「人の名前くらい自分で覚えられる」と婚約者が言うので、今夜の夜会では耳打ちいたしません
「婚約を破棄する。人の名前くらい自分で覚えられる」
ルートヴィヒ殿下がそう言ったのは、建国祭の夜会が始まる三時間前のことだった。
王宮の大広間の北にある控えの間で、私は十一冊目の名簿帳を膝に置いていた。今夜の招待客の名前を最後に読み返していたところだ。窓の外では中庭の灯りがひとつずつ点されていく。
殿下は扉の前に立ったまま私の膝の帳面を見下ろしていた。隣には薔薇色のドレスのカミラ・ローゼン侯爵令嬢がいて、殿下の腕に指先だけを添えている。
「お前の耳打ちはうるさいんだ。客の前でいつも後ろから何か言われる。子どもの手を引くようにな」
「さようでございますか」
「今夜からはカミラが隣に立つ。お前はもう来なくていい」
私は帳面を閉じた。終わり近くの頁に挟んだ薄い包みが、指先に触れる。
十二の春に婚約が決まってから、夜会でも園遊会でも私は殿下の半歩うしろに立ってきた。客が近づいてくる数歩のあいだに、その人の名前と前に交わした話と、触れてはいけないことを一つだけ囁く。
三つより多くは言わない。それより多いと殿下が覚えきれないからだ。
その仕事を八年続けた。社交界は殿下を「人の顔を忘れない王子」と呼んでいる。
「承知いたしました」
私が答えると、殿下は少し眉を上げた。泣くか縋るかを待っていたのかもしれない。
「……帳面は置いていけ。いや、いらんな。そんなものがなくても俺は人の顔を忘れない」
「では、これはわたくしの物ですので持って帰ります」
名簿帳は十一冊ある。十二歳の春から書いてきた四千人あまりの名前が並び、顔の特徴と家族と好きな話題と、触れてはいけないことが添えてある。
会った夜に書き、翌朝に読み返した。十冊は屋敷の書棚にあり、ここにあるのは今夜のために持ってきた十一冊目だけだ。
始まりは、婚約が決まってひと月目の園遊会だった。
十四歳の殿下は、挨拶に来た老伯爵の名前が出てこなくて固まっていた。うしろにいた私は、その伯爵が前の週に父と話していたのを覚えていた。袖を引いて小さく名前を言うと、殿下は何事もなかったように伯爵の手を握った。
帰りの馬車で、殿下は窓の外を見たまま「助かった」と言った。
殿下が私に礼を言ったのは、あとにも先にもあの一度だけだ。その夜、私は一冊目の帳面を買ってもらった。
殿下の腕に手を添えたまま、カミラ様が微笑んだ。
「殿下はお名前を覚えるのがお上手ですもの。わたくしも見習いますわ」
皮肉ではなく、本当にそう信じている顔だった。社交界の誰もがそう信じている。殿下ご自身も。
私は立ち上がって一礼した。
「カミラ様。殿下のお隣に立たれるときは左側から半歩だけ下がっていらっしゃるとよろしいかと存じます。殿下は右から話しかけられるのがお嫌いですので」
別れ際に一つだけ、私の知っていることを置いていきたかった。
廊下には父が待っていた。リヒター伯爵は出てきた娘の顔を見て何も聞かなかった。父は私が帳面を書く夜も読み返す朝も、ずっと知っている。
「帰るか」
「いいえ。招待状をいただいておりますので客として参ります」
父はうなずいて私に腕を貸した。
殿下に教えて差し上げるべきだろうか、と一度だけ考えた。けれど、うるさいと言われたものをもう一度差し出す理由が私には見つからない。
今夜の招待客は四百十二人。
そのうち殿下がご自分で名前を言えるのは、たぶん十人ほどだ。
◇
大広間の柱の陰は、思っていたより居心地がよかった。
父と並んで壁際に立つと広間の全部が見渡せる。客の名前を高らかに読み上げるのは入り口の式部官の役目だが、それは到着のときの一度きりだ。客が広間に散ってしまえば、誰が誰かを教えてくれる人はいない。
