ルグド王国
この世界に飛ばされ、ルースと出会ったあの日から早いもので数か月の時がたった。
最初のうちは日本と大きく違うこの世界に対し、戸惑い驚いてばかりで失敗や失言も何度もしていたけれど、日々を過ごすうちに少しずつ私はこの世界に馴染み始めている。
こうやって一人で町を散歩をするのももう怖くはない。
素敵な世界でよかったなぁ。
そんなことを考えながら、広がる青空を一人見上げる。
歩くたびにショートブーツが石畳にあたりコツコツと小気味いい音をたてていく。
削られた石やレンガで造られている家々も、舗装された石畳の道も、所々に置かれた花壇も芸術的で、いつか見たヨーロッパの街並みの写真に良く似ているような気がする。
散歩するだけでぜいたくな気分になれる素敵な町だと思った。
「おっ、ナミネちゃん。この間読みたいって言ってた本ようやく入荷したよ」
はたきを持った本屋のおじさんがひょっこりと飛び出して笑う。
「やったぁ! 本当ですか、帰りに寄っていきます」
この世界にはCDやテレビはないけれど本屋はあるようで、私はよくそこに通っており、おじさんとも顔見知りになっていた。
「よし来た来た。今度ルースにさ、うちの野菜仕入れてみないかって相談しておくれよぉ」
今度はエプロンをつけた八百屋のおばさんが私の左腕を引っ張り、猫なで声でそう話していく。
「定期的にハーブを仕入れたいって言ってたから今日聞いてみます」
そう言うと、おばさんは私の腕を離し嬉しそうな顔になっていった。
半年前に飛ばされてきたこの世界は、日本に比べてまだまだ工業も経済もライフラインも未発達なところだった。
移動手段は主に馬で、伝達手段は手紙。ガスも水道も電気もない。
ただ、多少の不便はあるものの交易は盛んなようで、こうやって中心街に来れば野菜や果物、肉や魚といった食材どころか、雑貨や衣服なども売っているし、案外過ごしやすいというのが正直な感想だ。
「ねぇねぇマリー。ジェイル様のお顔、拝見したことある? とっても美しいのよ。あの青い瞳に見つめられたらもう」
「ルグドの誇りよね。ああ……またトラトスに視察に来てくださらないかしら」
立ち話をしている女性二人の声が耳に飛び込んでくる。
頬を赤らめてうっとりした表情で話していた。
二人が話していたジェイルとは、私が住むこの国を統治している王だ。
何代も続くハルフォード王家の一族であり、まだ二十五歳というから驚いてしまう。
その若さでこんなにも大きな国を治めるなんてすごいと思う。二十五歳って高校で英語教師をしてた山崎先生くらいの年齢だし。
そんな若いジェイル王だけど、国民からの人気はとても高い。
ジェイル王は先ほどの女性たちが話していたように、とても格好良くて綺麗な人なのだそうだ。
それに、ルースの夫であるダンおじさんの話によると、王の父である前王は国民から賢王と呼ばれるほどの善政を敷いていたし、母のほうはルグド文字を普及させた才女の一族の末裔らしい。
賢王と才女の一族の間に生まれたジェイル王が愚王になるはずはないし国民からの人気が出て当然だ、ということだった。
恒例の朝の散歩を終えて部屋へと戻り、厚みのある本を開いていく。
これはこの国の歴史書だ。
リツ君の計らいなのだろうか。この世界の状況について事細かに書いてあり、私はそれを読むことが日課になっている。
もう一度、歴史書についていた周辺地図を確認してみるけれど、やはり知っている国は一つもなかった。
大小いくつもの国が描かれている中で、私が住んでいるこの国はどうやら《ルグド王国》というらしい。
ルグド王国の大地は他の国々と比べ、肥沃で広大であり、川や湖、山、平野や森といった自然に満ち溢れている国だと歴史書には記されていた。
そして、私の住むこの町よりもさらに外のほうに行くと、多種多様な文化をもった少数民族が村や部落を作って生活しているらしい。
そして、ルグド王国はここら一帯で一番平和な国だとダンおじさんは話していたけれど、実際治安についてはよくわからない。
城下から遠く離れた土地にある少数民族部落周辺の治安は悪くなってきた、と酒場に来た交易商のお客さんが話していたことが、少し頭のすみにひっかかっていたりもしていて。
ただ、この町にはそんな兆しは一切なく、大きな事件もないままに皆毎日を明るく楽しく過ごしている。
ルース夫妻や町民はとても優しかったし、私はこのトラトスというステキな町で、新しく生きていけることがとても嬉しかった。
しおりが挟まれているページを開こうとした途端、部屋の扉がノックされルースが遠慮がちに部屋に入ってきて。
「ねぇ、ナミネちゃん。さっき帰ってきたとこなのにごめん。お願いがあるんだけど」
ルースがこういう顔をするときは何があったのか決まっている。
「もしかしてまた仕入れし忘れちゃったの?」
私はパタリと本を閉じて笑った。
ルースはうっかり者なのか、しょっちゅう仕入れを間違えてしまう。
「さっすが、よくわかってるわね。あのね、トマトがもうなくなりそうなのよ。悪いんだけど、買ってきてもらえないかしら?」
「もちろん。トマトはいくつ買ってくれば大丈夫?」
私は明るく答えていった。ルース夫妻には感謝してもしつくせないほど、お世話になっているし、私に出来ることがあれば何でもしたい。
私の返事を聞き、ルースは手を叩いて喜んでいく。
「ありがとう、助かるわ! 八個もあれば足りると思う」
「じゃあいまから行くね」
そう言ってカバンを手にとって立ち上がり玄関へと向かっていった。
いつものようにルースに頼まれて、いつものように買い出しに出かけていく。
これが、私と彼が出会ったきっかけ。
幸せないつもの日常が終わる合図だったんだ。