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Oreilg  作者: 篠崎
10/18

#10

せめて、傍にいたかった。

 多くの生物が混在するこの地球はあらゆる病気で蔓延しているが、なかでも精神病はヒトのみが名を冠する病のひとつだ。

 大山は精神病質者である。さらに振り分けるなら、極めて危険な殺人享楽者と示すのが的を射ている。そして極めて異例な。

 五年前の通り魔殺人事件は、その街のみならず日本全土を震撼させた。事件勃発当時、事が交番の前で起きたのにもかかわらず死傷者が20人あまりにのぼったのは、大山の外見的特徴の無さに原因があった。

 一見してどこにでもいそうな顔立ち。極めて肥満とも脆弱ともいえない体格。人混みに紛れれば最後、その姿を再び確認するのは困難を極める。最初の犠牲者が倒れてから犯人発覚まで7分を要したのは、結果被害者を増やし最悪の結果を招くことになったのだ。

 犯人逮捕に至った決め手は大山の顔であった。

 現代人を象徴するかのような無表情でやる気のない顔が、人間を襲うその一瞬、狂喜を孕む。その狂気の笑みは、大山が異常者であることを決定づけた。精神病質者であるという肩書きが、大山の知名度を一気に押し上げたのである。



 そして今、交番の警察に捕らえられ刑務所に閉じ込められていたはずの大山が、紫野崎の目の前にいた。



 太陽は既に高い位置にあり、窓から差し込む光はフローリングの床に反射して眩しいくらいである。

 心地よいほどの陽気に恵まれた昼下がり。

 かたり。ことん。

 紫野崎の正面奥、校舎の西側の階段から、革靴がフローリングを踏む足音が聞こえてくる。

 直線の廊下。紫野崎の位置からは階段を見ることはできない。あがり階段の正面にだけ窓がないので、廊下の奥だけが一層暗い。その暗闇からの足音は、陽光の中に一筋の緊張の糸をきらめかせた。

 ことん。ごとり。

 影の中にひときわ濃い人型の影が浮かぶ。やがてその人型はゆっくりと、陽光に足を踏み出した。

 影を洗い流すかのようにして、大山が現れた。

 ゆっくり立ち止まる。なにを考えているのか。ゆうに一〇メートルは離れているであろう距離を置いて、紫野崎は注意深く相手を観察した。

 先程鏡のように光を反射し紫野崎の血の気を引かせたのは、大山が握るナイフであった。刃渡りは、目算30センチほどはあるのではないだろうか。大型ダガーナイフ……ボウイナイフのようである。1836年にアラモ砦の戦いでジェームズ・ボウイ大佐が使用していたものが原型とされているらしいが、まるでゲームや映画にでも使用されていそうなほどの大きさである。

 大山のナイフは、陽光を受けて鋭く冷たい色を反射していた。

 紫野崎は黙って、きゅっと軽く握った両手を構えた。左右の手にはそれぞれフィンガーレスの赤と青の手袋。

 Oreilgの証。それを見て取って、大山は悦楽の笑みを深めた。

 こんな精神に異常を持った人間が、一人で脱獄できるのだろうか。違和感を感じるほどに歪められた大山の顔を見て、紫野崎は頭の中で考えを巡らせた。共犯者がいるのかもしれない。大山は桜並木の道……グラウンド方向から侵入した可能性が高いだろう。玄関とは真逆の方向からの侵入……なら正面玄関から加勢が来るのか?

 いや。そもそも、どうしてこの学校に大山が来たのかがわからない。政府や警察と学校が関わり合いを持っているわけでもないし、ここにはOreilgだって自分以外に誰も―――

 思考が止まった。

 紫野崎は頭の奥が痺れるように痛むのを感じた。まさか、と思う。

 後から相模が来ただけであって、Oreilgはこの学校に一人しかいない。つまり……

 狙いは、あたし?

 どうしてそんな、と思いたかったが、紫野崎はそれを寸前のところで止めた。今はそんなことどうだっていい。倒さなければいけないのだ。犯罪者を。Oreilgとして。

 大山の足取りはなぜかふらふらとしていた。気味の悪い笑みは変わらずのまま2,3歩よろめき、攻撃は唐突だった。

 よろめいた体制を整えることなくその姿勢からナイフを振り上げ、大山は紫野崎に向かって突進してきたのだ。

 見かけからは想像もつかない速度に高まる緊張。だが紫野崎はつとめて客観視した。武器のリーチが長いぶん注意が必要だが、所詮は訓練も受けていないド素人だ。機をねらって叩き落としてそれから―――

 冷静に冷静にと自分に言い聞かせながら迎撃態勢を整えていた紫野崎だったが、このとき予想外の出来事が起こった。

 後方から上履きのスニーカーが床を蹴り駆けてくる足音。

 荒い息遣いが、こっちに近づいてくる?

