子供の世界
小さな女の子を抱いて、若い夫婦が郊外電車に乗り込んできた。のんびりした休日の午後である。女の子は抱かれながら、つり革で遊び始めた。親が空いた席に座ろうとすると、「あたちは、すわらない」と言う女の子の声が車両いっぱいに響いた。乗客はその声に驚いた。野太く低い大人のような声だったのだ。
博物館の中央のホールに、巨大な首長竜の骨格が生きているように立ちはだかり、吹き抜けになった高い天井を見上げれば、細長い三角形の頭骨を持つ翼竜プテラノドンが深く切れ込んだ口を開き、肋骨を透かしている。そんな中を父親に手を引かれた幼い男の子が歩いている。周りの人が、そっと二人を見る。男の子はホール中に響く甲高い声で切れ目なく不思議な言葉を発しづつけているのだ。父親がふざけた顔をして、子供を巨大な熊の剥製の前に引っ張った。子供は恐怖の表情をうかべ、さらに激しく「ソラトナヘイカル、イタヌテヘレイト、ルレルレハトネ」と叫び身をよじった。
ショッピングモールを歩く親の後を幼い女の子が歩いて行く。手に持っているのは、裸の人形だった。女の子は人形の足を無造作に持ち、逆さまにぶら下げて歩いている。樹脂でできた人形は、ぼさぼさの灰色になった金髪が絡まり、青くかかれた丸い目を見開きピンク色の体を逆さにして運ばれている。すれ違う大人が振り返る。
幼児でありながら、脳の発達が最高度まで達している新世代が現れ始めていた。脳の能力とは別に、意思を表現する言葉の獲得時期や身体の成長が旧世代と変わらないというギャップのために、旧世代の大人は気づいていない。
脳の組織は幼児時期にある程度まで完成されているということは定説になっていたが、その組織が活性しているかどうか、能力がどのくらいかは、外部から様々なテストを行わなければ特定できない。チンパンジーに絵を見せて、同じものを選ばせると餌を与えるといった類だ。さまざまな知能テストが開発されていたが、進化した幼児は退屈な知能テストの意図をとっさに理解し、ぐずり、あきあきした表情を見せ、泣きわめき、投げ出す。そのため、旧世代が新世代の幼児の本当の能力に気づくことはなかった。
旧世代の大人たちの脳では、退行が進んでいた。未来技術は人間を労苦から開放し、創造的分野に向かわせると予想した一世紀前の未来白書はまったくのはずれであった。労苦からは開放されたが、芸術も文化も息絶えていた。科学により寿命は引き延ばされたが、単純なゲーム、電子音、デジタルな記号の会話に囲まれて無為に生きる大人の脳の退行は速かった。
そうした退行の過程で、一部の大人に、鬼畜性向と呼ばれる、自分より弱いものを襲う制御不能の性向が現れ始めた。モラルなどというものは、すでに抽象的な空事になって、何の力にもならない。表面的に明るく単純な世界の陰で、海の底のヘドロのような闇が広がっていた。底から湧き上がる腐った気体の泡のように、家庭で、街で、子供が犠牲になる事件が起きた。精子と卵子を預ければ、数か月後に子供を送ってもらえる時代に、大人たちは子供を守ることすらできなくなっていた。このような状況で、進化型の幼児が出現してきたのだ。
進化した幼児たちは、大人に手を引かれながら、自分たちの力で自らを守らなければならないと考えていた。事態は切迫している。そこで、遊びに連れていかれた砂場で、幼児語を駆使し、砂のかき回し方、シャベルやバケツの取り合いの手順を通して情報交換する方法を考案した。より小さな子は、ファーストフードの店先に集まった親達がベビーカーを並べて話し込んでだり、ベンチで端末のメッセージに没頭している間に、指をなめ、足の指を動かし他の子と互いに会話した。デジタルを使わない通信手段は、大人に知られることもなく、可愛いしぐさねと、にこにこしている間に、幼児たちは着々とネットワークを広げていった。
そして、密かに武器も開発した。それは、幼児の手にも握れる小さなものだ。相手に押し付けて操作ボタンを押せば、攻撃者の心臓を一瞬にして止め、仮死状態にする力を持つ。操作ボタンは細い穴の奥にあり、子供の指しか入らない。大人が取り上げようとすれば、その手の中で暴発させる。親だって容赦はない。また、幼児にしか聞こえない振動数の音を発して、仲間を呼ぶこともできる。三次元プリンター、家にある家電やおもちゃのパーツを集めれば、こんなものを造ることは彼らにとって何でもないことである。機器の操作は小さな子供でもできる。
通信網により、武器の制作方法はまたたくまに広がった。さらに、大人にわからないように、カバーも作る必要がある。そのデザインは各人に任された。
ひどく暑い日であった。家から街から、幼児の姿が一斉に消えた。子供達は、廃業して打ち捨てられたスーパマーケットに集まっていた。プレハブ建てのスーパは窓も壊れ、入り口のシャッターの一部はめくれ上がっていた。ちょうど、幼児なら通れる大きさだ。歩けないものは、少し年長の者が自分の背丈と同じくらいのベビーカの取っ手を押して連れてきた。たくさんの幼児が集まってくる。中は、ほこりっぽく乾き、棚が折り重なるように倒れている。電気も点かず、ところどころ壊れた屋根から入っていくる光だけだ。皆は、思い思いに、横倒しになった棚に座った。
アイスクリーム冷凍庫がひっくり返っていた。ちょうど、その上の天井に大きな穴が開き、光が注いでいる。大きな雲が風に流され、この穴の上に移動して影を落とし、また去っていった。何かが始まろうとしてる。一人の女の子が、そこによじ登った。
「あたちたちは、おとなに、ころされたりちない。おとなは、たちゅけてくれない。」と静かに言った。野太い低い声を出すあの女の子だった。声は周囲に響き渡り集まった何百人もの子供は静まり返って、その子を見た。次に冷凍庫の上に立ったのは博物館にいた男の子だ。甲高い声で、「ソラトナヘイカル、イタヌテヘレイト、ルレルレハトネ」と叫んだ。彼が武器の設計者だ。子供達には彼の意味が理解できた。そして、最後に、裸の人形を抱いた女の子が壇上にあがり、人形を頭上に高く掲げた。それにあわせて、子供達は一斉に持ち寄った武器を高く掲げた。思い思いにカバーがつけられている。ブロックを組み立てたロケット、ミニカー、熊の縫いぐるみ、粘土の家、段ボールで作った拳銃とさまざまなをカバーに隠された武器を、子供達は幼稚園バックのように肩からひもでぶら下げ、町に戻った。
事件が起こった。通報を受けて警官が駆けつけると、異様な光景が広がっていた。倒れこんでいる大人の周りを何重にも幼児が取り囲んでる。幼児は、それぞれの手におもちゃを持ち、見せ合ったり、駆け回ったりしている。一人の子が、「このおじちゃん、わるいちと」と犯人を指さした。