死刑執行
死刑執行
01
丹沢山地の雨降山に登ると、眼下に広がる関東平野の街並みが手に取るように見える。そこには街と街をつなぐ路と、人間達が営み生活する人々の顔が見える。
どこまでも続く縦横無尽に折り重なる路には、様々な人々が織物の織り目の様な規則正しくも複雑な交点を行き交う。
これはまるで、織物職人の手捌きを見ている様で、繊維と繊維が折り重なる事により浮かび上がる模様の様に、微妙に重なり互いに影響している様に見える。
「この模様が何かに見えるかい?」
遠い過去にこのようなことを誰かに聞かれたような気がする。
薄い記憶の中で浮かび上がる様々な記憶の中で、その事を証明する記憶が耳元で囁く神の声にも聞こえた。
渋谷駅前のスクランブル交差点、全国でも知らない人はいないこの大きな交差点は人が、ある能力を持った特定の人たちには特別な存在だ。
信号機が変わるたびに、何百人と渡る交差点をミナは睨みながら、ある特定と言われる人々の中で特に特定の男が現れるのを待っていた。
待ち伏せではない。観察をしていたというのが正解だろう。 渋谷109のある道玄坂下交差点と井の頭通りが重なり、側にはハチ公の銅像がある駅前広場、センター街入り口、ツタヤの大型ディスプレイ、行き交う人々がそれぞれ勝手に不規則に押し寄せる波の様に路面のゼブラを人々が埋め尽くし、上部の信号が赤から青に変化すると再び車たちに埋め尽くされる交差点は数時間から数分ごとにある人達にとってみれば特別な交差点となる。
時々話しかけてくる頭のふわふわした若い男の子や、ギトギトとした助平なおじさんを無視し続けて、もう二時間以上経とうとしている。 女子高生がこんなところでしかも制服姿でこんな長い時間交差点を眺めながら立っているのも不自然に映るらしく余計な奴らが寄ってくるが、そいつらはミナの鋭い視線に怖気付き後ずさりして去って行く。
「もうすぐね」
目の前のスクランブル交差点の信号が赤から青になり黄色を経て青になり、何度目かの青信号になると、次第に周りに映る渋谷駅も、井の頭線のコンコースも、その上に建つエクセルホテルまでも青色にかすみ、道玄坂の上にそびえる109が完全にブルースモッグに覆われる。交差点を行き交う人々の輪郭がぼやけ、残像がおぼろげにぼやけ、まるで幾つもに重なるフォロスコープみたいに映ると、時間の影が交差点に見え隠れして、人々に同行しているはずの残像たちがそれぞれ別方向に流れ出す。行き交う人達の速度が早くなり、同時に時間軸が伸びてスローモーションと早送りが同時に起こっているかの様で気持ち悪い。
交差点が青い霧に完全に支配され、各方向に拡がる時間のカーテンが一斉に開き、それぞれの方向から複雑に重なった人格の人間達が一斉に飛び出してきた。
ここは運命の五差路、人々は自分の運命をこうして幾つかの時間の交差点を通過する事によって自らの選択で変えてゆく。
それだけではない。 ここは他の世界、パラメトリック世界の交差点でもあるのだ。
交差点に入り込んだ人は、自分の持っている時空の分だけ分離して、重なり合いながらそれぞれ選んだ出口に向かって行く。多くの人達はそれぞれの時空に存在する自分と同じ運命の方向に向かって進んでゆくものがほとんどだ。
ほとんどというからには、そう出ない者もいる。
同じ様に同じ方向に向かって行くなかで、一つの影だけが別の出口の方向に向かって行く。
一部の天才と言われる人の影だ。
その影は弱く、もろく、崩れやすい。 しかし、一度光が当たると他の者を魅了するくらい輝き始める。 その才能はどの様なものかはわからないが、これからの人類が変化するに必要な黄金の輝きなのだ。
