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何らかのトラブルに巻き込まれた都流樹。突然走り出す栗栖。状況がまったく把握できない燈莉だったが、彼には栗栖の背中を追いかけるほか選択肢がなかった。ライブステージのあるホールから外に出る通路の途中で栗栖が立ち止まっていたので、燈莉もすぐに追いついた。
「おそらく都流樹君はここにいるはずだ」
と言って歩みを進めたのは男子トイレ。燈莉はますます都流樹の置かれている状態がわからなくなったが、栗栖の後に付いて行く。
「いるかい? 都流樹君」
この問いかけに答えるのは、いつも聞きなれた都流樹の声。
「栗栖さん! 助かった。ちょっとこれなんとかして欲しいんですけど」
都流樹の声は扉の閉まっている個室から聞こえてきた。
「あの、都流樹さん。全然状況が把握できないんですけど、さっきの電話はどういう意味だったんですか?」
「おう、燈莉か。見ての通りの緊急事態なんだよ。身動きがとれねえ」
「見ての通りと言われても、ここからは何も見えないですし」
「だからさっき電話でも言ったじゃあねえか。止まんねえんだよ」
「いや、何が止まらないかもまったく分からないです」
「ウォシュレットだよ!」
燈莉は目が点になった。そしてあまりの馬鹿馬鹿しさに何もコメントすることができなかった。
「俺のデリケートゾーンは壊れたウォシュレットに執拗に攻められ続けている。しかし立ち上がれば惨劇が巻き起こるのは必死。言わばあれだ。敵の罠にかかってしまい、天井の壁が降りてきて押し潰されようとする状況の中で、ここは俺に任せろ! と自分の身を犠牲にする戦士。緊急事態の意味わかった?」
燈莉は溜息を一つして、頭を掻いた。少しでも本気で心配した自分が悲しくてしょうがない。
「とりあえず、ウォシュレットの電源を落とそうか……」
冷静に、そして呆れた声で言う栗栖。
「そうか。その手があったか! さすが栗栖さん。頭のキレが違うぜ」
と言ってウォシュレットの電源を落とし、トイレのドアを開けて都流樹が出てきた。
「ごめんね、都流樹君。そこのトイレのウォシュレットは壊れていたんだよ。張り紙をしていたんだけどね。どこかへいってしまったのかな」
周囲を見回して張り紙を探す栗栖。視界に入るところにはどこにも落ちていない。よく調べたところ、隣のトイレの便座の足元にあった。張り紙は剥がれてそちらに滑り込んでしまったようだ。
「それにしても焦りすぎですよ都流樹さん。あんな鬼気迫った感じで言われたら、何があったのかって心配するじゃないですか」
「悪い悪い。ドラマチックな場面を演出しすぎたか」
「僕は別にいいですけど、ほんと知りませんよ」
「ん? どういう意味だ?」
「天羽ちゃんがすごく心配してましたよ。こんなしょうもないことだってわかったら……」
燈莉がそこまで言った直後、男子トイレの入り口に天羽が現れた。口をへの字に結び、両腕を胸の前で固く組みながら仁王立ちしている。その目線の先は、真っ直ぐに都流樹の方へ向けられていた。不穏な空気を察知した都流樹は、助けを求めるように燈莉の方へ目配せをしている。面倒なことに巻き込まれる危険性を察知した燈莉は目を合わせない。
「ちょっと急ぎの用事を思い出したので行きますね」
早足でその場を後にする燈莉。
「そうだそうだ。機材の調整をしないと!」
栗栖も何かを察知したのか、そそくさとその場を去って行く。
残されたのはその小柄な体格からは想像できない程の気迫と威圧感を発する天羽と、ガタイの良さとは裏腹に小動物のように震えている都流樹。
「とる兄、よかったわね。緊急事態は脱したのかしら」