建国祭の夜会では、王太子は広間の輪を一つずつ回って挨拶をする。玉座の段から国王陛下がそれを見ている。半歩うしろから見てきた景色を、今夜の私は四十歩ほど離れて見ていた。殿下の声はよく通るし、殿下の唇なら遠目でも読める。
殿下とカミラ様が最初に近づいた輪には、北のガイスラー侯爵がいた。
白い口ひげの老侯爵がこちらを向く。私の唇は癖で勝手に動きかけた。ガイスラー侯爵、狩りの話、ご次男のことには触れない。
「ガイスラー侯、ご子息のご結婚おめでとう」
殿下の声は朗らかだった。
老侯爵の口ひげがわずかに固まった。
「……どの息子のことでしょうな、殿下」
結婚したのは次男のフランツ様で、三年前に侯爵が勘当した方だ。お相手は侯爵が許さなかった商家の娘で、その話は北の家々では口にしないことになっている。名簿帳の三冊目に書いてある。
殿下は笑って次の輪へ向き直った。老侯爵は笑わなかった。
次の輪には、殿下の幼なじみの伯爵家の兄弟がいた。殿下が自分で覚えている十人のうちの二人で、挨拶は滑らかに済んだ。殿下は満足そうにカミラ様を振り返る。ほらな、という顔だった。
カミラ様が殿下の袖に触れて、広間の向こうを扇で示した。
「殿下、あちらの背の高い方はどなたですの?」
「……あとで紹介する」
あの方は西の港の商務官で、今年の春に任じられたばかりだ。名簿帳では十一冊目の六頁目にいる。殿下は春の任命式に出ていなかった。
カミラ様はそれ以上は聞かなかった。このときはまだ、殿下が照れているだけに見えたのだろう。
三つ目の輪の真ん中に、黒い喪章のリボンを胸につけた子爵夫人がいた。
ベアトリス様。去年の建国祭ではご主人と二曲続けて踊っていらした。ご主人は今年の春に風邪をこじらせて亡くなった。名簿帳のその頁には細い字で「お悔やみを先に。踊りの話はしない」と書いてある。
「夫人、今夜はご主人はどちらに? 去年は二人でずいぶん楽しそうに踊っていたが」
殿下は去年の踊りだけを覚えていた。
ベアトリス様は笑みを作ろうとして、作りきれなかった。
「春に、亡くなりました」
殿下のまわりの輪がそこだけ静かになった。
私の足が一歩前に出た。夫人のそばへ行って、殿下の代わりにお悔やみを言いたかった。父の腕から手が離れかけたところで私は止まる。
耳打ちは婚約者の務めだった。私はもう婚約者ではない。殿下の口から出なかった言葉を、殿下の後ろから私が埋めることはもうできない。
足を戻すと、父が黙って腕を差し出し直した。
殿下はしばらく何か言葉を探していた。それから、癖のように右うしろを振り返った。
半歩うしろには誰もいない。
殿下の目が泳いでカミラ様の顔で止まった。カミラ様は殿下を見上げて待っている。半歩うしろからは何も来ないことを、カミラ様は知らない。
「……それは、気の毒に」
ようやく殿下が言い、ベアトリス様は会釈して輪を離れた。
広間のあちこちで扇の陰の声がした。
「今夜はリヒター様はどうなさったの」
「殿下のうしろにいらっしゃらないわね」
何人かの視線が柱の陰の私を探し当てた。私は目を伏せた。
殿下は気を取り直したようで、次の輪に自分から入っていく。ブレンナー伯とクレーベ伯が、別々の方向から同じ輪に近づいてくるところだった。
私は名簿帳の背を握った。
あの二家は同じ輪に入れてはいけない。境の川の流れが変わって岸の土地が増え、その土地をめぐって三年も裁判所で争っている。
私は夜会のたびに殿下の歩く順を少しずつ変えて、二人が殿下の前で顔を合わせないようにしてきた。それは耳打ちではなく、歩く速さで済ませてきた仕事だった。
「ブレンナー伯にクレーベ伯。ちょうどいい、こちらはカトリナ・ローゼン嬢だ」
