八月蝉い《うるさい》
ジッ……ジジッ、ジジジジジ!
「うわっ! びっくりした」
足元に転がっていた蝉の死骸が突然鳴き出して、わたしは足を慌てて上げた。
ぐらりとバランスを崩す。転びそうになったけど、なんとか堪えた。
わたしは地面で鳴きつづけるその蝉を見直した。
よくある蝉爆弾なんだろうけれど……
まじまじとみると、その茶色の体は半分潰れている。
これでもちゃんと鳴くんだ。
「なにやってんだ?」
前を歩いていた勇作が聞いてきた。
「いや、これ見てよ。
こんな状態になっても鳴くって根性すごいって思わない?」
ドライブで立ち寄った公園に少し大きな林があったから、ちょっと散策をすることにした。
林は、木々がいい感じで太陽を遮ってくれて、快適だった。
蝉の声がやたらうるさかったけど……
しばらく歩くと、地面に蝉の死骸がやたらあることに気がついた。
できるだけ避けて歩いていたけれど、その内、足の置き場に困りそうになった。
気持ち悪いし、めんどくさいので、引き返そう、と言いかけた矢先のことだった。
「なんだこれ。
半分にちぎれてるのにまだもぞもぞ動いてる。
根性すごいって言うより、気持ち悪い」
勇作は興味深そうに蝉を見ていた。転がっていた木の枝で蝉をつっつきだした。
「やめなさいよ。可哀そうでしょ」
「うん? いいじゃん。あ、掴まってきた。がんばるねぇ」
蝉は、つっついてくる枝に足を絡ませてきた。
勇作は、面白そうに枝の先に掴まった蝉を眺めていた。
「これ、どうなってんだろう。
こいつ自分が死んでるってことがわかってないんじゃないのか?
腹のところも割れてるみたいだな……」
そういいながら、勇作は枝から蝉を引きはがしてお腹の様子を見ようとした。
悪趣味にもほどがある!
「ちょっと……」
もうやめなさい、と言う前に、勇作が顔をしかめた。
「あちっ!」
勇作は慌てて蝉を放り投げた。
蝉は地面に転がり、ジジジと不満げに鳴いた。
「大丈夫?」
「こいつ咬みやがった」
勇作は自分の指先を見ながら毒づく。
指先から滲み出てきた血がぷっくりと玉になった。
「だから止めたじゃん。
そんなの不用意に掴むからそうなるんだよ」
「忌々しい。この死に損ないが!」
勇作は腹立たしげに蝉を踏みつけた。
踏みつけられた蝉がまた、ジジッと短く鳴いた。
「行こうぜ」
すっかり興味をなくした勇作は立ち上がると歩き出した。
「ああ、待って……」
私は慌ててついて行こうとする。
チ、チチチチ……
微かに震える音。
さっき踏み潰された蝉の残骸をちらりと見た。
「まだ鳴いてる……? まさかね……」
指先を口に咥えて歩く勇作に、わたしは追いつく。
「ね、大丈夫?」
「こんなのは唾つけとけば治る」
「でも蝉ってさ、あの針みたいな口を木に刺して樹液を吸うんだよね。
よく考えると怖くない?」
他愛のないお喋りをする私。
勇作は黙って歩いていた。
蝉の鳴き声だけは相変わらずうるさかった。
上からも下からも騒がしい。
まるで蝉の声に押し包まれた感じがした。
「うん……?」
勇作が立ち止まると怪訝そうに前方を指差した。
「なんだあれ。木か?」
道の真ん中になにか焦げ茶けたものが転がっていた。
木の枝にしては大きい。人ぐらいの大きさだった。
「うんと……丸太……倒木?」
両脇に生える木が倒れて、転がったのかと思う。
シャカ、シャカ
ジー、ジー、ジー
シャワシャワシャワ
蝉の鳴き声がやたらする。
それになんか近い。
わたしは、周囲の木を見上げた。蝉は見つけられなかった。
視線を道端に転がる謎の物体へと向けなおす。
「うん?」
わたしは眉をひそめた。
丸太の表面が小刻みに動いているように見えた。
単なる錯覚かと、目を凝らして見ても結果は同じだ。
むしろ確信に変わる。間違いなく動いていた。
少し近づいてみて、理由が分かった。
「え、なに……、これ蝉?」
丸太の表面にはびっしり蝉がたかっていた。
そして、蝉の間から見えたものに驚いた。
「ちょ、ちょっとあれ、あれ見て!」
勇作の肩を掴んで私は小さく叫んだ。
「……人の手……?」
丸太の枝と見えていたものが、そうじゃないとわかった。
五本の指が蠢く蝉の間からはっきりと見えた。
「えっ?! やだ、これ人じゃないの!」
「まじかよ」
慌てて近づき、よく見る。
人だった。
倒れた人に無数の蝉がたかっていた。
「だ、大丈夫ですか?」
倒れている人に向かって勇作が声をかけた。
男の人のようだ。
口を大きく空けたまま、地面に突っ伏してピクリとも動かない。
ただ見開いた目玉が動き、わたしたちを見た。
「大丈夫ですか?