いつもの柔らかく黄色い声色ではなく、凛としたはっきりとした口調で言う天羽。さっき都流樹から電話を受けた時の雰囲気と似ているが、その中に怒りの感情が加えられていることは明白だった。
「えっと……どこから話を聞いていたのかな?」
恐る恐る言葉を選びながら言う都流樹。
「ウォシュレットが止まらないという下りから」
「ふーん。ウォシュレットの水が止まらないということが、そこまで緊迫した状況なのかしら。緊急事態? 何が? もうだめだ? 何が?」
天羽の鋭い言葉の詰問は続く。
「リハーサル前で時間がない時に、お前は何をやってんの? 人を舐めてんの? おい、黙ってないで答えようよ」
「ごめん、悪かったよ。この通り。だから冷静になろう」
天羽をなだめようと促す都流樹。二人の付き合いは長く、彼は今までに何度か天羽を怒らせたことがある。初めて天羽を怒らせた時は、そのあまりのギャップに衝撃を受けた。こうなってしまうと自らの非を認め、しかるべき謝罪を行わないと天羽の怒りは収まらない。どちらかというと大雑把な性格をしている都流樹は、この状況下における適切な言動がわからないので、ただ平謝りするしかない。
本来ならば説教はまだまだ続くのだが、今はライブのリハーサルが控えているので、天羽は必死に怒りを抑える。
「今度こんな冗談をやったら、小一時間の説教では済まされないのですよ」
いつもの声色に戻った天羽に、ほっと胸をなでおろす都流樹。今回はリハーサル前という状況に助けられたが、今後は少し気をつけないといけない。天羽を怒らせる度にそう心に言い聞かせる都流樹だが、日が経つとそんなことは忘れてしまい、また天羽を怒らせてしまうことだろう。しかしそれは気のおけない二人における、一種のコミュニケーションのようなものだ。
「わかったよ。そういやリハーサル、俺達の番だろ? 急ごうぜ」
天羽を促しステージのあるホールへ戻る二人。
キーボードのセッティングを終えた聖夜が、二人の姿に気付く。
「やっと戻ってきた! 時間押してんで、はよしーやー!」
大振りに手をバタバタさせて、おいでおいでの動作をする。燈莉にはその姿が大阪のおばちゃんを連想させ、ツボに入ってしまったのか顔を下に向け笑いを堪えている。
「もう何がおかしいん燈莉。あっ、瑠華まで」
燈莉の隣で瑠華も同じように笑いを押し殺していた。
「ごめん。みんな揃ったんでリハーサルを始めましょう」
いつものように淡々と言葉を並べる瑠華だが、発する声は少しだけ震えていた。
「みんな待たせたな。緊急事態から生還したぜ」
都流樹はそう言い放ち、なぜかキメ顔でステージに上がる。
「なんでそこでキメ顔なんですか? ウォッシュ都流樹さん」
ツッコミと共に変なあだ名を付ける聖夜。
「早くセッティングしてくださいよ。ドラムは準備に時間かかるんですから。ウォッシュ都流樹さん」
早く準備をするように促す燈莉。
「急ぐのです。時間がないのですよウォッシュ都流樹」
雰囲気で適当に話にのっかる天羽。
「だから俺が悪かったよ。頼むからそのウォッシュを名前の頭に付けるのは止めてくれないか。瑠華はそんな酷いこといわないよな」
「都流樹さんがふざけているからですよ。気を付けてください。ウォッシュ都流、ぷっ……」
言い切る前に噴き出す瑠華。いつもクールな彼女が笑いを堪えられない程、ウォッシュ都流樹の破壊力はすごかった。
これが後に名を馳せる名ドラマー、ウォッシュ都流樹誕生の瞬間である。
「Rhapsodiaのみんな、準備はできたかい?」
マイクを通してスピーカーからバンド名を呼ぶ声が聞こえた。ステージの対面にあるミキサー宅にはすでに栗栖がスタンバイをしている。
「大丈夫です。リハよろしくお願いします」
燈莉の返事でリハーサルが始まった。