28 memory 風に愛された少女2(七瀬視点)
引き続き、七瀬視点です。
灼熱の太陽地獄から脱した十月末、涼やかな風を受けながら俺は陸上競技場の観客席から会場を見下ろしていた。
本日行われる陸上大会は東北地方の小学生達が集まる、ごくごく小規模なものだ。全国規模の大きな大会は関東で行われるらしいが、あちらは五・六年生が対象で選考に残った実力者が集う。
足が速いし参加してみる? と軽い感じで誘われた俺が参加できる本大会は、申し込めば小学生なら誰でも参加可能だ。誰でも参加可能というだけあって、なかなかの賑わいを見せる会場に俺は胸を躍らせた。
活躍したら、女の子達に黄色い声援を送られるかもしれない。という邪な感情を胸いっぱいに意気揚々と選手控室に降りれば、怖い顔をしたたっ君に拳骨をもらった。こぶができた。
「団体行動!!」
「…………ごめんなさい」
引率の先生より怖い。うっかり女の子の集団に目を奪われた俺は、たっ君達を見失ってしまったのだが、選手控室の場所は地図を貰っていたので分かっているし、先に観客席から会場見たいなと寄り道したのである。
「さっさと着替える! これ、お前のゼッケンな。で、これがお前が参加する種目。コース間違えるなよ」
キビキビとした動作で逃したミーティングの内容を簡潔に要領よく解説したたっ君は俺の準備を手伝いながらも自分の用意までしっかりやっていた。手伝おうとしていた引率の先生の出る幕はまったくない。
「たっ君は、先生より先生らしいよね」
「お前がウロウロするから、俺がしっかりするんだアホ」
ぼさっと投げられたタオルが顔面に当たって、ずり落ちたところを掴んだ。
「汗はしっかり拭け、水分補給も忘れずにな!」
「はーい、たっ君せんせー」
ふざけんな、とたっ君からもう一発拳骨をくらって、俺は二つのたんこぶをこさえた頭を抱えながら控室を後にした。
俺の参加種目は百メートル走と八十メートルハードルだ。ハードルはやったことがあまりないが、面白そうだったので参加に丸をした。
砲丸投げや走り幅跳、高跳などをしている他の出場者を眺めながら、俺はのんびりと順番を待っていた。小さな大会ではあるが、ちゃんと優勝者にはトロフィーや賞状が贈られるし、名誉もあるので気合が入っている子も多く、ちらほら緊張で顔が青くなってる奴もいた。その中で欠伸しながら待っていた俺は他の子達から見れば異質だったろう。
男子と女子の競技は種目ごとに交互に分かれて行われ、男子が競技をしている間は女子は見学に回っていることが多い。
つまり女子にいいとこ見せるチャンス! 俺の頭にはそんな春の陽気のような能天気な考えしかないので、緊張などするわけがない。
前の子達のタイムなどまったく気にせず、俺はどこかにいるはずのたっ君の姿を探した。
たっ君は、高跳に行っているはずだ。彼も俺と同じで運動神経がいいので元から運動は得意だが、きちんとクラブに入って日々練習を重ねている彼は、興味本位と浮ついた気持ちでいる俺より断然凄い。何度か見たことがあるが、彼は文字通り鳥のように高く跳ぶのだ。人間、あんなに綺麗に跳べるのかと、息をするのも忘れるくらい魅入った。
『たっ君、いつか本当に空飛べるんじゃないの!?』と興奮気味に言えば『バカじゃねぇーの!』といつも通り殴られたが、照れてるのバレバレだった。
高跳が好きなんだと、跳ぶことが楽しいんだと体全体で言っているたっ君は、俺が今まで見てきた誰よりも恰好良かった。
俺には何かあるかなって、ふと考えてみて。色々浮かんではきたけど、どれも現実味がないものばかりだ。走るのは嫌いじゃないし、速いねって褒められるのも嬉しい。けどクラブに入って練習の日々を重ねて大会で優勝を目指す……そんな夢みたいなこと、俺にはできない。
お金も時間もない。
貧乏じゃなかったら、俺だってたっ君みたいに恰好良くなったのに。
……なんて、考えちゃダメだよね。
高跳のそびえ立つ二つの棒と紅白のバーが見えるが、ここからだと少し遠くて分かりづらい。けど、今跳んだのはたっ君じゃないのだけは分かった。あんな不恰好に彼は跳ばない。
高跳の方を気にしつつも、自分の番が来てしまったので俺は決められたコースについて、女の子達の視線を気にしつつ、精一杯見た目が良いように走った。
彼女達の声援もあって、やる気が出た俺はそのメンバーでは一位をとった。一位の旗を持って観客席にいる女の子達に手を振れば、愛らしい顔を仄かに赤く染めて手を振りかえしてくれる。
嗚呼、癒される。至福の時間。
あらゆる方向から突き刺さる野郎共の視線などまったく気にしないね!