殿下はカミラ様を前に出した。カミラ様の笑みがわずかに傾く。
「……カミラでございます、殿下」
「ああそうだったな、カミラだ。お二人は領地が隣同士だったな。境の川は今年は水がきれいだと聞いた。今度二人で釣りでも――」
「あの川の岸がどちらの物か、まだ決まっておりませんので」
ブレンナー伯が先に言った。
「決まっております。裁判所の仕事が遅いだけです」
クレーベ伯が返し、二人の声が少しずつ大きくなった。土地の広さに昔の地図、去年の洪水。まわりの客が一歩ずつ下がり、輪がひとまわり広がった。
カミラ様は扇を胸元で握ったまま、口論のほうではなく殿下の横顔を見ていた。自分の名前を間違えた人の横顔だ。
しばらくしてカミラ様は小さく一礼し、輪から抜けた。殿下は気づかない。テラスへ出ていく薔薇色のドレスを、私だけが見送った。
口論は侍従長が割って入ってようやく収まった。殿下は疲れた顔で給仕の盆から杯を取り、広間の奥へ向かう。そこにいるのが誰か、私には遠目でも分かった。
隣国エストラの大使、マティアス・ノヴァク閣下。
明日の朝、閣下はこの王宮でアウレアとエストラの通商条約に署名する。今夜の夜会でいちばん大事な客で、私が三日前からいちばん長く名簿帳を読み返した人だ。屋敷の六冊目に挟んでいた四年前の押し花も、三日前に十一冊目へ移しておいた。
殿下は杯を高く上げた。
「グラッツ大使、よく来てくれた。明日の署名を祝して、この白で乾杯しよう。国境の丘で採れた我が国の葡萄だ」
二つ、と私は数えた。
グラッツ閣下は二年前に国へ帰った前の大使だ。そして国境の丘の葡萄がどちらの国のものかは、両国が何十年も決めずにきたことで、明日の条約でも触れない約束になっている。
ノヴァク閣下は杯を受け取ったが、口は付けなかった。そのまま通りかかった給仕の盆に静かに戻す。
「ノヴァクです、殿下。グラッツは二年前に国へ帰りました」
穏やかな声だった。穏やかなまま、広間の半分に届いた。
「それから、あの丘の葡萄がどちらの国のものかは明日の条約では触れない約束だったと記憶しております。……今夜はこれで失礼いたします。署名のことは本国と相談せねばなりませんので」
閣下は一礼して背を向け、随員が慌ててあとに続いた。
「待ってくれ、ノヴァク大使。今のは言い間違いだ」
殿下が呼び止めた。正しい名前は、たった今ご本人の口から聞いたものだ。閣下は振り返らなかった。言い間違いを二つ重ねた人の三つ目の言葉を、外交の場では誰も待たない。
大広間から音が引いていく。楽団の弓が止まり、誰かのグラスが小さく鳴った。玉座の段で国王陛下が椅子の肘掛けに手を置くのが見える。
今度は何十もの視線が、柱の陰の私に向いた。
◇
足音が一つ、壁際に近づいてきた。
「リヒター嬢」
顔を上げるとヴェルナー公爵が立っていた。外務卿のレオポルト・ヴェルナー閣下だ。黒い礼服に、外務の紋章をひとつだけ付けている。
夜会のたびに、この人だけは私にも挨拶をした。殿下に挨拶を済ませたあと、半歩うしろの私に目を移して「リヒター嬢、今夜も」と言う。ほかの客は私を殿下の影として通り過ぎた。
最初は十二の秋の夜会だった。殿下の挨拶が済んで次の輪へ移るとき、まだ外務卿の補佐だったこの人が私に名前を尋ねた。答えると一度うなずいて、それきりだった。
次の夜会で、この人は私を「リヒター嬢」と呼んだ。一度聞いた名前を聞き返さずに呼ばれたのは、あれが最初だったと思う。名簿帳の一冊目に、私はこの人の名前を書いた。横には一行だけ「名前を呼んでくださる方」と添えてある。
「閣下」
「お願いがあります。ノヴァク大使が外套を待っている。時間がありません」
閣下は広間の奥を一度見てから、こちらへ向き直った。
