第2章:辺境への旅路と新たな一歩
レースと絹で飾られた豪奢なドレスは無慈悲に剥ぎ取られ、代わりに与えられたのは、ごわごわした肌触りの粗末な旅装束だった。髪を飾っていた宝石も、指輪も、イヤリングも、全てが取り上げられた。今の私は、ただのアリアンナ。もはや公爵令嬢の威光など、ひとかけらも残っていない。
たった一人の寡黙な護衛騎士に連れられ、私はガタガタと絶え間なく揺れる質素な馬車に押し込められた。行き先は、北の辺境の町、フォルティス。王都の人間が蔑みを込めて口にする、地の果てだ。
車輪が石畳を噛む音を聞きながら、私は窓の外を流れる景色をぼんやりと眺めていた。これまでの人生が、走馬灯のように頭を駆け巡る。
王太子妃になるためだけに費やした十八年間。朝は早くから歴史と経済学を学び、午後はダンスと音楽のレッスン。夜は各国の情勢を頭に叩き込み、寸暇を惜しんで自分を磨き続けた。エドワード殿下の好きな詩を覚え、彼の好きなお茶の葉を取り寄せ、彼が興味を示した絵画の知識を深めた。全ては、彼の隣に立つに相応しい女になるため。その一心だった。
それなのに、リリアという小娘が現れてから、全てが崩れた。彼女の計算された涙と可憐な仕草の前では、私の長年の努力など、何の価値もなかったのだ。
「……馬鹿みたい」
ぽつりと、乾いた唇から言葉が漏れる。悔しさと虚しさが、波のように寄せては返す。でも、不思議と涙は出なかった。断罪の場で流した涙が、最後だったのかもしれない。
今の私の心を占めているのは、絶望よりもむしろ、前世の記憶がもたらした奇妙な冷静さだった。
旅の途中、日が暮れた頃に立ち寄った村の安宿で、夕食が出された。木の皿に乗っているのは、石のように硬い黒パンと、やけに塩辛い干し肉のスープだけ。これまで口にしてきた王城の洗練された料理とは、天と地ほどの差がある。美食に慣れ親しんだ公爵令嬢アリアンナならば、きっと一口も食べられずに泣き崩れていただろう。
しかし、私は黙々とその硬いパンをスープに浸し、口へと運んだ。
護衛の騎士が、そんな私の様子を少し驚いたように見ていた。きっと、私が泣き叫ぶか、食事を喉に通せないだろうとでも思っていたのだろう。
だけど、前世の佐藤美咲は知っている。仕事で疲れ果て、終電間際に駆け込むコンビニ。そこで買うおにぎりやサンドイッチ。時間がない日は、デスクでカップ麺を啜ることもあった。それに比べれば、温かいスープがあるだけずっとマシだ。
どんな状況でも、「食」は生きるための力になる。温かいものを口にするだけで、冷え切った心に少しだけ血が通う気がする。美咲としての記憶は、私にそんな当たり前の、けれど何よりも大切なことを教えてくれていた。
何日も続いた長い旅の末、ようやく馬車が北の辺境の町「フォルティス」に到着した。王都の噂では、荒れ果てた寂しい土地だと聞いていたが、実際に目に映ったのは、想像とは少し違う光景だった。石造りの家々は古びているけれど頑丈そうで、道行く人々は屈強な体つきの者が多い。獣の毛皮をまとった猟師や、武骨な鎧を身につけた冒険者らしき人々が行き交い、荒々しいながらも、そこには確かな「生活」の活気があった。
馬車が町の広場で止まると、護衛騎士は私に銀貨が数枚入った小さな革袋を投げ渡し、「役目は果たした」とだけ告げて、さっさと馬車の向きを変え、王都の方角へと去っていった。
本当に、ここに放り出されるのか。
一人きりになった私を、町の住人たちが遠巻きに、好奇と訝しげな視線で見ている。途方に暮れ、立ち尽くすしかなかった私の前に、ずしりとした足音を立てて一人の女性が現れた。
「あんた、こんな所でどうしたんだい? 見るからに訳ありって顔だね」
声をかけてきたのは、腰に手を当てた恰幅の良い女将さんだった。彼女の背後には、「狼のねぐら亭」という看板を掲げた、少し古びた宿屋があった。
「……行くところが、ないんです」
か細い声でそう答えると、女将さんは大きなため息を一つついて、私の腕をぐいと掴んだ。
「しょうがないね。とりあえず、うちに来な。話はそれから聞いてやるよ。あたしはマルタ。この宿の女将さ」
マルタと名乗る女性の強引さに戸惑いながらも、その手は不思議と温かかった。
彼女に引かれるまま、「狼のねぐら亭」の扉をくぐる。この町で、私は生きていくのだ。
胸の中には、一つの具体的な目標が、確かな熱を帯びて宿っていた。
――この町で、「カツ丼」を作ってみせる。そしていつか、自分の店を持つのだ、と。
これが、私の新たな人生の、本当の一歩目だった。




