dress as a woman
すれ違う市民の明るく楽しそうな声と、降り注ぐ温かな日差しとがとても心地良い。
私はまた、トラトス市の中心街にいた。
今度は散歩じゃなくて、ルースのおつかいをすませるため。
ルースや私が住んでいるこのトラトス市は王都から離れてはいるけれど『市』がつくだけあって、大きく賑やかな都市だ。
道行く市民は穏やかでどこか上品、そして気の優しい人が多く、いつも笑顔で声をかけてくれる。
私はルースから頼まれたトマトを買い終え、たくさんの新鮮なトマトが入った紙袋を抱えながら、幸せな気持ちで帰り道を歩いていた。
こんなふうな穏やかな毎日って幸せだなぁ、いつまでもこんな日が続きますように。
歩きながら心の中でひっそりとそう願うけれど……
そんな穏やかな気持ちはすぐに消え去り、びくりと体を強張らせた私はその場に立ちすくんでいった。
「あいつを逃がすな、殺してでも捕まえろ! あの男は緋色の軍服を着ているぞ!」
この穏やかな町には似つかわしくない怒号と、物騒なセリフ、兵士たちが誰かを追って駆けていく音が聞こえてきたのだ。
何、これ……?
ここは優しい人たちの住む穏やかな世界だと思っていたけれど、今まで気がつかなかっただけで、本当は戦いだとか殺し合いがあるのだろうか?
早く帰ろう、怖い目になんか遭いたくないもの。
そう思った私は紙袋を左手に抱え、ぐっと左足を踏み込んで駆け出そうとした。
したけれど……何故か前に進めない。
突然、後ろから何者かに右手を引っぱられてしまったのだ。
頭の方から一気に血の気が引いていくのがわかる。
怖い、嫌だ……早く逃げなきゃ!
そう思って、その手を振りほどこうと力を込めるけれど、今度は反対に相手のほうから引っ張られてしまった。
そして、私は何者かの左腕のなかにすっぽりと収まることになって。
これから人質にされてしまうのか、はたまた人攫いにあってしまうのか。
強く目をつぶり、ぞっと身をすくませた私の震えは止まらない。
「大丈夫、怖くないよ」
え……?
上から降ってきた言葉は予想とは大きく異なるものだった。
その声を聞いて不思議と震えが止まった私は顔を上げ、声の主の方を見上げていった。
「いい子だから大声出さないで。ただ仲良さそうに向こうまで一緒に歩いてくれればそれでいいから」
周りを気にかけながら、その人は大通りの反対側にある路地裏を指差し、小声で私に話しかけてくる。
そして、彼女を見た途端、恐怖の感情はどこかへ消え去り思わずうっとりと見とれてしまった。
海外のモデルや女優かと思うくらい、美しい人がそこにいたんだ。
ゆるくカーブを描く茶色のウェーブ髪。
すらりと背が高く、深い紫色の瞳をした中性的で整った顔立ちの女性。
薄桃色のロングスカートが彼女の美しさをさらに引き立てていた。
しばしその美しい顔とその気品に目を奪われていたけれど、はっと我に帰っていく。
いけないいけない。早く帰らないと。
争いごとなんかに巻き込まれたくはない。
確か、さっきの兵隊たちは『軍服の男』を探しているようだった。
だけど、目の前にいるのは女性だ。
良かった、とりあえず変な事件に巻き込まれてはいないみたい。
路地裏まで仲良さそうに歩いてほしい、という彼女の頼み事についてはよくわからないけれど、なんだか困っているようだし、一緒に通りの向こう側へと横断することにした。
「この道路を向こうに渡るだけでいいんですよね?」
にこやかに笑ってうなずいた彼女は私の背中を軽く叩き、ちらりと路地裏を見て呟いていく。
「さぁ、行こう」
私たちは反対側にある路地裏に向け、ゆっくりと道路を横断していった。
横断している最中彼女はなぜだか緊張した面持ちをしていて、それはまるで遠くで飛び交っている兵士たちの声を警戒しているかのようで。
「あの、何でそんなに緊張しているんですか?」
気になって彼女に尋ねてみたけれど、彼女はシィと人差し指を口元にあて、「あとでね」と小さく答えただけ。
びっくりするような美人だけど、とことんミステリアスな人だ。
路地裏に入り少し進んだところで緊張の糸がほどけたのか、突然彼女は大きく息をはいて大股開きで座り込んでいった。
「あー、死ぬかと思ったぁ。アイツ本気で俺のこと殺そうとしはじめたな」
そう言い終わると同時に彼女は真剣な表情へと変わり、あごに手をあてて悩み出していって。
「あの……」
急に雰囲気が変わった彼女に驚きながらも、すっかり私の存在を忘れられているようだったので遠慮気味に声をかけてみた。
「あ、ごめん! 考え事してた。君、ありがとう。本当に助かったよ。俺はまだこんなところで死ぬわけにはいかないからね」
無邪気に笑うその人は、またその言葉を使う。
こんな綺麗な人のその言葉はとにかく意外で……今度は私が悩み出していった。
「こんなに美人なのに、俺……? 俺かぁ……うーん」
女の人でもこっちの世界では自分のこと『俺』って言うのかな?