「耳打ちをしてほしいのではありません。私の隣に立って、あなたの声で話してください」
「わたくしは殿下の影でしたので」
「今夜は誰の影でもないはずです」
父が私の腕からそっと手を外した。
「行っておいで、イレーネ」
家の外で父に名を呼ばれたのは久しぶりだった。夜会の父はいつも、殿下の前で私を「娘」と呼んだ。
私は名簿帳を開いた。十一冊目の終わり近くに、薄い紙に包んだものが挟んである。白い花びらが五枚、四年たってもまだ形を残していた。
閣下と並んで大広間を横切る。客の輪が左右に割れていく。殿下の前を通り過ぎるとき殿下が何か言いかけたのが分かったけれど、私は前だけを見ていた。
ノヴァク大使は、入り口の手前で随員から外套を受け取るところだった。
私は大使の正面に立ち、ドレスの裾を持って礼をした。人の名前を囁くのではなく自分の名前を言うのは、こんなに声の出しにくいものだったろうか。
「ノヴァク閣下。リヒター伯爵の娘、イレーネでございます」
大使が外套を持つ手を止めた。
「四年前の春の園遊会で、ゾフィー様に白すみれの押し花をいただきました。エストラでは春の最初のお客様に渡す花だと伺いました」
私は紙を開いて見せた。
「まだ持っております。ゾフィー様はお元気でいらっしゃいますか。今年で十二歳におなりのはずです」
大使は長いあいだ押し花を見ていた。
「……娘の名を覚えておいでか」
「はい」
「あの子は今でもあの日の話をします。アウレアの王宮で、自分の名前を一度も聞き返さずに呼んでくれたお姉さまがいたと。名乗ってもらえなかったのでお名前が分からないと言っていた」
大使の目尻にしわが寄った。
あの日も私は殿下の半歩うしろにいて、名乗る暇はなかった。名乗らないのが私の仕事だったからだ。
「イレーネ嬢ですな。帰ったら娘に教えましょう」
ヴェルナー閣下が一歩前に出た。外務卿として王宮の非礼を詫びる言葉は短く、言い訳がひとつもない。グラッツ閣下の名前も丘の葡萄のことも、殿下のことも口にしなかった。ただ、今夜の客をお迎えする側に落ち度があったとだけ言った。
それから閣下は給仕を呼んで丘の白を下げさせた。代わりに運ばせたのは、エストラの川沿いの赤だった。
「今夜は、どこの丘の話もいたしません」
ノヴァク大使は外套を随員に返した。新しい杯を受け取り、ほんの少しだけ持ち上げる。
「外務卿の言葉と、この方の記憶に免じて。署名は明日のとおりに」
杯の向きが私のほうへ少しずれた。
「イレーネ嬢に」
楽団の弓が、ためらいがちにまた動き始めた。
◇
陛下が玉座の段を下りてきたのは、二曲目が終わったころだった。
広間が自然に道を空ける。陛下は殿下の前で立ち止まった。
「ルートヴィヒ。婚約の破棄は認める。お前が望んだことだ」
「父上、それは――」
「それから一年、外交の席に出ることを禁じる」
陛下の声は低かった。
「その一年で今夜の客の名簿を自分の手で作れ。四百十二人分だ。名前と家と、今夜お前が何を言ったかを書け」
陛下はそこで一度、広間を見渡した。
「お前の半歩うしろで誰が名を囁いていたか。この広間で知らなかったのは、お前だけだ」
殿下の顔から色が引いた。それから殿下は私を見た。半歩うしろではなく、外務卿の隣に立っている私を。
殿下は口を開きかけて、癖のように右うしろを振り返った。そこにはやはり誰もいない。
「おい……戻ってこい。……リ、リヒター」
私の家の名だった。殿下は私の名を呼ぼうとして、呼べなかった。
「殿下。わたくしの名前をご存じでしたか」
殿下は答えない。答えられないことを広間じゅうが見ていた。
「名簿をお作りになるときは、四百十二人のうちにわたくしの名前もございます。どうぞお書き添えくださいませ」