 考える間もなかった。

「紫野崎ッ!!」

 え?

 状況に思考が追いつく前に、背後からぐいと右袖をとられた。

「ちょっ待っ……?」

「逃げるぞ早く!」

 振り向かされて相手を見た瞬間、紫野崎の脳内からは「冷静に」などという言葉はぶっ飛んだ。

「瀬川!?」

 そこにいたのは紛れもなく自分のクラスメイトだった。

 ぎょっとなって紫野崎は問うための言葉をあやうく口からこぼしそうになったが、しかし今はそんな場合ではない。たったこれだけのやりとりの間に、大山との距離はもう五メートルもないのだ。

 瀬川と逃げるべきか。駄目だ、逃げきれる可能性はかなり低い。視線を戻すと、自分よりはるかに巨大な大山と包丁じみた大きさのナイフが目の前に迫っていた。今の紫野崎の脳内の思考速度と比べれば、周囲の動きなどスローモーションもいいところだ。しかしその紫野崎の視界に、さらに大山と自分との間に身体を割り込ませようとする瀬川の姿が見えた。

 ―――こいつまさかあたしを助けに戻ってきたとか?

 紫野崎は舌打ちしたい気持ちも押し潰して行動に出た。

 瀬川の左肩をがっちり掴み、もう一方の手で右の腰あたりを支える。大山の右手に握られたナイフは軌道からしておそらく右上から斜めに振り下ろされようとしているのだから、最終的なナイフの切っ先方向とは真逆の左側へ逃げればいい!!

 紫野崎はできる限り身を低くして、瀬川を掴んだ腕を軸にして一気に左へ回転して大山の背後へ抜けた。

 後頭部ぎりぎりを、ヒュッと殺気で満ちた鋭い風が吹いていく。

「うわ!?」

 悲鳴に近い瀬川の声も無視して、紫野崎はひねって回転した勢いと突っこんだ勢いのまま床に転がりこんだ。瀬川を掴んだままさらに一回転、素早く起き上がる。振り向いた大山から距離を二メートルほど稼いだが、危険な距離であることに変わりはない。紫野崎は制服のスカートの裾下から麺棒の半分くらいの大きさの黒い金属の塊を取り出し、一気に伸ばした。

 再度振り下ろされるナイフ。紫野崎はそれを特殊警棒で受け止めた。

 嫌な金属音が響く。

 だがそれよりも斬撃が重かった。大山の顔がすぐ目の前にある。なるほど狂った人間とはこういう顔をしているのか。それにしても片腕だけでものすごい力の持ち主だ―――





 ……ちょっと待て。



 片腕?




 片腕。

 紫野崎は我に返った。驚愕に満ちた顔で大山の姿を見た。

 もう片方の腕はどこだ。

 周囲の音は耳から遠ざかり、めまぐるしく動いていた紫野崎の思考は静まり返った。

 大山の左腕は自身の背後にまわされていた。

 ゆっくりと抜け出た左手に、ただただひたすらに陽光を冷たくはね返す、もうひと振りのダガーナイフが。

 大山の左手首が返り、先端が加速した刃が獲物を襲うのは一瞬だった。




 金属が落ちて転がる音が、無人の廊下に響き渡る。ばさりと衣服が広がる音。

 金属音は紫野崎が警棒を取り落とした音で、衣服の音は、彼女がへたりこんでスカートが床に広がった音だ。

 紫野崎が膝から崩れるのと同時に、右脇腹からナイフが引き抜かれた。

 壁に鮮血が飛び散り、フローリング上を血だまりが危機的速度で広がりはじめる。

 大山は、頭を持ち上げられない紫野崎を見下ろすようにそびえ立っていた。握られた白刃から赤い液体がぽたり、ぽたりと床の血の池に染み込んでいく。狂喜の笑みとともに、血染めのナイフは頭上高く、紫野崎の真上へと掲げられた。

 大山の歓喜と切っ先が頂点に達する。

 紫野崎はそれを、見届けることができない―――……




 パァン、と。




 一発の銃声が残響虚しく消えるよりも先に、後頭部に弾丸を受けた大山が倒れこんだ。



 大山が倒れた場所からはるか遠く、1年校舎と東棟の境界線の向こう側に、片膝をついた姿勢でリボルバーを構える相模の姿があった。



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