#18
無機質。
Oreilg基地内部の廊下の様子をあらわすのに、この言葉以外になにを使えばいいのだろう。とりわけこの―――大きな樹木で作られた茶色のドアの前に立つと、そう思わずにはいられない。
熟練した職人によって、何度も繰り返し塗り重ねられた漆によるであろう限りなく黒にちかい茶の色。軽く見上げた高さに位置する、持ち手が微かに色あせたノッカー。金が剥がれかけているが大ぶりで頑丈そうなノブ。
色も質感もアルミのようなこの廊下で、この扉だけが明らかに浮いていた。
人類の先端技術のカタマリと言ってもいいほどに、Oreilgの仕様は優れている。基地内も然りであるがしかし、すべての出入り口が自動扉の仕様になっているのにも関わらず、ここだけが、この部屋の扉だけが、古風な雰囲気をかもしだしていた。
強いて言うならこの部屋の主の趣向、とはいえその人物を知っている者ならおそらく納得してしまうだろう。
技術を駆使した出来の良いカラクリじかけの扉は、「彼」には似合わない、むしろこの扉こそが「彼」なのだと。
相模マサルは眼を瞑る。
この部屋に立ち入るという行為のために、備えた心は必要なかった。
この扉の前に立った数は決して少なくはない。そのなかで、眼を瞑る動作は習慣のように身についてしまっていた。最初に眼を瞑ってこの扉の前に立ったのはいつだったか、すぐに思い出せるほどの過去の話でもない。
相模はゆっくりと眼を開き、ノッカーを掴んで4度扉を叩いた。入りなさい、の言葉を待って静かにノブを回して、ゆっくりと扉を押した。
扉は、きぃ、とどこか古風な音をたてて開いた。
人が住まう部屋とは、その人間の心をあらわしているのかもしれない。相模はそう考えた。
天井に取り付けられた簡素なシャンデリア。陽光に似た暖かさの淡いオレンジ色の光が漏れて、部屋全体を照らしている。程よく細部に行き届き、かつ人の心を落ち着かせる暗がりも演出する灯りの色は、ランタンや暖炉の色によく似ている。
奥には天井に届くほどに巨大な本棚があり、四方ある壁の一面をすべて占めている。隙間なく上から下まで本。本。本。題名をしっかり確認できないが、英語や日本語だけにとどまらず様々な言語の書籍も多々混ざっているように思える。ざっと数えて数百冊はありそうだ。……光沢のあるいかにも新品同様の書籍の中に、一体どれだけ読み潰したのかと思うほどに背表紙が傷んで日に焼けてしまった背表紙も何冊も見受けられた。
相模は静かに深く、息を吸った。
本の香りだ。しかし図書館の空気とはどこか違う。鼻腔に微かに、しかしたしかに存在を主張するこの香りが、常にはない品位をもって、ここが特別な部屋であることを示していた。
古い書籍に埋もれるように、新しい本が収まっている本棚。そしてその本棚の前にどっしりと構えてもなお威圧感を感じさせない、漆の染み込んだ深い色をしたゴシック調デスク。そこに大きく設けられたまっ白なデスクトップ。
似合わない、つり合いのとれないようなものが、この空間の中では不思議な均衡を保っているように感じられる。クラシックとモダンの融合形、その極みと言っても過言ではないのかもしれなかった。
モギュアールの書斎に相模が入室したとき、この空間の主たる彼はデスクの向こう、本棚の正面に向かうように立っていた。
入室の音に振り返り、相模の脇に抱えられた蓄音機を見てひとつ、ため息をついた。
「持ち出したのはクランドだろう?」
困ったものだ、と、いつもと変わらないスーツ姿のモギュアールは微笑する。相模を見る青い目は静かだ。優しささえ、感じた。
促されるままに、相模は蓄音機をデスクの上に置いた。
「……俺にはこんな度胸のいる真似、できませんよ」
「そうかね?」
かたり。蓄音機を置いた相模に、モギュアールは面白そうにたずねた。
「状況が変われば、人の心も変わるのではないかと私は思うが。君はどう考える?サガミ」
「どうでしょうね。人間は経験した物事にでないと、対処できませんから」
ゆっくりと、相模は視線を上げる。
モギュアールの目をまっすぐに見つめた。
クランドの目の色はモギュアール譲りだと思っていたが、よく見ると少しちがう。クランドの目の色は、陽光をはね返してきらきら輝くビー玉の色だ。モギュアールの青は、もっとずっと深い。年の功が差異を生んでいるのだとしたら、クランドもいつか、この色を宿すことになるのだろうか。相模は考えたが、しかしそれもちがうような気がした。
す、と相模は息を吸った。
「俺の報告が必要ですか。モギュアール」
まるで、反抗期の少年。そんな眼光とは裏腹な平静を装ったその声に、モギュアールはほう、と感心したように目を細めた。まるで成長した我が子を眩しげに見つめる親のような眼差しである。その反応に気づき、相模は露骨に顔をしかめた。
「事の顛末は、クランドが岸谷に一報入れた。その時点であんたにも伝わったはずだろ。わざわざ俺を呼ぶ意味がわからないんだけど」
「サガミ……人がせっかく子どもの成長を喜んでいるのに、落胆させるような態度をしてくれるな」
宙を仰ぎため息をつきながらも、モギュアールはどこか楽しそうに相模を見た。
「一部始終はキシタニから聞かせてもらった。しかしシノサキについては、刃物で右脇腹を負傷としか知らないのでね。それがどうにも腑に落ちなかった」
「それだけわかってりゃ、十分だと思うけどな」
「言葉遣い」
