84話
『強奪』、という魔法がある。
術者が対象を絞り、その対象から魔力なり魔法の術式などを文字通り奪う魔法だが、闇属性に属する上、扱いが難しく、他者の魔力を自分の物とするため反動が強いために使う者は少ない。
しかし、この中で唯一の使い手であるアイヴィスは、義弟の生死にかかわる現状、自分の心配などしていられなかった。
対象は、仲間たちではない。彼らからは奪えるほどの魔力は最早残されていなかった。奪おうものなら、それこそ死に繋がりかねない。
では、誰から奪うのか。
ーー人でなければ良い。
大気や大地に宿る精霊に危害を加えないように細心の注意を払いながら、されど迅速に、ーーアイヴィスは自分から最愛の義弟を奪おうとする世界から、魔力を奪うことを選択した。
果たして、それは成された。
アイヴィスは世界から奪った僅かな魔力を基に、アルカナが見出だした一縷の望みに賭け、レイを腕に抱いて神湖へ転移する。
神湖のほぼ中央、真上に転移したアイヴィスは、重力に逆らわずに水の中へと飛び込んだ。
ドボンッ‼
大きな水飛沫の音を遠くで聞きながら、レイの身体をしっかり抱えて水中を潜る。
驚異の脚力で水を蹴り、一分もかからずに水底に着いた。
神湖の水底に触れた途端に、レイの身体が微かにだが淡く発光する。
ーーアルカナの予想は当たっていたのだ。
神湖の水は神山が水源である。
テオの力が雪月花の効力を齎しているのなら、神湖の水も同じく治癒の効力を持っているのではないかと考えた。
しかし空気に触れている部分の水にはそういった力が確認されていないため、正直博打であったのだが、彼らは見事に勝った。
ゴポリと、レイの口から空気の泡が漏れる。
それを確認し、アイヴィスは水面へと急ぐ。
ザバァッ‼ と勢いよく水面に顔を出す。
同時に、レイが水を飲んでしまったせいで大きく咳き込んだ。
ーー息をしていなかったはずの、レイが。
全身が濡れていることもあって本人すらも気付いていなかっただろうが、アイヴィスの眦には涙が浮かんでいた。
「っーー!」
レイの身体を掻き抱いて、アイヴィスは声なき歓喜の声を上げる。
息は吹き返したといえど、全快にはまだ遠い。
噎せるレイの背を叩きながらもう一度潜るべきかとアイヴィスが思案し、今一度潜水しようと息を吸い込んだところで、何か音がした。
ーーピチョン。
湖面が、波紋を広げる音だ。
何だ、と顔を上げたアイヴィスの正面。静寂を写した湖面の上に、それは佇んでいた。
黒い女。
それが、アイヴィスが彼女に抱いた印象だった。
美しい女であることは間違いない。
しかし陶器のようにまるで生気を感じさせない白い肌を縁取る黒い長髪、襤褸布としか思えない程ボロボロな真っ黒な長衣に、黒光りする最低限の鎧。爪すらも黒く塗られていて、そんな中浮き出たように目立つ真っ赤な瞳と唇が不気味な印象を与えていた。
不気味ではあったが、女の瞳は不思議と酷く凪いでいて、静謐な色を宿している。
だが得体の知れないことには代わり無い。
意識の戻らないレイを女から遠ざけ、僅かに残った魔力で魔法を構築する。
一歩、また一歩。ゆっくりと距離を縮める女に、アイヴィスはいつでも魔法を放てるように手を動かした。
ーーしかし。
練り上げた魔力が突然霧散した。
「なっ……⁉」
湖面がバシャリと音を立てる。
経験したことの無い現象に、アイヴィスは一瞬我を失った。
その一瞬の間に、女は残りの距離を零にする。
「……っ!」
アイヴィスは打つ手がないと、レイを固く抱き締め、女を剣呑に睨み付けた。
女は徐に腰を屈め、手を伸ばす。
レイの頭と、あろうことかアイヴィスの頭へと。
壊れ物を扱うように慎重で、尚且つ不器用な柔らかい手つきで二人の頭を撫でる女に、意表を突かれたアイヴィスは思わず呆気にとられて動きを止めた。ビキリと、盛大に。音を立てて。
気が済んだのか、女は姿勢を正し微かに首を傾けて小さく口を開いた。
ーーすまなかった。
誰かに、似ている声だ。
そして、女は登場と同様に忽然と消えてしまった。
大量の疑問符を頭上に浮かべ、謝罪の意味を掴みかねたアイヴィスと爆睡するレイを置き去りにして。
この時茫然としているアイヴィスは気付いていなかった。
数分後、ノエルをぱしりにして雪月花から作った神水を入手、魔力を解決させたディアたちが転移してくることに。
慌てて魔法を行使したことにより神湖の真上に転移し、無抵抗のまま湖に落ちること。
自分と、レイの魔力が、
ーー完全に回復していることに。
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