きっかけ
俺が立花さんと呼んだ時間は案外短かった。立花さんから楓に変わったのはたった一夜だったし、立花楓は一年も経たずに長谷川楓になった。
楓とは同期入社。いつも一つに髪を束ねて、パンツ姿で社内を颯爽と歩くというよりも、すれ違いざまに目が合うとくしゃりと微笑んで「おはようございます~」とペコリと会釈する。
上京組の俺は、まるで彼女がビル街の影にひっそりと隠れるオアシスだと思っていた。
あまりにも無知だった俺は、オアシスの深さなんて考えもせずにある日の会議終わり。
上司や先輩たちが足早に会議室から出ていくのを見計らって
「立花さん、今日飲みに行きませんか?」
と後ろから声をかけた。
楓はいつものキンモクセイの香りを振り撒くようにこちらを振り返った。
「健斗くんは何が食べたい?」
「立花さん甘いもの好き?」
数日前に同期の川下から聞き出した情報の答え合わせにすぎない。
「え!好き」
「よかった。料理もうまいんだけど、パンケーキもうまい飲み屋があってさ、駅前なんだけど」
「行きたい!」
楓の目が一瞬で輝いた。俺はもう叫びたかった。
「定時には会社を出れるようにな」と神谷課長がいつも言ってくれるのをこれ程ありがたいと思ったことはなかった。
17時、タイムカードを切った。たまたま、エレベーターが5階にあった。一度も他のフロアに止まることなく1階へと運んでくれた。ゲートを早歩きで抜けた。
「お疲れ~」
「お、お疲れ」
俺は自分の目を疑った。目の前で微笑んでいたのは、ハーフアップで膝丈のスカートをまとった女性だった。
「ごめん、待った?」
「ううん、楽しみで5分早くフロア出ちゃった」
言葉の紡ぎ方が楓以外に考えられなかった。
「じゃ、じゃあ行こっか」
金曜日の夕暮れ、たしかに人は多かった。すでに酒の臭いのする人ともすれ違った。楓は居酒屋に着くまで俺の後ろを歩いていた。
高架下を通っても路上ライブの横を通っても楓の足音だけに集中した。楓の手を握ってしまえばどこであろうと安全なのに、彼女の小さな手を包み込む勇気すらなかった。
席に着くと楓は体を捻ってタブレット端末を覗き込む。まだ夏の暑さが残っているのに彼女の顔に汗の一滴もなかった。俺は少しのけ反った。近づいたキンモクセイの香りに自分の汗の臭いが勝ちそうだった。
「お酒久しぶりだなー」
「お酒、あんまり飲まない?」
「最近は食事メインだったかな。あ、私卵焼き食べたい、あ、あと枝豆も食べたい。健斗くんは?」
「んー俺はビールにしようかな。あとは、立花さん焼き鳥食える?」
「オッケー。好きだよ~。たれ?塩?」
「塩かな」
「本当?!私も塩が好き~」
俺は川下にいくら払えばいいんだろう。楓は次々とカートをいっぱいにしていく。
楓が最後に追加した梅酒サワーが運ばれてきて、やっと
「お疲れさま~かんぱい!」
とグラスとジョッキを静かに合わせた。ほとんどビールの泡は消えていたけど、聞いたこともないくらい大きな音でビールは喉を流れていった。
「んーやっぱりお酒は人と飲むのがおいしいな~」
楓は声を立てて笑った。「そうだね」と俺も思わず笑ってしまう。
「総務はあんまり飲み会ない?」
「そうだね、結構こどもいる人多いからかな、あんまりないかな~」
「じゃあ、家でのんびりできる?」
「うん、料理する。でも、人が作ったものも食べたくなる」
「わかる気がする、自炊嫌いじゃないんだけど、居酒屋の卵焼き食べたくなるみたいな」
恐る恐る楓の方をみると、箸を持った右手をブンブンふっていた。
「そう、そうなの!この味が食べたいってなるの」
楓はそのまま湯気の立ち上る卵焼きを一口で頬張る。
「おいしいなぁ。健斗くんも食べな、はい」
楓はその箸で一切れ卵焼きを持つと、俺の半開きの口に滑り込ませた。
「ん、ん、んまい」
「おいしいよね~」
口に収まった卵焼きは熱かった。やけどはしないのに熱くて喉が焼けそうだった。たまらずビールを流し込む。
「健斗くんめっちゃ飲むじゃん。私も負けないぞ~」
俺がグラスを空けそうになると楓も飲むスピードを早めて、わんこそばのようにアルコールを口に流し込む。
「そんな大丈夫?久しぶりなんでしょ?」
「大丈夫だよ~立てなくなったら健斗くんに抱っこしてもらう~」
止められるわけがなかった。むしろ進めたかった。