上目に、しかししっかりと目を合わせてモギュアールに言われて、相模はそっぽを向く。呆れ顔になりながらも、モギュアールはゆっくり語りだした。
「日本警察の情報によれば、大山の筋力はアスリート並みらしい。それだけの力で刃物を振ったのなら、私は、今回シノサキは脊髄損傷も大いに有り得るとみた。だが報告を聞く限り、どうもそうではないようだ」
腕を後ろ手に組んだまま、ゆっくりとデスクを中心に弧を描くように歩いて、モギュアールは相模のすぐ傍までやってきた。
「大山の略歴にも目を通したが、目立つものがないから、あの体躯でそれほどの力を生み出す個の能力は生まれもった才能だろう。あれは、誰に教わることもなく体の動かし方がわかっている人間だ」
青い目は優雅に相模を捉えた。
「言い方を変えれば天才とも言う。サガミ。君と同じでな」
穏やかに言われて、相模の目の色が一瞬、黒に近い色になったように見えた。
「……その言われ方は嫌いだって言ったはずだ」
「これは、失礼」
言いながら、モギュアールはまるでそんな態度ではない。直立不動の相模の背後まで歩いてきて、そこで静かに立ち止まった。
確かに。と、モギュアールは吐息のように口にした。
「数いる人員の中で、誰が優秀であるかは我々の組織には関係のない事だ。我々は組織であってチームではない」
語りながら、ふたたびモギュアールは歩き出す。
「戦いはいつ如何なる時も唐突に起こり得、それにはやむおえないにせよ、我々は独りで立ち向かわなくてはならない。Oreilgにとっては、その状況に対処できる人間なら何に秀でていようとも、それはどうでもいい話だ」
「……あんた、なにを」
穏やかに語るそれが、絵空事であると理解してのことだと相模は悟った。そしてうっすらと、モギュアールが言わんとしている意図も、おそらくそれを口には出さないだろうということも、理解した。
たしかにそれは、Oreilgが世間に見せている体裁のひとつ、なのだろう。
モギュアールはここで一拍置いて口をひらきかけたが、ふいにデスクトップからオルゴールの音が流れてきたことで、その動きは中断された。
すっと視線をパソコン画面に落とし、モギュアールはああ、と呟いた。
「衛生班から報告が届いたようだ」
つっ、と。
僅かに相模が息を飲んだのを、長く彼を見てきたモギュアールは見逃さない。すました顔で訊ねた。
「悲報ではない。君はオカザキ医師を知らないのかね」
「うるさいっ」
なぜか声を荒げる相模。内心の動揺を悟られたことへの苛立ちなのか、しかしそんな相模を、モギュアールは愉快そうに見た。
「シノサキの容態は安定、だそうだ。ふむ……オカザキ医師のことだから、死なせることはないだろうが。しかしなぜ、その程度で済んだ?……ほうほう」
言いながら、全文を読み終えたらしく、モギュアールは納得した顔で頷いた。それを見て、相模は眉をつり上げた。
「腑に落ちることでも書いてあったのか?」
「サガミ」
「他の連中がいるときはちゃんとしますよ。言われなくてもね」
まったく。肩をすくめてみせる相模に、モギュアールはため息をついた。
「シノサキは一応、ナイフを防ごうとしたらしい」
「は?」
僅かな声が、相模の口から漏れた。
「右腕に仕込んでいた鉄塊のおかげで、浅い傷だったそうだ。とっさに腕で庇った結果、ということだ。代償として骨には、少々亀裂が入っているようだが」
モギュアールの言葉に、相模は視線を脇に逸らして黙りこんだ。その時の状況を思い出そうとしているらしい。
「制服の、右袖の外側がすっぱり切れているのがその証拠だそうだ。気付かなかったのか?」
「……気付かなかった」
相模は、驚きとそれに気付かなかった若干の悔しさが混じった複雑な表情をしていた。あの状況で咄嗟に動く奴がいるなど、ましてや紫野崎があの状況で動いていたなど、考えもしなかったらしい。モギュアールはそんな相模の様子を見て、すっと目を細めた。
「あまり人を、見下さないことだよ。サガミ」
軽く俯いていた相模の頭がぴくり、と反応する。ゆっくりと前髪の向こうからのぞいたダークブラウンの瞳が、青のように白い眼光を放ってモギュアールを見た。
デスクをはさんでモギュアールの青とぶつかり一瞬、火花が散る。
モギュアールは穏やかな声を変えなかった。
「先入観では、人を判断できん。場合によっては、命を落とすことにもなりかねん。サガミ……お前には、正しくあってほしい。どうあっても」
静かな語りに、相模は口元を歪ませた。
「それが、組織としての俺の評価で、価値ってとこなんだろ。モギュアール」
いや、と彼は否定した。
「ごく個人的な感情だ、サガミ。私のな」
相模は沈黙する。空気に耐えられずふいと目をそらしたのを見て、ところで、とモギュアールが言った。
「……校内に入ってきた自衛隊が偽者だと分かったのはなぜだ?サガミ」
いつの間にか茶目っ気さえ感じられるように変わった青い目の輝きと、突拍子ない質問に、相模は天井に向かって息をつきながら、姿勢を正してひとつ咳払いした。
「銃ですよ」
「ほう」
モギュアールは楽しそうに、もしくは嬉しそうに目を細めた。困ったように相模は続けた。
「89式なんてもう昔のものでしょう。今の自衛隊が携帯してる小銃は92式。服やヘルメットは通販でもなんでも使えば揃うんでしょうけど、銃までは揃えられなかったみたいですね」
なるほど、と何度も頷くモギュアールは、本当に嬉しそうに笑っていた。