声、聞こえますか?」
勇作の声に男の人の目がヒクヒクと動いた。
「意識はあるけど動けないんじゃないの?」
「そ、そうだな。
救急車を呼んでくれ。
って、なんだこの蝉は!」
勇作は男の人にたかった蝉を無造作に払い除ける。
わたしは携帯を出して救急車を呼ぶ。
数秒の待ち受け音の後、すぐに救急センターが出た。
「すみません。えっと公園を歩いていたら倒れている人がいて、すぐに来てほしいのです」
『分かりました。住所は分かりますか?』
「えっ、……住所はわからない」
『公園の名前でも良いです』
「公園の名前、名前は確か……」
焦るわたしは、視線をなにげなく道の先へと泳がせる。そして、言葉が止まった。
『…………もしもし。もしもし、聞こえますか?』
携帯電話からの声が、ひどく遠くから聞こえてくるようだった。
目の前の光景にわたしの思考が凍り付いていた。
道の先に、似たようなものが幾つも転がっていたのだ。
ぱっと数えて五つ。
「……あれ、もしかして全部、人?」
「うお、なんだこれ!」
突然、勇作が大声で叫んだ。
わたしははっと我に返り、勇作の方を見た。
勇作の手が真っ赤に染まっていた。
「なに? 何やったの?」
「知らん。蝉を潰したら血が出た。こいつらこの人の血を吸ってる」
「なにいってんの」
ぽとりと手になにかが落ちてきた。
蝉だ。
下半分がない死骸にしかみえない蝉。
それがわたしの手首のところに必死にしがみつき、もぞもぞと蠢いていた。
携帯電話からは救急センターの声。
なんでこんなものが落ちてくる?
なんでこれ、動く?
公園の名前
救急車よぶ
倒れている人、助けないと
いっぺんに処理しなくてはならない事案がありすぎて頭が馬鹿になった。
蝉がもぞもぞ蠢きながら、ゆっくりと針をわたしの手首に突きたてた。
皮膚を突き破りずぶずぶと針が刺さっていく。一呼吸置いて、鋭い痛みが走った。
「あ、イタッ!」
痛みが再び、わたしを正気に戻す。と、同時に蝉の下半分からボトボトと血が滴り流れた。
「うわっ。うわっ、うわっ!」
慌てて腕を振って蝉を振り払う。
その拍子で、手に持っていた携帯も取り落とした。
「なによ?! なに? なにが起きるの?」
わたしは手首をなんども拭いながら叫んだ。全身にゾワゾワと鳥肌がたっていた。
「なにやってる。早く救急車呼べよ」
勇作の声がわたしを叱責する。
携帯からはわたしを呼ぶオペレーターの声。
しかし、その携帯は半ば蝉の死骸に半ば埋もれていた。
しかもその死骸に見える蝉たちはなぜかもぞもぞと蠢き、這いずりまわっていた。
携帯を拾おうと伸ばした手をゆっくりと引っ込める。
「ムリ! 絶対にムリッ!」
「はっ? なに言ってる! しょうがない」
勇作は舌打ちをして自分の携帯を取り出す。
ところが、その携帯がポロリと手からこぼれ落ちた。
「な、なんだこれ?」
信じられない、と言うような表情で勇作は自分の右手を見つめる。
勇作の右手は人差し指と中指が歪に曲がり、アイドルがファンサでピースをしているような形だった。
一瞬、何をふざけているのかと思った。
「手が……手が動かねぇ……」
勇作のうめき声でそれが冗談ではないことがわかった。
「一体、どうしたっていうの?」
「分かんねぇよ。でも手が全然動かないんだ。
とにかく、この人連れて、ここを出よう。
そっちを持ってくれ」
「え? 連れて行くの?」
「当たり前だろう。こんなところに置いていけないだろう」
勇作は地面をはいずる蝉たちを蹴り飛ばした。
地面のいたるところに蝉がいた。
もう地面全体がすっかり蝉に覆われているようにも見えた。
そいつらはゆっくりと、わたしたちに向かって這いずってくる。
「ちょ、やめて!」
ズボンのすそに二、三匹の蝉が張り付いているのを見て慌てて、わたしは蝉を振り払った。
本当にこれは、わたしの知っている蝉なのか自信が無くなってきていた。
この人だけ助けても意味がない、と口から出かかったが、やめた。
ため息をつき、倒れている人の肩へ手を回した。
男の体は強張って、まるで木のように硬かった。
それに思った以上に重かった。
とにかくわたしたちは協力して男の人を左右から支えて歩き始めた。