午前の部が終了し、お昼休みは各自自由にとることになり、俺はたっ君と一緒に観客席の一番高い所に座って弁当を広げた。俺のは昨日の残り物を詰めた侘しい弁当だが、たっ君のは彩も鮮やかな美味しそうな弁当だった。たぶんほとんど冷凍食品だけど。
「いつ見てもお前の弁当、美味そうだよな」
「ふへ、そう? 昨日の残り物詰めただけだけど」
「その肉じゃがとか、野菜炒めとか手作りだろ……お前の」
「うん、母さん妹達の子守で大変だし。料理嫌いじゃないし」
ありあわせのもので作ったが、なんとか形になってよかった。手伝いに行っているお店の奥さんとかに色々教わったかいがあったというものだ。
「ほんと……小学三年男子とは思えない主婦力。たまご焼きいただき!」
「ああーー! それ楽しみにしてたのにっ」
お出汁を染み込ませた渾身の一品が!
奪い返そうと思ったが時すでに遅し、卵焼きはたっ君の口の中へ吸い込まれるように落ちて行った。もぐもぐと咀嚼、そして彼は箸を持ったままの手で目を覆った。体が小刻みに震えている。
「うおぉー、泣けるほど美味ぇ……もうお前、いっそのこと俺の母ちゃんになれ」
「……それは嫌だな……」
美味しいと絶賛されるのは光栄だが、母ちゃんになるのは遠慮したい。たっ君が俺の弁当の中身を狙うので最終的に弁当を交換して、俺は滅多に口にできない冷凍食品を堪能した。さすが日本の技術力、温めただけなのに美味しい。
あまり食べられないものだからか、双方弁当に満足して昼食を終えたのだった。
午後の部で結局俺は、女子の声援への並々ならぬ固執によって毎日走り込みにいそしむスポーツ少年達を抜き去り、決勝で三位に入った。ハードルは惜しくも四位で表彰台は逃したが、ほとんどやったことがない種目でこの順位はふざけてると、たっ君に苦い顔をされた。そんな彼は高跳で優勝し、幅跳も優勝を勝ち取っている。
たっ君は文字通り血の滲むような努力を重ねているので当然の結果と言えるだろう。
「女子の百メートル決勝が終われば閉会式だな。俺は観客席で休憩がてら観戦するけど、いっ君はどうする?」
「もちろん観戦!」
女子の麗しい勇姿を見逃すわけがない。呆れた様子のたっ君と一緒に俺は観客席に上った。下にいると分かりにくいが、観客席には涼しい良い風が入っている。
走って流した汗と体温が冷やされていくのを感じて、ヘックシとくしゃみをすれば、たっ君に大きめのタオルで頭をゴシゴシされた。
痛い痛いっ!