しかしこの交差点に中には、その様な真っ当な人たちだけでは無く、単独で行動し時空を渡り歩く「パラメトリカル」という特殊能力を持つ者達は、自分で時空を渡り歩き、運命を乗り越えられることができる者も混ざっている。
そのほとんどが自分の影を従えずただ通り過ぎて行くだけなのだが、一人だけ直進する人々の中に隠れて素早く物陰に隠れる者がいた。
「見つけた」
ミナは、目を輝かせ小さく呟き、その者の動向を交差点の外側からじっと観察する。
「ほーらね」
その者は青く霞んだ交差点の隅にある信号制御盤のボックスの陰に隠れ、時空の交差点が閉じるのをじっと待っている。
単独で時空を渡り歩く者達は、良く言えば天才、悪く言えば悪魔、いいや、悪魔より達が悪い魔物と言えるかもしれない。
しかし、ほとんどの者達は、その能力に気づかず、自分の能力に気づき積極的に実施しているのは一部の者達だ。
交差点の信号ボックスに身を隠し、ブルースモッグの残り時間が経つのを待っている目の前の奴は、悪魔より達が悪い魔物なのだ。
幾つかの物陰が重なり合って、青くかすれた交差点の信号が点滅を始め、今まであったブルースモッグが徐々に消え、バラバラだった時空の影達が一つに重なり、信号が赤に変わる頃にはすでに青いカーテンは閉じて、元どおりの渋谷駅前スクランブル交差点の姿に戻って行く。
信号機の制御盤の影に隠れていたそいつは、怯えた様に少し頭を出して、時空の交差点が完全に閉じたのを確認してから、何事もないように商店街の歩道を歩き出した。
02
「ふう、いつもこの時が不安でしょうがないぜ」
物陰から姿を現し、往来する若者の間をかいくぐり、足早に歩き出すと短く一言漏らし、物陰に隠れていた時のような怯えきっていた表情を一変させ、何もかもから解放されたスッキリとした表情で現実に戻った賑やかな商店街の角を慣れた足取りで素早く曲がる。先ほどの賑やかな表通りとは一変して古びた建物が並ぶ狭い路地となると、男は安心しきってゆっくりと進んでゆく。
ベージュのジャケットにズボンと、非常に目立たない服装で、通りを行き交う人々の雑踏の中に身を隠し、今度は古ぼけた民家の先をゆっくりと曲がると、全く違う雰囲気の殺風景な通りに入り込んだ。
いかにも男女のアレが目的と言えるホテルが乱立するこの場所のこの時間は、さすがに人通りが少ない。
それでも何組かの男女が建物の陰から現れては、隠れる様に建物の中に消えて行く。そんな建物から仲睦まじく肩を抱き互いに寄りかかる様に現れた男女が、ゆっくりと我が物顔で歩く奴をまるで悪いものでも見た様に避けて通り過ぎ、チラッっと見ては互いにヒソヒソ話しをしながら急ぎ足で去って行った。
やがて通りから人影がなくなり、全体ががらんと抜け殻の様になると、一人で通りを歩く彼の身体に変化が現れ始めた。背中が丸まり、妙に手が伸びて、足がガニ股となると、身にまとっていた服の間から獣の毛とも見える長い体毛がはみ出し、やがて身体中を覆い始める。
今迄起こしてきた悪行が体から滲み出し、身体の変化という形で本性が姿として現れ、この世の者とは思えない姿に思わず目を覆いたくなる。
「世も末ね」
黙って後をつけてきたミナは、巧みに獣と化した奴の周りに結界を作り、通り全体を隔離してから急いで出口に先回りをして待ち伏せをする。
ゆっくりと出口に向かって歩いてくる奴の姿を確認してから、ミナは自分の後ろにある出口に最後の結界を仕掛けた。
何も知らずゆっくりと歩いてくる獣と化した奴に向けて、ミナがゆっくりと歩き始める。正面からは奴が近づいて来た。