俺たちは酒に弱かった。楓の背骨がふにゃふにゃになって、俺の全身をめぐる血が酒になったころ、店の端から端まで続くテーブルに俺たちだけが座っていた。どんなに小さい声で話しても店員は全てを聞いてしまうはずなのに、淡々と隣のテーブルを拭いていた。
「健斗くん~座ってられないかも~となり座る~」
「来いよ~」
目の前に置いてある皿にのっているのがちくわぶなのか竹輪なのか考えていると、右腕にじんわりと体温を感じた。
「健斗~。私、帰れないかも~」
「だ、大丈夫だよ。俺が送るから」
「本当?!抱っこしてくれるの~?」
水面を跳ねた魚に心臓をつかれた。
「い、いや、あ、歩けよ」
楓の細い腕が右脇にするりと入り込む。沸騰は通り越した、たぶんいまはのぼせてる。
楓の腕が思ったよりも冷たくて、思わず脇を引き締めてしまった。楓は突然俺を見上げた。
「帰り道思い出しちゃった」
大きな瞳がゆらゆらと揺れていた。
「お、俺は家まで帰れない、、かも」
楓が腕をパッと離したから、俺は「冗談、冗談、ほら帰ろ」と自然に笑えた。
テーブルいっぱいに並んでた料理の皿は次々と店員に片付けられ、氷の溶けきったグラスが2つだけ取り残されていた。
腕は離れたのに、右脇に残った体温と、キンモクセイの香りがまるで離れなかった。
「健斗、したい」
俺は何度か唾を飲み込んだ。乱高下したからか音が曇ってしまう。隣のテーブルで調味料を補充していた店員はいなくなっていた。
耳に染み込んでいく楓の声は、間違いなく本物だった。
「嘘だっていうならいまだよ」
俺の口からこぼれ落ちた言葉に俺自身も訳がわかってない。
楓にはもっと伝わってないはずなのに、楓はこぼれ落ちそうな瞳で
「嘘じゃない」
と恥じらってみせた。
お互い5000円札出しておつりは全部楓の財布に押し込んだ。結局パンケーキを食べ忘れたことも忘れて、夜風で覚めない距離にあるホテルに入った。
ベッドを挟んで楓と俺は1枚1枚脱ぎ落とす。男の俺は裸になるのが早くて、こっそりと後ろを振り返る。満月だというのに楓はホックにてこずっていて、細い手首の角度を何度も変えて、そんなのもじれったくて、手が勝手にのびてしまった。
「楓、待てない」
「あ、健斗、、」
両サイドからベッドに沈みこんだ。楓はどこを撫でても体をびくびくとさせて、いつもの笑顔なんてみる影もなかった。ただ切なそうに「んー」とか「あー」とか声を溢れさせ、俺を見つめてきた。
あまりにも柔らかくてこれ以上強くしたら壊しちゃうかもしれない。でも、俺は止められなかった。胸が詰まるような思いもしたけれど、もっと見たいと欲張ってしまって、撫でるだけでは満足できなくなった。
「ん、ん、健斗、、」
「まだ、、もっと、、」
もっと、もっとと楓の中で何度も溶けてとろけていった。
ベッドに差し込む光が黄色く色づき始めた。楓は俺の腕でゴロゴロと眠っていた。俺は腰も痛くて、何より自分の心臓が大きくなり続けて一睡もできなかった。
昨夜の喉の奥から絞り出したような声を思い出して、思わず楓の髪をなでてしまった。楓は目を覚ました。
「おはよう。ふふ、楽しかったね」
楓は夜を粉々に割るように微笑んでいた。微睡む様子もなく、しっかりとした足取りでベッドから出ていく。
楓と呼ぼうとして言葉が詰まった。
「健斗、家近いの~?」
「う、うん」
楓は窓際に落ちていた下着もスカートも一気に拾い上げ、軽くベッドの端に投げた。また、それを拾って1枚1枚袖を通していった。
「意外と健斗と家近かったんだね。なんだ、知らなかった」
「そうだね」
「あ、そういえばパンケーキ食べるの忘れちゃった」
「そうだね」
楓も俺ももう酔ってなかった。楓の白い肌はもうほとんど見えない。ハーフアップを作りなおしはじめてしまう。
起き上がる力がなくて、でも光に包まれてしまいそうな背中を逃したくなかった。
「楓」
「んー?どうしたの?」
「楓、付き合ってほしい」
何も着ないで横になったままで、俺だけ青白い月明かりの中で、水辺の中でもがいてるみたいで恥ずかしかった。
「いいよ~、付き合お~」
「ほ、ほんとに?」
綿菓子くらい重さがなくて、でも俺は楓の言葉に飛び付いた。離しちゃいけないと思った。
「うん。ちょっと~風邪引くよ~」
楓は反対側に回り込んで床に散らばった俺の衣類を拾い上げていた。
「楓って呼んでいい?」
「あはは、どうぞ~」
この二週間後、俺は楓にプロポーズした。
そして、立花楓は長谷川楓となった。




