自惚れ
ふと気がついたら私は自室のベッドの上にいた。部屋の明るさからすると、そんなに長い時間気を失っていたわけではなさそうだ。
起き上がる気力もなかった私は、寝転んだままぼんやりと部屋の天井を眺めていた。
人の気配を感じてゆっくりと右隣に視線を向けていくと、そこには緋色の軍服を着た青年が椅子に腰かけ、本を読んでいる姿があって。
「――ッ!」
彼の姿を見た途端、私は飛び起きベッドの端へと逃げ出していった。
男の人……?
――俺なしじゃ生きられねぇようにしてやるからよォ!
先ほどの男の乱暴な声が、ねっとりと貼りつく視線が、あごに触れてきた指の感覚が、吐き気を感じるほど鮮やかに蘇っていった。
嫌だ、嫌だ、嫌だ!
男なんて嫌いだ! 早くどこかに行って……
体は小刻みに震えだし、血の気を失った私は目を見開いて青年を見つめていった。
そんな私の姿を見た青年は、読んでいた本を片手で閉じて困ったように笑う。
「そんなに怯えなくてもいいって。あんな男と違って俺は何もしないよ。それにルースとダンも近くの部屋にいるしさ。目覚めの気分はどう?」
穏やかな声と笑顔に、だんだんと私の震えも収まっていった。
たぶんこの人は大丈夫、あの男とはきっと違う。
一言も言葉を発しない私に呆れたのか、青年は言葉を求めてきた。
「そうやって黙られてもわからないよ。君の様子を聞きたいんだけど。俺は医者じゃないし、具合が悪いんだったら言ってくれないとさ」
彼に促され、ぽつりと私は呟いていった。
「気分は……」
青年は頷く。
「最悪です」
ベッドの端で体育座りをしながら、私は悔しさや苛立ちをこめて青年を睨み付けていき、そう答えた。
あの時、私はこれ以上ないっていうくらいに嫌なものをたくさん見せつけられた。
欲望にまみれた人間の醜い表情。
男という生き物の恐ろしさ。
我が身可愛さに恩人を見捨てようとした愚かな自分。
私やルースを救ってくれた青年に苛つくのはお門違いだとわかっている。
けれど、この心に渦巻くモヤモヤとした気持ちの行き場をなくしていた私は、誰かに当たらずにはいられなかった。
私が言葉を返した途端に青年から笑みが消え、突然部屋に沈黙が流れていった。
無音になった部屋が、彼の様子が怖い。
青年は怒っているのだろうか、うつむいてその両肩を小さく震わせている。
しまった……
猛烈に後悔した。
『さっきの兵士たちとは違う』だなんて、何を根拠にそう思っていたのだろう。忘れていたけれど、この人は兵士から追われている犯罪者だ。
もし彼を怒らせていたら、私の命は今度こそ尽きてしまうかもしれないのに。
急に様子が変わった彼が何を考えているのかわからず、恐怖ばかりが募っていってしまう。
そして、無言だった彼は突然顔を上げていく。
私はその様子に体を強張らせていったのだけれど……私の予想とは反対に、青年は何故か楽しそうに笑いだしていって。
「『最悪』ね。そうきたか! 俺はてっきり『生きててよかった』とか『助けてくれてありがとう』とか言ってくれるのかと思って、期待してたんだけどな。うん、自惚れすぎてたね。だけどまぁ君もそう言わずに、二人とも命があっただけよしとしておいてくれないか」
最後に彼はこちらを向いて、ふわりと笑っていった。
それまで大笑いしすぎたのか、目じりに一粒涙が浮かんでいる。
彼は自らの命の危険を侵してまで私たちを救ってくれた命の恩人だ。
そんな恩人に対する態度とは思えない行動を私はしたのに、怒りもせず笑い飛ばすなんて。
思ってもみなかった彼の返答と笑顔。
今までこんな不思議な人に会ったことなんてない。
私の心は、困惑と青年への興味とでいっぱいになっていった。
「あの、怒ってないんですか……? 助けてくれたあなたに、ひどい態度をとったのに」
私はベッドの端から離れ、恐る恐る彼に近づき尋ねていった。
「怒る? そんなことで怒るわけないだろ。まさか君は俺に怒られたかったから、あんな態度をとったのか」
「ち、ち、ち、ちがいます!」
もちろん私は全力で否定した。
怒られるのが好きな人、というイメージをつけられるなんて絶対に嫌だ。
いろいろと嫌なことが重なって気持ちを抱えきれず、つい当たってしまったと彼に話すと、彼は「そういう日もあるさ。さっきは怖かっただろう。そんなに気に病む必要はないよ」と優しく微笑み、慰めるように肩を軽く叩いてくれて。
会ったばかりで何もわからない。
ひょっとしたら犯罪者なのかもしれない。
けれど、私たちの命を救ってくれた。
そんな彼の大きくて温かい手の優しさに触れて、堰を失った私の目からは次々と涙がこぼれだしていく。
本当に不思議だった。
涙なんて、とうに枯れたものだと思っていたのに。
日本にいた頃はどんなに嫌なことがあっても、どんなに辛いことがあっても、泣いたことなんてなかったのに。
泣き止みたいと思っても、涙は止めどなく流れ続けてしまうのだ。
「ごめんなさい、迷惑ですよね……」
青年に謝り、涙を止めようと、袖で目元をぐしぐしと乱暴に拭っていくけれど。
「そんなの気にしないで、君の気が済むまで泣いていいんだよ」
穏やかで柔らかい青年の声がすうっと耳に入ってきて。
彼の優しい声と言葉が、長年私の涙を止め続けた分厚い涙腺の壁を決壊させてしまったようだ。
溢れた涙は止まることなく、いつまでも声をあげて泣き続けてしまったのだった。