#12
懸けるのはただ、誰かのために。
制服の袖がめくり上げられた紫野崎の腕に、細い針がしっとりと染み込むように入っていく。
注射針を打つ相模の顔は真剣そのものだった。
「……見てて辛いなら目え閉じるか背え向けるかしてろ」
視線こそ向けていないが、これは瀬川に放った言葉である。
当の瀬川はというと……
床に座りこんだまま―――震えていた。
座りこんだ紫野崎のところまでやって来た相模は、その場に瀬川の姿をとらえたものの、軽く眉をひそめただけですぐに紫野崎の正面にかがみこんだ。血だまりに足をつっこむことになろうがお構いなしに膝をつく。頬にそっと触れるようにして脈を計り、もう一方のてで素早く紫野崎の制服のリボンを緩めた。
「……俺だ。わかるか紫野崎。声、聞こえてるか」
あまり期待はしていなかったものの、耳元でささやいた相模の言葉には反応があった。
紫野崎の唇が、かすかに動いたのだ。
なにか言おうとしている。聞き漏らすまいと神経を集中させた相模だったが、紫野崎の口から出てきたのは言葉ではなく、決して少量とは言えない量の血液だった。
あらためてその傷口を見やり、相模は顔をしかめた。
「おいまさか」
肺まで、と言おうとしてとどまったのは、紫野崎の背後にへたりこんでいた瀬川の顔が死人と見違うほどにまっ白だったからだ。相模は今度は別の意味で顔をしかめた。口をひらきかけたが、相模の耳は紫野崎の声を拾い上げた。
「……相模さん……」
もしかしなくても、ほとんど息にちかい紫野崎の声は相模の名を呼んでいた。
相模は周囲を確認すると、紫野崎を静かに窓側の壁にもたせかけた。
「返事しろなんて言ってねーよ。余計に喋って体力消費したら保つ命も保たなくなるからな。……名前呼んでわざわざ確認されなくても傍にいるから安心しろ」
そう言いながら、相模の手は休まらない。紫野崎のセーラー服の正面ファスナーを下ろして中の体操着をめくり上げ固定、開封した包帯を手順を踏んできっちり2周させた。
紫野崎の体温は、人肌の温みよりもひやりとしているように感じた。
「ったく、医者の真似ごとに関しては専門外だぜ?俺」
……など呟きながら制服の胸ポケットに入れていた透明なケースから注射器を取り出し、現在に至っている。
使い終わった注射器をケースに戻しポケットにつっこみながら、相模は顔面蒼白な男子生徒に目をやった。
「一度施錠された教室に入るには暗証番号を入力、だったな。今のうちに入ったほうが身のためだぞ」
「……え?」
やっとのことで口をひらいた瀬川に、相模はやれやれという顔をした。
「襲撃がこれで終わったかどうかは、現時点じゃ分からないだろ?いるかどうかは微妙だが、俺はこれから残党狩りだ。自分の身は自分で守ってもらわなきゃ困る」
分かるか?と相模に目を見据えられて、瀬川はなんとか小さく頷いた。
「それからもうひとつ」
唐突に、相模は声音を低くした。
「民間人は民間人らしくしてろ」
僅かな差異だったが、相模の声は人の恐怖を煽るには十分威力を発揮するのだろう。
だがそれとは別の意味で、瀬川は泣きそうな目になった。
相模はそんな瀬川からふいと目をそらして、紫野崎を抱え上げた。瀬川のことは、もう見ようともしなかった。
「分かってるとは思うが他言はするな。こいつの為だと思って、行動で償え」
それだけ言うと、東棟に向かって歩き出す。後には瀬川と頭を撃ち抜かれて死んだ大山、フローリングに広がる血だまりが残された。
血の池に沈むかのように放置された二振りのナイフが、相変わらず太陽の光を反射して白く不気味に光っていた。
「……さがみさん」
「喋るなって言ったろ。……なんだよ」
「……ばか」
「ああ?」
ちょうど1年校舎と東棟の境界線を超えたくらいのところで、相模は紫野崎を落としてやろうかと思った。
助けた人間に対してどのツラ見せてそんなことを言っているのかと思ったが、しかしこの体勢で紫野崎の顔を見るのは難しい。
どうしてやろうか思いあぐねているうちに、言葉を重ねられた。
「……ありがと、ございます」
「お前アタマ大丈夫か?前後で文脈噛み合ってないぞ」
もう止血は完了しているはずだ。それでも出血した分の血液が戻ったわけではない。やっぱりまずかったか、と相模の表情は知らず厳しくなっていた。
だが、すぐに拍子抜けすることになった。
「せがわにたま、あたりませんでした……」
「阿呆かお前」
ぴしゃり、と相模は言った。
「あの状況で外す奴があるかよ。てゆうかお前、今間接的に俺のこと馬鹿にしただろ。言っとくけどお前の五倍くらいは有能だからな」
「うそ、つ……」
吐息のような声は、やけに空気を震わせて響いた。
相模はぴたりと立ち止まった。
ちょうど中庭が見渡せるガラス窓の壁に沿って設けられた階段を下りはじめた時だった。相模は一気に階段をかけ降り、ちょうど大きな円柱の陰になっている床に紫野崎を降ろした。ここなら万が一玄関から敵が現れても、少しの間なら隠し通せるはすだからだ。
「紫野崎。おい紫野崎」
手首を掴む。脈は弱いが速い。寝かせた紫野崎の顔は眠っているようだったが、その顔は蒼白で冷や汗にまみれていた。
出血性ショック。
相模の頭の中に、ようやく「死」という言葉がちらついた。
「これは……岸谷の奴に早めに応援よこせって言うべきだったかな」
相模が静かに呟いたそのとき、玄関の方で誰かが走ってくる物音がした。
玄関からの騒々しい足音に乗じて、相模は円柱の陰で素早くリボルバーの安全装置を外した。ところが相模は一瞬、ほんの一瞬だけ動きを止めて、なにを思ったのか安全装置を戻して後ろ手にリボルバーを制服のズボンとベルトの間にはさみこんだ。
制服の影に隠れて、銃自体は見えなくなった。
相模の隠れた円柱の向こう、フロアの方で、男の大きな声が響いた。
「我々は自衛隊だ!生存者はいないか!」
「怪我人搬送の準備は整っている!声が聞こえたら返事をしてくれ!」
声と足音の様子からして2人の男のようだった。相模は円柱の陰からするりと抜け出した。
短くてごめんなさい。