奴は正面から歩いてくるミナの存在に気付いて、街の女を値踏みする様に薄汚れた小さい目で、上目遣いに頭から足先まで舐める様に観察した後、ミナの下半身を極視する。
ミニスカートからさらけ出している太腿を舐める視線が気持ち悪い。細いウエストに力を入れると、自然に足の付け根から足先に向けて筋肉が硬直して防御に入る。
自分の身体の変化に気がつかずミナに汚い視線で舐める奴を、左側にかすめすれ違いざまに鋭く睨みつけ「あんたの運もこれまでだね」と囁いてやる。通り過ぎようとしていた奴は表情を一変させ、本能的に後退りをしてミナと距離をとると、今度は敵を見る様な目で睨み返してきた。
「だ、誰だ」
その慌てふためいた奴の様子に、もう人間としての表情も様相もない。
「誰だと思う?」
ミナはゆっくりと振り返り、白く長い足を少しだけ出して口元だけで微笑み、汚いものでも見るように睨み返した。この世の中、いいやこのパラメトリカルな世界の様々な世界に無数に存在する才能の数々、無数に点在する可能性を秘めた多くの少年少女の才能を利用するだけ利用し腐れ切った話術で誘惑し心を蝕み、体を蝕み、可能性を蝕み、教師という存在を傘にきて、もがき苦しんでいる子供達は救済もせずに、もちろん手も差し出さず、金銭を要求し、私利私欲の為に全てを奪い去り、そのくせ自分の心など傷めずのうのうと渡り歩いてきた悪徳教師が私の前にいる。
「ど、どこの生徒だ。繁華街への出入りは禁止されているはずだぞ。」
「誰だっていいでしょう。079号」
「そ、それを知っているということは」
「わかっているわよね」
「何をだ」
「え! 分かってないの」ミナは呆れたように深いため息をついて、罪状を突きつけるように言葉を続けた。
「お前は教師という身分を盾に、このパラメトリックな世界で将来その才能が開花するはずの有能な生徒を騙し踏み台にして、その生徒の未来を奪い、所持している能力を根こそぎ略奪をして利用した上に、営利を貪り、ばれそうになるとパラメトリカルという特殊な能力を利用して自分の良い様に時空の間をくぐり抜け、文化能力開発機構と時空警察の追っ手から逃れ続け、のうのうとしぶとく生きてきた極悪人。この外道!」と一気に吐き捨てもう一度ため息をついた。
遂に追い詰めた。
人通りを逃れ、本性を表すかのように変貌したそいつは、この世の者とは思えない赤く澱んだ腐りきった眼球をして、その腐りきった根性のように醜くねじ曲がった背中で身体中から生臭い匂いを発する生物は、これまでミナが見てきた実際の悪魔達よりもよっぽど悪魔に見える。
「終わりよ」
「それはどうかな」
079号はゆっくりと前後左右を見渡してから、ニヤリと腐った微笑みを浮かべ、後退りをしながらこの世の全てを腐らせ溶解させる威力があるドロドロに溶けた腐った黄卵のような視線でミナを睨みつけ、自分の腕時計を確認してから、路地の向こうに広がる小さな交差点に視線を向けニヤリと笑った。
「俺の運も捨てたもんじゃねえ」
079号は余裕をかまして、今度はその視線を再びミナの下半身に向け「だけど、美味しそうじゃな」とミナの白く長い足をキモいほど刺す。
そいつが何かよからぬことを想像していることを感じながらも「フッ。閻魔大王も裁きをためらう極悪非道なお前が行くところはもう一つしかないんだよ。もうすでに裁きは降りているんだよ」と最後通告を079号に告げた。
その時、急に何かを思い出したように目線を上げ「お、お前が噂の・・・」と急に震え、怯え、慌ただしく「もうすぐ、もうすぐ」と自分の腕時計を何度も眺めて、小さく「もうすぐ来るはずだ」と震える声で呪文の様に言い始めた。
