険だ。人を喰う」
「え、喰うの?」
びっくりした様子で、少女が目を丸くして振り向いた。
ここで初めて、ワタルと少女の目がまともに合う。
「ああ、喰う。だから放っておくとまずいんだ」
「じゃあどうするの?」
「俺たち狩り師が狩るのさ。俺たちはそのために存在しているんだ」
誇らしげにそう語ったワタルの瞳には、そこにいる虫の白銀のボディに勝るとも劣らない輝きが宿っていた。
流星ワタル、三十四歳。
たとえ肉体が衰えようとも、彼の魂は未だに一線級の狩り師のつもりでいるらしい。
* * * *
「良かったわね。あの子、無事に親御さんの下へ帰ることができて」
そう言いながらミチルは実に気持ち良さそうな伸びをしてみせた。
このフィールドワーク中でのみ感じることの出来る、山の澄んだ空気と暖かな陽射しは彼女にとっての大好物である。
「ああ。だがスマン。おかげで貴重なお前の時間を台無しにしてしまった」
「いいのよ。私はあなたが人に感謝されるところが見られただけで嬉しいわ」
また始まったと言わんばかりに、ワタルは妻の顔から目を逸らす。
結婚してもう五年になるが、相変わらず彼はこのミチルの何気ない一言に調子を狂わされていた。
「俺のことはいい。まだそっちの調査の方がろくに出来ていないんじゃないのか?」
「そうでもないわ。あの子を連れてあなたと歩いている間にも色々見させて貰ったもの」
ミチルは手に持つタブレットを軽快なタッチで操作しながら、入手したばかりのデータを彼に見せつけた。
ムシ神の優秀な研究者でもある彼女のリュックにはありとあらゆる計測器が詰まっており、普通に歩くだけでもかなりの情報収集が可能であった。
「さすがだな。だが俺にそんなものを見せ付けられても、なにがなんだかさっぱり分からん。唯一俺に分かるのは、お前が優秀で抜け目のない女だということだ」
「まあ、あなたったら。このデータから読み取れる内容と実際に私が目で見た印象を照らし合わせて言えることは、この辺りにオオムシ神の出現は当分ないということよ」
「そうか。それはなによりだ」
「なにより? 自分の腕を振るう機会がなくなって残念だじゃなくって?」
「馬鹿を言え。確かに要請が来る前に自力で発見、駆除できれば俺の手柄になるが、さすがにそこまで落ちぶれてはいないさ」
凛とした態度で、ワタルは言い放った。
実を言うとワタルが彼女のフィールドワークに付き合うようになったのは、ここ最近になってからの話である。
あるとき医者から無視できないレベルの肉体ダメージの蓄積を言い渡された際、彼には定期的な心身の休養が必要であると、それはミチルの方から提案したことだった。
「さて、そろそろ山を降りてご飯にしましょうか」
「ああ。俺もちょうどお前がそう言い出すのを待っていたところだ」
「あらそうなの。もう、お腹が空いたのならそう言ってくれればよかったのに」
「そうもいかないさ。俺のせいでお前の貴重な時間を潰してしまったんだからな」
「まったく、こんなときばかりいい格好するんだから」
二人が山を降りて少し遅めの昼食を取るために立ち寄ったのは、ミチルがあらかじめ吟味しておいた小洒落たレストランだった。
サングラスの着用のみという、ワタルの顔をよく知るファンならば簡単に見破れてしまう少々間抜けな変装であったが、実際に彼の正体に気付けたらしい者は店内の客の中にはいなかった。
「ここの手ごねハンバーグ、かなり美味しいそうよ」
「なんでもいいさ。良質なたんぱく質を摂取出来るのならな」
「もう、またそういうことを言う」
ミチルはいつものように、呆れた素振りをして見せた。
二人はテーブル席に向き合い、注文が運ばれてくる間の時間を静かに待つ。
ワタルはカウンターに置かれていた新聞を徐に広げ、オオムシ神の出現情報やら他の狩り師の近況報告やらに目を通した。 一方のミチルはひたすらタブレットを操作しながら、先程得たデータの整理に勤しんでいる。
元々お互いによく喋る性格ではないため、交わされる言葉数は多くない。それでもワタルにとっては妻とのこの関係性が心地よかった。
そんな中、ふとワタルたちの後ろの席に座る男性客二人組がこんな会話をし始めた。
「おいおい聞いたか。ノーザンパークの村の方にでっかいオオムシ神が出たってよ」
「おっかねえな。この辺じゃ見たことないがアレ、どこにでも出る可能性あるんだろ? で、村はやられたのか」
「いいや無事だ。ジョージ黒岩が即座に駆けつけてやっつけてくれたそうだ」
「えっ、ジョージの地域ってサウスランドの方だろ? フットワーク軽すぎないか?」
「自家用戦闘機で颯爽と現れて空爆からの狙撃でワンショット。動画にも上がってたが、いやあ実に鮮やかな手際だったな。オマケに人当たりも顔もよく、女性人気が半端じゃない。実際、ジョージが来た後のその村は聖地化して相当の村おこしになったそうだ」
「いいなあ。こっちにも来てくんねえかな、ジョージ黒岩。やっぱ時代はジョージっしょ。他の狩り師とはモノが違うよ」
男性客は実に軽いノリで口にした。
無論、彼ら二人には前の座席にて新聞で顔を隠した男が、今現在どういう顔をしているのか知る由もない。
ミチルは身を乗り出し、小声でワタルに耳打ちをした。
「ですってよ、ベテランの一流狩り師さん」
「ふん、好き勝手言わせておけばいいさ」
しかし、ハンバーグを黙々と平らげる男の瞳には燃え滾る闘志の炎がみなぎっていた。