しばらく歩いていると、突然勇作の脚がもつれた。
「勇作、大丈夫?」
「ああ、はいどうぶ」
「え、なに?」
なにを言っているのか分からない。
驚いて勇作の方を見る。
勇作は、顔の半分を引きつらせていた。
口が半開きになり、だらりと伸びた舌からよだれが垂れている。
浮き上がった静脈がまるで木の年輪のように見えた。
「ゆ、勇作、その顔、どうしちゃったの」
がくんと勇作が膝をついた。
バランスを崩してわたしたちは転倒した。
「勇作! 勇作、しっかりしてよ」
「あ、あう、ああ……」
勇作は突っ伏したまま、言葉にならない声を漏らす。
顔色はくすんだ焦げ茶色。
人の顔色がそんな色になるなんて知らなかった。
助け起こそうと手を伸ばす。
掴んだ指がするりと外れた。
力が入らない。
愕然として、わたしは自分の指を見る。
指が変な形で固まっていた。
「なに……これ」
触ってみる。
木の枝のように硬くなっていた。
勇作と同じ……いや、倒れていた男の人と同じ。
足首に、もぞもぞとした感触を感じ、慌てて立ち上がり、狂ったように蝉たちをふるい落とす。
「勇作!」
わたしは泣きそうな声で勇作の名前を呼ぶ。
でも、勇作は立ち上がってくれない。
「ごめん。すぐ助けに来るから……」
わたしは二人を置いて、林道を出口に向かい走り出す。
林の上からバラバラとなにか落ちてきた。頭や肩に硬いものが当たる。
髪に絡みついたものを引き剥がして見る。
羽根がちぎれた残骸としか言えない蝉だった。
一本しか残っていない脚を動かしてわたしの手のひらに針を刺そうとしている。
「ヒッ!」
手のひらの蝉を、わたしは反射的に放り投げる。
髪に、肩に、背中に蝉が貼り付いているのがわかる。
手の届く範囲で蝉たちを払い除けながら走る。
蝉が降ってくるのが止み、ほっとする間もなく、今度は足に異変を感じた。
足指に力が入らない。
バランスを取るのが難しくなる。
足を引きずりながら走る。
「あっ?!」
ついに転んだ。
右の膝が曲がらない。
立ち上がろうとして、またバランスを崩して顔を地面に強かに打った。
いつの間にか右手も固まって動かなくなっていた。
わたしは必死になって、まだ動く左手と左足を使って這いずっていく。
林の出口はあと少し、もう少し行った先にあるのだから。
ふぅー ふぅー ふぅー
あと少し。もう左足も動かない。
左手で必死に地面に爪を立てる。
1センチ、2センチとじりじりと進む。
ふう ふう ふう ふう
あと少し、あと少しだけ……
…… ふう …… ……
薄暗い林の下、わたしは地面に転がっている。
もう、わたしの体はピクリとも動かない。
目と耳だけが働いている。
かさかさと枯葉をかき分け、あいつらが這い寄ってくるのが聞こえる。
腕を、足を伝い、無数の蝉がわたしの体に群がってくるのが分かる。
シャカシャカシャカ
ジージージージー
ああ、なんで、あと少しなのに……
もう見ることもできないけど、あと数メートル先に林道の入り口があるはずなんだ。
「へぇ~、結構、すずしいね」
声がした。誰かが来た。
助けて、だれか……だれか、助けて
必死に叫ぶけど、声にならない、叫べない。
「だね。蝉の声、うるさっ!」
「ね、地面見てよ。めちゃくちゃ蝉が転がってるよ」
女性の声。
「うわ、ほんとう。死骸……、いや、なんかちょっとみんな動いてない。
これ気持ち悪いわ、やめない?」
「まって、まって。これ動画とってあげたらバズらない?
ちょっと、杏奈、その蝉、手に乗せてよ」
叫ぼうとしても、喉からは、ヒューヒューと空気が漏れる音しかしなかった。
「やだ!」
「あっそう、じゃあ、自分でやるわ」
ああ、だめ……その蝉に触っちゃ、駄目。
必死に叫んでも、わたしの口からは意味のある声は出てこない。
耳元に一匹の蝉が這いずり、針を突き刺した。
鋭い痛みに、悲鳴を上げる。
「ヒ、ヒヒュゥ。ヒ、ヒヒュゥ」
悲鳴は意味をなさない。
声を限りに叫んでも、誰の耳にも届かない。
代わりに蝉が、鳴き始めた。
夏の季節を賛美するかのように、高らかに。
終わることなく、鳴き続ける。
「痛い! こいつ咬んだよ」