先生がとっておいてくれた一番前の席にたっ君が座り、俺はよく見えるように手摺から身を乗り出して決勝に残った五人の走者を見た。
一番がショートのボーイッシュ系、二番が同じくショートでこちらは小柄な可愛い系、三番が長いポニーテールのクール系、四番がサイドアップの小悪魔系、五番が……二つのお下げ髪の地味系。緊張しているのかコースを間違えて注意されたり、蹴躓いてもんどりうったりしていた。
大丈夫かな、あの子。
あ、また躓いた! と俺が気になってソワソワしていると、怪訝な顔でたっ君が俺の隣に来た。
「なに貧乏ゆすりしてるんだ。気持ち悪い」
「ヒドイ! だってさ、あの子大丈夫かなって気になっちゃって」
五番の子、と指させばたっ君はじっと彼女を見つめて、なぜか感心したように声を漏らした。
「緊張しすぎとは思うけど、走っちまえば問題なさそうだな。あれは走り慣れた脚だ」
「え? そう……?」
ここからだと少し遠目だし、はっきりと彼女の脚は見えないが他の子達とどこが違うのか良く分からない。
「ああ、走るのが好きな綺麗な脚だ」
なんだか楽しそうに言うので、俺はまさかと恐る恐る聞いてみた。
「……たっ君ってもしかして脚ふぇ――」
ドゲシッ!
思いっきり背中を蹴られた。痛くて手摺に掴まりながら蹲って丸くなった俺の背に、容赦なく靴底をつけて踏んだたっ君は、輝くような全開笑顔でした。
「ほら、いっ君いつまで丸くなってるんだ。始まるぞ」
「……あの、たっ君の足で立ち上がれません」
「あ? なんか言ったか?」
「……いえ、なにも」
メソメソ涙をこぼしつつ、手摺の間からスターターピストルの合図と共に走り出した彼女達を眺めた。たっ君が言った通り五番の少女はスタート前の頼りない様子から一変、迷いのない、真っ直ぐな瞳でただ前を見て走っていた。
さすがに決勝まで残るだけあって全員が速い。彼女達の間にそれほどの差はないように思えた。けれど一つだけ違ったことがある。
彼女だけが、あの五番の少女だけが楽しそうに微笑んでいた。他の子達は苦しそうに走っているのに。
ゴウッと観客席に吹いていた風が急激に流れを変えた。風に背中を押されるように前に倒される感覚、会場すべての風があの少女に集っている。
風を纏った少女は、飛ぶように軽やかに走り抜け他の少女達との距離を放していく。
これはなんだろう。光り輝く光子のような粒が逆巻くように踊り、彼女の周囲に集まってまるで応援しているようだった。
「追い風か」
追い風? たっ君が呟いた言葉に俺の目はようやく通常の光景を映した。なんてことはない、風向きが変わっただけの話だ。
どうしてあんな幻みたいな光景を見たのだろう。疲れてるのかな。
目をゴシゴシ擦ってもう一度開ければ、五番の少女が優勝し一位の旗をかざしていた。彼女の周りには何人かの少女達が集い勝利を祝っている。
勝利を分かち合う少女は走っている時と同じように笑っていた。
「風に愛されたな」
「へ?」
いつの間にか靴を俺の背からどけていたたっ君は、少女を興味深げに見つめながら呟いた。
「時々いるんだ、風向きを変えるくらいに風を味方につけられる、風に愛されるやつが」
『風に愛された少女』を俺はじっと見つめた。あの時見えた幻は、なんだったのか分からない。だけどあの光景はとても美しかった。風と共に走るあの少女がとても、美しかったのだ。
俺もあんな風に走ってみたい。
「俺も、がんばって走ったら風に愛されるかな?」
思わず出てしまった言葉に俺は慌てて自分の手で口を塞いだ。無理だと分かってる。経済的にも時間的にも。
丸くしていた背を更に小さくした俺の背をたっ君は軽く蹴った。
「お前は風には愛されなさそうだな」
ガーーン!! なにもそんなハッキリ言わなくても!