そうやって真剣に悩む私の姿を見て、彼女はぷっと吹き出し大笑い。
一体何がおかしいんだろう?
「ねぇ、見てて」
彼女はそう言って立ち上がると、まとっていた羽織を取り去り、茶色の髪のかつらをはずしていき、最後にはスカートのベルトを豪快に引きぬいていった。
そして、押さえを失ったスカートは、はらりと地面へ落ちていく。
この人、路地裏とはいえこんな街中で服を脱ぎ出すなんて、一体何考えているの!?
「お姉さん、誰かに見られたらどうするんで……って、えぇっ!!」
こんなの信じられない。
だってさっきまで、この人は……
美しい女性の姿はもうどこにもなかった。
その代わりに目の前に立っていたのは、真っ赤な色の軍服を着た青年で。
整った顔立ち、月の色に似た金色の髪、そして澄んだ濃い紫の瞳を持つその人は、中性的な顔立ちをしていたけれど、その姿はどこからどう見ても男性そのものだった。
くすりと笑った青年は、ゆっくりと私の前まで近づいてきて。
「お姉さん、ってやっぱり俺のこと女だと思ってたんだ。まぁ、それほど動揺させちゃったってことかな、すまなかったね」
優しく私の頭を撫でてくる。
「えっと……」
男の人から触れられることに慣れていない私は、目線を反らし逃げるように無理矢理話を変えていった。
「何でそんな女装なんかしているんですか? こっちの道に一体何があるって言うんです?」
私の問いに彼は苦笑いしながら話し出していく。
「女装は正直したくなかったんだけど……あの人が、出掛けるなら念のため持っていけって持たせてくれてさ。それがこんなところで役に立っちゃったんだよね」
「私が聞きたいのはそういうことじゃないんですけど……」
なんだろうこの人、緊張感があるのかないのかよくわからない。
「てか、こんなところでゆっくりしてる場合じゃない! 急いで行かないと」
はっとした表情で胸ポケットから懐中時計を取り出し、彼は慌てて走り出していった。
「ごめん、そしてありがとう。またどこかで会えるといいね!」
そう言い残して、不思議な青年は薄暗い路地裏の闇の中へと溶けるように消えていった。
なんだったんだろう、あの人……
金色の髪に紫の瞳。すごくきれいな人だったけど。
スカートを脱いだら、真っ赤な軍服っていうのもびっくりしたなぁ。
一人取り残された私は、空を見上げてぼんやりと考えていった。
「んー、あれ? 何かどこかで聞いた気がする。ええと、緋色の軍服を着ていたぞ……あぁっ!」
口に出してみてようやくわかった。
さっきの兵隊たちは緋色の軍服の男を追っていた。
緋色って確か、赤のことだ。
さっきの真っ赤な軍服の青年を、兵隊たちは追いかけていたってことだよね。
どうしよう、犯罪者を逃がしちゃったのかな……
気持ちがずっしりと重くなった。犯罪者の手伝いをしたことがばれたら、私までお尋ね者にされてしまう。
とにかく帰ったら、ルースに緋色の軍服の男についてそれとなく聞いてみよう。もしかしたらあの人は犯罪者じゃない、かもしれないし……
幸せな気持ちから一転、どん底の気分になった私は溜め息をつきながら、足取り重く家までの道のりをとぼとぼと歩いていったのだった。