「そうしたら・・・」
急に突然、何かに勝ち誇った様な口調になり、突然両手を大きく振りかぶって、間も無く出現するはずの時空の交差点に飛び込む準備を始めた。
「あんた、そんなものここには出現しないからね」
すでに現界とは切り離され、時空のパラメトリックからも切り離されている結界で囲まれたこの空間は、どの空間にも、どの世界にも、どの時間軸にも存在しない無の世界よりもさらに無の世界なのだ。
「そ、そんなはずねえ。」
「バッカね。だから人の褌で相撲をとるやつはダメなのよ」と呆れるミナを無視して、「もうすぐ、もうすぐ」とソワソワする奴はもうとっくに人ではなかった。
ミナの腕時計がその時を告げた。
「時間よ」
時空の歪みも現れず、出現する時に必ず現れるブルースモークもかからない、何も変化のない空間に079号は気がついて「そ、そんなはずじゃ」と何度も自分の時計を見て、周りの空間に何も変化が起こっていないことにようやく気づいて、追い詰められた鼠のようにミナの前で小さくなって小さく「来ない、来ない、こない」と小さく呟きだした。 そんな相手にミナが「だから言ったでしょう。 あなたはもう・・お・わ・り」と再度最後通告告げる。
悪い奴ほどちょっと自分がやばくなると逃げ出す。そこに大事な人が居ようと御構い無しに切り捨てる。
人、動物、すべての生物には自分独自の時間軸があって、同じような時間軸は絡み合うように複数で一緒に同じ時の流れを流れている。
それを異次元という者もいるが、普通の人たちは時々絡み合う時間軸の交差点を意識せずに通過している。
それぞれの時間軸は近隣同士、まるで綿密に編まれたセーターの毛糸のように互いに定期的に絡み合い影響しあっている。そんな状況で、殆どのものがそれを意識せずに生きているというのが現状である。
それでも、一部の「パラメトリカル」という特殊な人たちはその時間軸を異次元と呼び、しっかりと互いの意図を意識しながら時を刻み、互いに干渉せずに生きている。
その時間軸の絡みを利用して世の中には悪い奴がはびこっている。
そいつらを私たちは追い詰めこの世から浄化させる。
それがミナの仕事なのだ。
03
私は闇に生きる女。
悲しいけれど日の当たる場所には出られず闇を見つめ、闇を浄化する悲しい運命、死したものしかわからぬ心と感情を持ち、時間軸の闇を浄化する。死の世界を知って死の世界で出会ったあの人から貰った力を使いこの世を浄化する。
ミナがゆっくりと腕を広げ、ゆっくりと目を閉じるとミナの背後の景色を閉じ込めるように黒いカーテンが閉じ、周りの風景をブラックアウトさせる。その真っ黒いカーテンが二人の周りを何重にも取り囲み、ミナの作った結界は現界とを分離孤立させ次々に周りの景色を消してゆく。
ミナの狩りが始まった。
ミナの存在する空間と、この空間の人々が暮らす現界とを切り離し、自分の存在する空間を隔離することにより、狩られる者の視界を奪い、行先を奪うことにより狩りに最適な舞台を作り出す。
その闇の空間は、どの空間とも結びつかず、時空の間の空間にぽっかり現れた隙間に作り出したどこにも存在しない空間なのだ。
取り巻く空間に激しい風が吹き渦を巻く事により、ミナが立っている場所だけが僅かながら浮遊を始める。
風は怒りと悲しみが融合した変異的な普遍な存在、浮遊する足元それそのものがミナの心なのだ。
「ジョセフィーヌ、出番よ」
ミナの背後で揺れる黒いカーテンの向こう側にいるある男を呼ぶ。風が激しくなり黒いカーテンが怒りをぶつける様に大きく激しく動き、カーテンの向こうの闇の世界が見え隠れする。