ショックで涙を浮かべたまま顔を上げると、たっ君は今度は力強く頭を撫でてくれた。……慰めて励ましてくれる時の力加減だ。
「地に足つけて生きてるだろお前。知ってるか? 地と風は仲が悪いんだ。でも、地に繋がっててもなんかお前なら、少しは付き合ってやるかな……くらいの気持ちにはさせられるかもな」
たっ君の言葉が嬉しかった。じんわりと温かいものが胸の中で広がっていく。親友っていいな、たっ君がこういう奴だからこそ俺は腐らずにいられるんだ。
顔がにやけてしまうと、気持ち悪いと本日三度目の拳骨が脳天に落ちたけど、痛みは気にならなかった。今日は最高の日だ。
俺は風に愛された少女の姿を視界から消えてもずっと追いかけた。初めて、うっかり言葉に漏らす程に追いかけたい目標が持てた。ああなりたいと焦がれた。
彼女の笑う顔が頭から離れない。
「来年も会えるかな」
「? 誰に」
「あの風の……えっと、脚の綺麗な子!」
「脚ってお前……」
「だって名前知らないし。てか脚が綺麗って最初に言ったのたっ君でしょ!」
不満げに口を尖らせれば、たっ君は「はいはい」と気のない返事をして、少し考えるそぶりを見せてから口を開いた。
「自由参加の小さい大会だしな。でもどっかのクラブに入ってるなら来年もまた来る可能性はあるな」
「そっか! ならそれまでに俺も見られて恥ずかしくないくらいの走りができるようにならないと」
「なーに気合入れちゃってんだよ。陸上、やんないんじゃなかったのか?」
「……クラブとかには入れない。けど、走り込みなら牛乳配達とか新聞配達で一緒に鍛えられるし!」
「ああ……そうか、お前、体力はそれでつけてるんだもんな。……しょうがない、クラブ仕込みの走り込みのやり方、教えてやるからしっかり覚えろよ」
「さっすがたっ君先生、頼りになる!」
案の定、頭をはたかれたけど嬉しくて笑ってしまった。
来年また、彼女に会いたい。今度また会えたなら、君と一緒に走りたいんだ。風に愛される彼女と、風の中で一緒に……。
来年、俺は再びあの会場へ足を踏み入れた。けれどその年、彼女の姿を見つけることはできなかった。次の年、また次の年も。
始めこそ大きく落胆したものだったが、いつかきっと走っていればどこかで会えるような気がして、俺はずっと彼女を、風を追って走り続けた。
いつしか走っている間なら風の声が聞こえるような、そんな錯覚を起こすようになる。
彼女と会話しているような気がして嬉しかった。風に愛されたことが嬉しかった。もう再会できたような気になって、どんどんあの時の彼女の姿が薄れていく。
記憶は薄情だ。
けれどそんな状態でも俺は無意識に彼女を探していたんだろう。彼女と同じようなあの『走ることが大好きな綺麗な脚』を見ると気持ちが高ぶってしまう。目で追いかけてしまう。
彼女の、花森李の脚を見て惹かれたのは偶然なんかじゃなかった。
◆ ◆ ◆
「気持ち悪い、なにをニヤニヤ笑っている」
たっ君……と思ったが、しっかり見れば眉間に皺を寄せた木塚君だった。ずいぶんと思い出に浸っていたようだ。
ひっそりとゴールした俺は、D組の連中に揉みくちゃにされる花ちゃんを眺めながら、ぼーっと立っていたらしい。
「うん、ちょっと思い出してて」
「思い出し笑いとは、頭は正常か……保健室に行くか」
「そんな重症じゃない――ギャーヤメテー頭鷲掴みにしないでー!」
引き摺られるように俺は頭を掴まれたまま、保健室に連行された。閉会式に参加せず、保健室まで行ったというのに、神城先生に『にやけ笑いはお前の標準装備だろ』と、ぺいっと問診すらされずに保健室を叩き出された。中にちょっと手が放せない怪我人がいたらしく、結構辛辣な対応になったらしい。けど美人なので許す!
俺は日が暮れ始めた茜空を見上げて、こみ上げてくる感情をぎゅっと押し込めた。
明日、誘ってみようかな。ずっと果たせなかった夢。今なら叶いそうな気がした。勇気を出して、もう一度彼女の傍に行こう。
そしたら、
『一緒に走ろう』って言うんだ。




