File90 死海と視界
どくんどくんと心臓が音を立てた。
何も見えない。
けれど星崎のメッセージが正しければ、僕と彼女の間には何かが佇んでいる。
どうすればいい……どうすれば……
「そうだ……!」
僕は咄嗟に塩を取り出すと持っていたミネラルウォーターのボトルにそれを流し込んで激しく攪拌する。
溶け切っていない塩の結晶が舞うミネラルウォーターを口に含み僕は星崎の隣に駆け寄った。
塩の飽和水溶液は死海の水みたいに苦くて辛い。
思わず吐き出したくになったけれど、今はそれどころではない。
「ん……!」
ボトルを差し出す僕に星崎は目を丸くしていたけれど、それを受け取るなりグッ……とボトルの中身を口に含む。
間接キスだなんて思わない。
僕らはそのままドアに向かい、南京錠の番号を合わせた。
カチ……と音がして南京錠はいとも容易く僕らを屋上に招き入れる。
ドアをくぐって屋上に出ると、そこには抜けるような青空が広がっていて、冷たい十二月の風が吹き抜けていた。
一瞬それに見とれてから僕は塩水を吐き出し、星崎に声をかけた。
「どうだ……? まだ気配するか……? 僕は何も感じないけど……」
星崎はやや躊躇ってから諦めたように塩水を吐き出し、口を拭いながら答えた。
「おかげで助かった。取り乱してすまない……」
今朝の涎を気にしているのか、執拗に口を拭ったせいで星崎の口元は少し赤くなっている。
「とにかく、あとはお互いの視界から出ないように気を付けてフェンスに近寄らなければ大丈夫だよな?」
「うん。じゃあさっそく」
星崎の言葉で僕はスマホを取り出した。
今からが恐怖の本番なわけで……
よりによって曰く憑きの屋上で恐怖動画を見る必要があるのかは謎だけど、心霊マニアからすればそれは正しいことなのかもしれない。
そんな事を考えている僕をよそに、星崎は屋上の床から飛び出すように設けられた出入り口の壁に背中を預けて座り込んだ。
そのうえお尻の下にはきちんとハンカチを引いている。
「何してんだよ……?」
僕がそうつぶやくと、星崎は隣の地面を叩いて言った。
「まずは腹ごしらえ。お弁当を作ってきた」
「こんな場所で⁉ 嘘だろ……? それに僕は何も用意してないぞ?」
「している……」
「え?」
星崎は思い出したように逸らしかけた視線を戻すと、僕の方を向いてもじもじと言った。
「空野の分も用意している……口に合うかは不明……嫌なら食べなくてもいい……」
やけにデカい包みだとは思っていたけれど、そういうことだったのか……
バカみたいに照れくさくて、そのくせどこか嬉しくて、僕も思わず視線を逸らしそうになる。
そうだった……視線から外れちゃいけないんだっけ……
僕は星崎の動作の意味を自分の番になって理解した。
そのまま星崎の持つ弁当箱あたりを見ながら、僕は小声で「ありがとう……」と言って星崎の隣に腰かけた。
実はあのメモ書きは、小林の考えた下世話な作戦なんじゃないか……?
そんなことを考えていると、星崎が緊張したような顔で弁当の蓋を開けるのが見えた。
風は相変わらず冷たく頬を撫でたけれど、正午の日差しをいっぱいに受けた屋上は、陽だまりの温かさで満ちていた。




