俺と神山と、長谷川先輩だったうどん
2012年の熱く、そして心を高ぶらせる程に熱かったあの夏。まるで遠い昔の事の様に感じるあの頃。俺は全力だった。何もかも投げ出したって、この思いを甲子園へ伝えようと必死だったのだ。
俺は、俺達は、野球部の部員だった。総勢50名を越える野球部で、レギュラーと自らのポジションの座を争い勝ち残ろうとしていたのだ。
当時、俺は二年だった。高校生には夏の甲子園へのチャンスが3度ある。そのうちの1度目を逃した俺は、一年間。みっちりと高校野球のために体を馴染ませていった。
当時、うちの高校の野球部は弱小とは程遠く、一方で強豪一歩手前という微妙な立場にあった。
エースさえいれば。そう言われ続けていたのだ。あと一歩で一流の部活になる。甲子園にだって手が届く。
そんな風に噂される野球部で、俺はそのエースを目指していた。だが、本物のエースは別にいたのだ。
長谷川・康彦。一年上の先輩で、最後の夏に挑むべく鍛えあげられたその体からは140km級のストレートが唸りを上げて発射される。さらにそのストレートを際立たせる、まったく同じフォームから繰り出されたチェンジアップは、他校のクリーンアップを震撼させた。
俺と、もう一人。俺と同い年の神山は、その先輩の力に、何時の間にか魅せられていた。何時か、何時かこの人が、俺達を甲子園に連れて行ってくれるんじゃないかと、そう信じていた。もしかしたらチーム全体の共通認識だったかもしれない。
そんな先輩がある日、うどんになった。
「先輩! 先輩何やってるんですか! そんなんじゃあ、もう球投げられませんよ! 玉は先輩自身になっちゃって! 何やってるんです!」
うどんになった先輩に向かって、俺は無遠慮にそんな言葉を口にしていた。先輩にだって事情があったのだろう。当時の監督は、先輩を責めたりはしなかった。だけど、それはチームメイトとして、共に練習し、研鑽を積んできた俺達にとっては到底理解できないことだったのだ。
「黙ってたって分からないっすよ! 伸びちまいますよ! どうしてっ………先輩……。うどんになったって神山の事は覚えてるでしょう? 何時か、先輩が俺と神山に言ってくれたじゃないですか。先輩と、俺と、そうして上手いショートがいれば、甲子園だって夢じゃないぞって」
当時、俺は先輩の球を受けるキャッチャーだった。キャッチャーとピッチャーは夫婦などと言われるが、ならば後ろの守備は家族だった。
その中でもショートは兄弟達を支える長男である。ショートが良く飛び、良く走り回ることで、他の兄弟達に活気が生まれる。
「神山……今度の公式試合で、初回からショートに入るんっすよ。そうですよ! あのノロマなんて言われた神山が、この一年、必死に頑張って、やっと掴んだレギュラーなんですよ! 甲子園に相応しい名遊撃手が生まれたんですよ! それなのに………なんで………」
本当は、一番辛いのは神山の奴かもしれない。多分、俺よりずっと長谷川先輩に憧れていたのだ。なのに、こんな状況になっても、あいつは長谷川先輩を問い詰めようとしなかった。
だから、その役目は自分に周って来たのだ。そうして、叫ばずにはいられなかった。
「なんでうどんになってるんですか!!!!!!」
長谷川先輩がうどんになった俺達野球部は、脆く、その年の甲子園を逃した。準決勝でぶつかった強豪校の打撃力を抑えることができなかったのだ。
誰もが長谷川先輩がうどんで無ければと思ったに違いない。だが、長谷川先輩がうどんからピッチャーに戻ることは無かった。
「長谷川先輩がさ…………」
そう神山に呟こうとした俺を、神山は首を横に振って制した。言ったって仕方ない。長谷川先輩はうどんになったんだ。その事を、一番辛いはずの神山が認めていたのだ。俺にそれ以上、何が言えるというのか。
「来年………来年こそ、甲子園に行こうぜ!」
俺は神山に、それだけを伝えることにした。長谷川先輩はうどんになった。その時、俺は漸くその事実を受け止めたのかもしれない。
そうして次の夏がやってきた。その年も、俺達は熱く燃えていた。春に一つの奇跡が起こっていたのだ。
リトルシニアで活躍していたという新入生がうちの野球部に入部したのだ。勿論、希望のポジションはピッチャーだった。
うどんの長谷川先輩を埋める一年生ピッチャーの存在が、うどんの件で暗くなりがちだった野球部に火を点けた。
勿論、一年生ピッチャーに長谷川先輩ほどの力は無い。ただその分、俺達がその一年を盛り立てて行かなければという気風が生まれる。そうして、俺達の快進撃が始まったのだ。
一回戦、二回戦と順調に勝ち進み、ついには去年挫折した準決勝をも勝ち残る。
残すはあと一勝。相手は去年、うちの野球部を打ち破った強豪校だった。今年こそは負けられないと意気込む俺達だったが、チームメイト全員がある致命的なミスを犯していることに気が付かなかったのだ。
九回裏。2-1。2アウト満塁。少なくともあと一人をホームベースに返さなければ勝利は無い。そんな状況に追い込まれた俺達の野球部は、危機的状況に陥っていた。
皆、昨日の夕食を食べて来なかったのである。
緊張によるものか、うっかりによるものか。それとも昨日テレビでやっていたA○B48のプール開き! 私達のはしゃぐ水着姿、みんなに見せちゃいます! に釘づけになっていたか。
そのどれかが原因で、皆、空腹状態に陥っていた。良くもまあこれまで戦えたものである。きっと、甲子園が近いという事実に突き動かされていたのだろう。
だが、その思いもここで尽きる。お腹が空いて力が出ない。そんな当たり前の状況に叶わなかったのだ。
次のバッターは俺だった。だが、バットを握る手が震える。せめて、何か一口でも食べ物があれば………。
誰もがそう思った時、ふと、ベンチに何かがあった。
長谷川先輩だ。いや、長谷川先輩だったうどんだ。
皆の目が、うどんと、俺とを交互に見つめていた。何を言いたいのかは分かる。そうだ。長谷川先輩を食べろ。長谷川先輩はそのためにここに来たのだ。そう伝えている。
「そんなっ! ずずっ。無理ですよ! ずずー。このうどんは! ごく。長谷川先輩なんですよ!? ずっずっ。長谷川先輩のっ! ごくごく。長谷川先輩のうどんなんだっ! ぷはっ。うどんなんですよ!(あ、替え玉ありますか?)それをっ、おい! 神山! お前まで何食べようとしてるんだ!(うっす、ありがとうございます) ふざけんなよ! ずずっ。長谷川先輩のうどんを! ずずずー。俺が食えるわけないだろ! 出汁の追加お願いします!!」
何時の間にか、俺の体には力がみなぎっていた。具体的には空腹が満腹に変わっていた。もうバットを持つ手が震えることは無い。
腹を擦りながらバッターボックスに立つ。相手のピッチャーのストレートは県内最速だ。これまでうちのチームの何人もが打ち取られてきた。
だが、その球威も今に至り、疲労による衰えを見せ始めた。きっとお腹が空いているのだろう。
そうして相手ピッチャーは県内最速かもしれないが、それは今年の話。去年の最速投手は長谷川先輩だったのだ。
そんな先輩と俺は、今、一心同体になった。生半可な球に負ける気はしない。只々、相手のピッチャーの球を見つめる。
迫る白球。振り被るバッド。金属の高い音が鳴り響き、白球は青空に向かって突き進んでいく。
俺達の夏が始まった。