私は一礼して殿下に背を向けた。
テラスに出ると夜の空気が冷たかった。
手すりの端にカミラ様がいた。薔薇色のドレスの肩が、灯りの届かないところで小さく見える。私に気づくと、カミラ様は扇で顔の半分を隠した。
「……笑いにいらしたの?」
「いいえ。風に当たりに参りました」
しばらく二人とも黙っていた。広間から楽団の音が細く漏れてくる。
「あの方たちのお名前、全部ご存じでしたの?」
「今夜いらした方なら、ほとんど」
「殿下は、わたくしの名前もご存じなかったわ」
カミラ様は扇を下ろした。泣いてはいなかった。
「右から話しかけられるのがお嫌いだと教えてくださったでしょう。左から話しかけたら、殿下はちゃんとこちらを向いてくださったの。それなのに名前は違っていた」
「カミラ・ローゼン様」
私が呼ぶと、カミラ様が顔を上げた。
「三年前の春の園遊会で、迷子の子犬を連れていらした方です。茶色の、耳の片方だけ白い子でした」
「……ペッパーだわ。まだ元気よ」
「存じております。今年の夏の園遊会でも、お連れでしたので」
カミラ様は少し笑って、それから深く息を吐いた。
「わたくし、殿下の隣に立ちたかったの。きれいな場所に見えたから」
「きれいな場所でございますよ。ただ、ずいぶん忙しい場所です」
カミラ様は扇を閉じ、広間ではなく庭へ下りる階段のほうへ歩いていった。侯爵家の馬車を呼ぶのだろう。去り際に一度だけ振り返った。
「イレーネ様、でしたわね。今度は、わたくしがお名前を覚えておきますわ」
ヴェルナー閣下がテラスに出てきたのは、その少しあとだった。
「八年、あなたに挨拶をしてきました」
閣下は私の隣に立って言った。口説く言葉を探しているようには見えない。事実を一つずつ並べる人の話し方だった。
閣下は杯を二つ持っていた。一つを私に差し出す。
「あなたは夜会で一度も杯を持たなかった。手が帳面でふさがっていたので」
受け取ってみると、杯は思ったより軽い。
「いつから、ご存じだったのですか」
「二年前の春の園遊会からです。あなたは熱を出して来なかった。あの日、殿下は六人の名前を間違えました」
閣下は広間の灯りのほうを見た。
「気づいたのは、たぶん私だけです。それからは夜会であなたの唇を見ないようにしていました。見ると、殿下が次に何を言うのか先に分かってしまう。……そう自分に言い聞かせていましたが、本当は殿下の言葉より、あなたの唇ばかり見ていたからです」
「なぜ黙っていらしたのですか」
「あなたは殿下の婚約者でした。外務卿が王太子の婚約者の仕事に口を出せば、壊れるのは殿下の評判ではなくあなたの立場です。だから挨拶だけをしていました。名前を呼ぶことなら、誰にも咎められない」
閣下はそこで言葉を切り、こちらを向いた。
「これからは私の隣で客に挨拶をしてほしい。私の妻として」
すぐには答えられなかった。半歩うしろより前に立つ自分を、私は思い描いたことがない。それでも、さっき大広間を横切ったときの床の感じを足がまだ覚えていた。誰の影でもなく歩いた四十歩だった。
私は杯を手すりに置き、名簿帳を胸に抱えた。十一冊目の最後の頁はまだ白いままだ。
「条件を一つ申し上げてもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
「次の夜会では、わたくしの名前もお客様にご紹介いただけますか」
閣下は少し考える顔をしてから、私の空いた手を取った。
「最初に」
そして、私を呼んだ。
「イレーネ」
十一冊の名簿帳に、私は四千人あまりの名前を書いてきた。
自分の名前だけは、一度も書いたことがない。
これからも書かなくていい。隣で呼んでくれる人がいる。




