リアリティの追求は新しい検閲への対抗策であるかもしれない
『ダンケルク』や『シン・ゴジラ』は登場人物の内面を描いていない?2作品が象徴する映画の分岐点とは
https://theriver.jp/dunkirk-drama/
という記事を読んだ。
「ダンケルク」は未見だが、この記事は「ダンケルク」が「シン・ゴジラ」などと同様に内面を描いたドラマをあえて描かないようにしており、それによって体感型、細部のリアリティを追求したスタイルが生まれつつあるのではないかという評論である。
昨今特に、人間の内面を描いたドラマは作りにくい状況にあるのかもしれない。リアルな物語や映像であればなおさらのこと。いろんな立場・文化の人が作品をチェックできるので、単純なドラマでは必ず何らかの批判が生じてしまう。
ネット的全方位性が一種の検閲としてはたらく。大資本・大規模の作品をワールドワイドで作る場合には、なおさらであり、無難なドラマしか作れない。
ポリティカルコレクトネス(PC)に対する対応なのだが、インターネットを介した情報交換を含む世界的マーケティングにより、複数の文化圏にわたる大量のオーディエンスを対象にしなければならないとなる。そこでは複数の政治性がからむ状況での「全方位的PC」が要求されることになり、極端なドラマは作りづらくなる。
そこで、ひとつの解決としては、内面を描いたドラマを表面に据えずに細部のリアリティを突き詰めてゆくことだったのではないか。これによってひとまずナイーブなイデオロギー的批判をかわすことができる。
映画「この世界の片隅に」もそういう方向に走った。事実を基にしているのであるから、表面的なイデオロギーは存在しない「筈」である。すなわち、全方位プレゼンという新しい検閲に耐えうる構造になる。
とはいえ、そちらの方向に行くことでかえって見えなくなるものもありそうだ。体感型という評価などからも分かるように、要するに「それ」は事実そのものに近づいた表現、つまるところバーチャルリアリティ(VR)の世界なのだが、VRはどこまで行ってもバーチャルでしかない。
この場合リアルとは制作者側やインフラ、オーディエンス側などであり、そちらの側のほうは残念ながらイデオロギーから無縁であるとは言えないのだが、VRを追求することでひとまずその問題は無かったように見せかけられる。「解釈はご自由に」。「事実」を解釈する側の問題について作品自体は関係のないふりをすることができる。
言い換えれば、バーチャル側でのリアリティの追求を徹底すると、シンボルや寓意のような抽象化の技法が衰退してゆくかもしれない。しかし実際にはシンボルや寓意は「リアル」側の我々にとってずいぶん影響力が大きいものであったし、今でもあり続けている。その落差をVR的作品がその技法のみによって呈示することができるのだろうか。
「物語」とはもともとPCの規範を呈示するだけでなく、試行錯誤する中でそういった抽象性について思考実験する砂場としての意味があったのではないか。砂場なしに、いきなり「モノ自体」のVRに放り出されることで、オーディエンスが体感的アトラクション以外の何が得られるのかが気になるところだ。
2017/09/18