「おい、その名前を呼ぶのはやめろと言ったじゃないか」
野太い魅力的な声がその闇の世界から聞こえ、背後に広がる暗闇がまるで雷雲のカーテンを引き裂く様に左右に分かれたと思ったら、その奥に広がる暗闇の中から、ゆっくりと黒いスーツに身を包み、身長189センチのすらっとした細身の男が現れた。
「こいつか、079というのは」
「ええ、そうよ。未来ある子供の滞在能力を食い物にして生きている化け物」
「化け物というな!」
ミナの獲物が最後の遠吠えをする。
黒ずくめのスーツをに身にまとった男は、真っ赤な口を開け「お前が化け物じゃなかったら、誰が化け物なんだ!このクズ野郎」と罵る。
化け物を罵る黒ずくめのスーツを着たその男こそ、世間的には死神と呼ばれる生と死を境をさまよう死者と言われる化け物なのだ。
「フッ。どうしようもない奴ね。ジョセフィーヌこいつをどうにかしちゃいなさい。」
「だから、その名前はやめろって言っているだろう」と言いながら胸ポケットからスマートフォンを取り出し搭載されているレンズを手負いの悪魔と化した079号に向けるとカシャっと写真を撮り、素早い手つきで撮った画像をどこかに送信した。
「便利になったもんだ」と口にしてそれを胸ポケットにしまうと、ミナに「こいつをどの様にするつもりだ」と聞いてきた。
「そうね。色々な次元を渡り歩き、悪事を重ねてきたのだから、だいたい9前後かしら」
「またまた、かなり」死神はまた真っ赤な口を開けておかしそうに笑う。
「ひ、他人事と思って、お、ず、ず、ずいぶんじゃないか」二人の会話を聞いてオドオドと周りを見る手負いの悪魔が食ってかかってきた。
その言葉を聞いて、ミナの堪忍袋の尾がとうとう切れた。
「随分?どの口でそんなことが言えるの?大体あなたがクイモノにした才能はどれだけだと思うの?この世に存在する人口のそれを支える次元の数だけの才能がどれだけこの世の中に必要な才能で能力だったと思うの?考えたことがあるの?私はその人たちが被害を受けた内容と今の人生をこの目で調べて毎日泣いていたわよ。それをそれを「随分」だって?恥を知りなさい」
「まあまあ、そう興奮しなさんな。オッ、返事が来た様だ」
死神が胸ポケットにしまっていた真っ黒いスマートフォンを取り出しにやりと笑った。
「やれやれ、少しでも陳情と思ったんだが、いまの事で帳消しになったみたいだ」とニヤリと笑い、ゆっくりとスマートフォンの画面を一旦ミナに見せてから、手負いの悪魔に見せる。
死神が思っている真っ黒いスマートフォンの画面には真っ赤な文字で大きく9と浮かび上り、その後に黄色く+の記号が浮かび上がってきた。
「おやおや、ボスは大変お怒りの様で」とスマートフォンに死神がキスをすると、続けて横にいたミナがその画面にキスをした。
「この調印の仕方どうにかならないかしら」とミナが少し文句を言って横にいる死神を見上げてウインクをした。
「ミナ、いいんだな」と死神はミナを見る。
「好きにして」
ミナは、死神を見上げてもう一度ウインクをした。
「そ、それは」目の前の手負いの腐った悪魔が、死刑執行の手続きが終了した事を悟って逃げようとする。
「逃げてもダメだから、ジョセ・・・ずいぶんな判定が出ちゃいましたね」
「まあ、裁きを受けようとする奴にぴったりの判定が出てくる仕組みになっているからな。 まあ、こいつには妥当な線だろう」
「そ、そんな・・・ヒエ〜」裁きを受けた目の前の奴が一目散に逃げ出した。
04
「待て・・・」
見えない結界の闇に向かい、逃げ出した悪魔079号を追いかけようとするミナの腕を、死神ジョセフィーヌが力尽くで抑え、強引に自分の胸に引き寄せて耳元で小さく囁いた。
