62 Nightmare 氷の悪夢
空間が広がるにつれて足元を這うような重たい冷気が漂い始めた。
この刺すような冷たさには覚えがある。五年ほど前に雹ノ目君が魔力暴走を起こした時に味わったあの魔力に酷似していたのだ。
背筋に悪寒を感じて、思わず両手で自分の両肩を抱きしめた。
しだいに寒さは勢いを増し、息を吐けば真っ白な気体が宙を漂う。
「こりゃ、思ったよりキツそうだな」
と、たいして寒さを感じていなさそうな一ノ瀬君は全身を震わせている私を見て呟くと右手を差し出して来た。
「凍てつく世界にいくばくかの温もりを灯せ―――アグニス」
ボッと小さく爆ぜる音が響き、一ノ瀬君の手のひらに炎の固まりが現れる。するとその周囲がほんのりと温かくなった。
「ありがとう一ノ瀬君」
「いや、俺は火属性だからこのくらいの寒さなら自分の魔力を燃やして体温を維持できるが風属性は逆に体内の温度を下げちまうからな」
風はその場の空気を操る為、温風冷風は関係ない。熱い場所では熱風を巻き起こして熱中症になり、寒いところでは冷風を吹き荒ませて凍傷になる。極端な暑さと寒さに弱い属性なのだ。
その特性ゆえか風属性の人はだいたい暑がりで寒がりだ。
一ノ瀬君のおかげで多少暖をとれるようになったとはいえ、凍てつく魔力は徐々に草木おも凍らせ、霜まで降りた。足踏みすればパキパキと音がするくらいだ。
だが彼の魔力はこんなものではないはず。
あれから日が経ち体も成長しているから魔力もまた成長しているはずなのだ。いくら病院暮らしだったとはいえ、彼の潜在能力を考えるとこの寒さはまだ力の断片にすら触れられていない気がする。
早まる鼓動を抑えるように私は胸を抑えた。もうすぐ逢える、けれどやはりまだ怖い。いざ彼を前にした時、私は一体どれくらいのことができるのか。不安でしょうがなかった。
黒霧が言っていたことも気になる。
彼はなぜか一番危険なのは私ではなく一ノ瀬君だと言った。あれだけ私を執拗に閉じ込めようとしたのだ、彼の見たものは相当危険なものだったはず。
ちらりと私は一ノ瀬君を盗み見た。
寒さに強いはずの彼もこの寒さには耐えきれなくなってきたのか腕を摩っている。その表情はいつにも増して強張っていた。
魔力感知能力が低い彼も雹ノ目君の魔力の高さを骨身に染みて感じられるのだろう。
それでもきっと一ノ瀬君は怯んだりしない。
私の思いの為に、身を挺してまで雹ノ目君を止めようとするに決まってる。だから私は今ここで一つ、新たに決めたことがあった。
もしも一ノ瀬君に何かあったその時は――――私が体を張ってでも守ろう。
一ノ瀬君は怒るだろうけど、これはそもそも私の問題なのだ。一ノ瀬君はここまで私を連れてきてくれた。それだけで十分。
ふいに一ノ瀬君と目が合った。彼に悟られないように静かに目線を外したがなんとなく睨まれた気がした。
本当に一ノ瀬君の野性的な勘の良さには参るなぁ。
言及されたらどうしようと内心ハラハラしていたが、それはすぐに戦慄へと変わった。黒い螺旋が渦を巻き、ブラックホールのように周囲の空気を吸い上げていく。その風に巻き込まれないよう地に足をしっかりとつけて踏ん張っていると途端に今度は吹き上げるように雪のつぶてが肌を切るように飛び掛かって来た。
「灼熱の徒よ、すべての白き悪意を溶かしきれ―――アグニス!」
「焼き尽くせ―――アグニス!」
一ノ瀬君と千葉刑事の詠唱が重なった。
千葉刑事はとても短い詠唱だったが一ノ瀬君よりも高い魔力を持って吹きつける雪を溶かしきった。おかげでこちらに怪我はない。
「…………お出ましだ」
震えるような声音で黒霧が言うと、漆黒の螺旋はみるみるうちに凍り付き艶やかな大輪の花を模したような氷像となった。
美しい氷の門のようなものとなった場所から細い四肢を揺らせて一人の少年がゆっくりと歩み出る。
肩にかかる程度の長さの透き通るような銀色の髪が歩みを進めるたびにサラリと揺れて銀色の光が輝く。
霜の降りた草を音を鳴らして踏みしめ、氷上の絶世の美少年……雹ノ目朔良は私達の前に現れた。
夢の中で黒霧が化けていた姿と同じ、私の記憶の中の彼を少し大人にした風体で背は恐らく一ノ瀬君より少し低いくらい。昔よりは男性的になったが線の細い美しさは相変わらずだ。