「あいつはもう逃れられない」
「しかし、あいつが」と悔しそうに見上げるミナを、ジョセフィーヌが真剣な顔で「この刑の執行をお前は見ない方がいい」と見かけによらない厚い胸板にミナをのギューと引き寄せて、ミナが絶対に外を見ることができない様に自分のコートで完全にミナの全身を覆った。
「な、何するの」
強引なジョセフィーヌの行動に驚いて、彼の腕を振りほどこうとした時、背後を何か獣のようなものが勢いよく過ぎて行くのを感じた。
それは、逃げ去る悪魔を追いかけて、ミナの作った結界の壁に追い詰めて「ガルルル」と敵を威嚇する猛獣の雄叫びをあげる。
何が起こっているの?この向こうではどうなっているの? ミナの思考がめまぐるしく変化をしてさまよい始めようとした時、背後から人間とも野獣ともわからない雄叫びが聞こえ、その雄叫びはどんどん弱くなり、それに合わせる様に、肉が引きちぎれ、骨が砕ける音がすると、腐った血の匂いがした。
野獣が獲物を引き裂く様なグチャグチャという音と、とらえた獲物を頬張る激しい息遣い、同時に肉を引きちぎられるような音が聞こえる。
ミナの小さい肩を肉を食いばむ激しい音が続く限り押さえつけていたジョセフィーヌの腕の力が緩む。今まで激しく貪る野獣の鳴り響いていた肉を食い漁る音はいつの間にか消え空間は急に何事もなかったように静まりかえった。
「ミナ、もういいよ」
今まで固く力強かった腕の力が緩み、ゆっくりとミナを自分の胸から開放して、その代わり細い腰に腕を回しギュッと引き寄せた。
「何が起こったの? 確か、あのナンバーは・・・そして」
なんとか自分の気持ちを落ち着けて、そっと彼へ目線を見上げると「フッ、よりによってとんでもないものが出てしまったな」と苦笑いしていた。
「裁きのアプリ、消滅方法選択番号ナンバー9」て・・・、噂には聞いていたが・・・消滅選択法則の中でも最も残忍な排除番号、地獄からの使者として放たれた餓鬼という猛獣による抹消方法、その結末は裁きを行うものも目を背けるほど残忍だ。
「それだけあいつがひどいことをしてきたっていうことだ。当然と言えば当然だか・・・、死神の私もその執行現場を見るのは今回が初めてだ」
彼の腕も少し震えているのがわかる。見上げると彼の口元はこわばり震えている。眉間にシワを寄せる表情は、今まで起こっていたことの全てを見届けていたのだ。
「ジョセも初めてなの?」
残忍な処刑方法を見なかったミナが、全てを見届けた死神を見上げる。
「ああ、研修でも「最も悲惨な処罰方法」ということしか教えられなかったから、執行現場を見るのは今回が初めてなんだ」
ジョセフィーヌはミナの肩を抱いたまま「だけどひどかった」小さく呟いた。
徐々に結界が溶けてゆくのがわかる、
「だから、私をかばってくれたの」
ミナよりずいぶん高い位置にあるジョセフィーヌの顔を見上げると、ちょっと照れたように「そんなことはない」と急にそっぽを向いて、結界が解け始めた街の中をスタスタと急ぎ足で歩いてゆく。
「ちょっと待って」新しい時が流れ始めた街の中は、また誰もいない。
その誰もいない街の誰もいない歩道をミナがジョセフィーヌを追いかけて急ぎ足で歩き出すとミナの周りから徐々に結界が解け、現世を生きる人々が何事もないように出現して、それがやがて二人を人混みの中に隠し始めた。
「ちょっちょっと、待ってて言ってるでしょう」
ミナはかばってくれた時のジョセフィーヌの表情と行動が嬉しくて、急に顔が熱くなってゆく。それを隠すようにミナは、彼の腕に飛びついた。