宝石のように鮮やかな紺碧の瞳には光が宿っておらずどこか虚ろな様子で雹ノ目君はここがどこなのか確かめるようにゆっくりと周囲を見回した。
私は……声を出す事すらできなかった。
目の前にずっと会いたかった人がいる。彼に会って、話をして、もう一度友達になる為にここまで来た。
なのに足が震えて一歩も前に進めない。それどころか喉も塞がったように息をするのも辛くて、口は縫い付けられたように頑なになって開かない。
この期に及んで怖じ気づく自分を殴りつけたかった。
しかし動けなかったのは私だけではなかったようだ。
「―――っくそ」
「……坊主、迂闊に動くなよ。お前さんにはちょいとキツイ魔力圧だ」
私よりも息苦しそうに一ノ瀬君は今にも膝をつきそうなほど辛そうに顔を歪めていた。私はまだ大丈夫だが魔力が低い一ノ瀬君は魔法抵抗力もまた低い。ゆえに高い魔力圧の中では行動に制限がかかる。
私よりも魔力が高い千葉刑事や鈴白、黒霧は動けるはずだがその場を微動だにしていなかった。様子見だろうか。
「……雹ノ目朔良」
長い沈黙の後、最初に雹ノ目君へ声をかけたのは黒霧だった。恐る恐る、彼に向かって歩み寄る。黒霧はたいして寒さを感じていないようだったが顔色は酷く悪い。
声をかけられた雹ノ目君はしばらく呆然と黒霧を眺めていたが、彼が手の届きそうなほど近づくと霞むような笑顔を浮かべた。
「なんだ、こんな所にいたんだね。探したよ……急にいなくなってしまうから」
優しい声が響く。でも私はその声音に身を震わせた。
同じだ。あの時、雹ノ目君が私に言葉をかけた声音と……ゆっくりと追い詰められていくような優しさの中の狂気。
黒霧は足を止めた。これ以上近づくのは危険だと判断したようだ。
「……ごめん、ごめん……」
雹ノ目君の顔を見られない黒霧は視線を足元に落として謝罪の言葉ばかりを紡いだ。彼の様子に雹ノ目君は首を傾げる。
「どうして謝るの?」
「……結局僕は……なにもできなかったから」
「そんなことはないよ」
今度は雹ノ目君が前へと足を踏み出した。黒霧に向かって。
「ずっと傍にいてくれた……僕の友達じゃない」
「雹ノ目――」
黒霧の目の前まで歩み寄った雹ノ目君はそっと黒霧の頬に手を添えた。まどろむような美しい微笑と共に。
黒霧は嬉しそうに顔を上げたが、雹ノ目君の瞳と目が合った瞬間、言葉を切った。
彼の紺碧の瞳は未だこの世界のどこにも焦点を合わせていなかったのだ。
「僕達、友達だよね? 李ちゃん」
「――!」
名を呼ばれて私の全身に電気が走った。脳天から稲妻を受けたような強烈な衝撃に身動き一つできない。
雹ノ目君には見えていないんだ。目の前にいる黒い狐の妖の男が。彼は外に出てもなおまだ幻を見詰めている。
今にも泣き出しそうなほど顔を歪めて黒霧は振り絞るように言った。
「雹ノ目……朔良、僕は花森李じゃない。この里に古くから住む狐の妖なんだ。君が見ているのは幻……彼女はそこにいる」
半身を引いて雹ノ目君の視線を私に向けるように黒霧は体を動かした。吊られるように雹ノ目君が私の方を向く。
目が……合った。
でも、やはり彼の目に私は映っていないようだった。困ったように雹ノ目君は首を傾げてしまう。
「誰……かな、知ってる人?」
今度は心臓を抉られた気分だった。黒霧の幻の世界で彼に『知らない人』呼ばわりされたが、やっぱり雹ノ目君の中で私はあの時の姿のままで止まっているのだ。
彼はあの時間から進んでいない。
私も少し前までそうだった。だけど凍り付いていた時計を動かしてくれた人がいる。強引に、でもとても優しく。
動かす寸前は怖くて苦しかった、だけど全力で駆け抜けたあの一瞬を私は生涯忘れることはないだろう。
そう思ったら自然と足が前に出ていた。
今度は私が少しでも雹ノ目君の時を動かしたい。だって私はまた彼の友達になって、彼とまた話したりヴァイオリンを聞いたりしたいから。
今の私を知らないと言うのなら、知ってもらおうじゃないか。
「こんにちは、雹ノ目朔良君。私は、花森李だよ」
彼の目が不可解そうに眇められても私はその紺碧の瞳から視線を反らしたりしなかった。




