File86 普通と異常
廊下に出ると大音量で洗脳処女が歌を歌っていた。
ドキリとするキーワードが随所に散りばめられた歌詞と、単調な電子音のリズムがどこか現実感を希薄にするそんな歌。
僕が眉間に皺を寄せていると、星崎がそんな僕を見上げて口を開いた。
「空野歌詞がわかる?」
「そりゃ、何となくだけど……」
星崎は目を細めてしばらく考え込んでからスタスタと歩き始めてしまった。
僕は慌てて星崎の後を追う。
「おい⁉ 何だよ今の質問⁉ 気になるだろ!」
後ろから声をかけると、星崎はちらりと振り返って小声で答えた。
「わたしはこの歌が何を言ってるのよくかわからない……」
「え?」
僕が呆気に取られていると、星崎は少しだけばつが悪そうに頬を赤くして、さらに小さな声でこう言った。
「歌が早すぎる……」
いやいやいや……おばあちゃんかよ……
僕の心の中を見透かしたらしく、星崎はじっとりとした目で僕を睨みながら口を開いた。
「今、おばあちゃんみたいと思った……?」
「いや……もっと意味深なのかと思うだろ⁉ 普通!」
慌てて弁明する僕を星崎は許さない。
やれやれとため息をついてから、腰に手をあてて講釈を開始する。
「そもそも普通という言葉の定義が意味不明。多様性を謳いながら本当の意味でのマイノリティーを排除する昨今の風潮に異議を申し立てたいところ。声の大きい者の意見がより通りやすくなっただけで、構造的には依然マイノリティーを排斥している。政府の言う多様性と、それの親善大使的なアイコンは結局ポーズで、多様性という名目で何でもを受け入れるシープルを量産するのが真の狙い。真にマイノリティー保護を謳うなら発覚すらしていないような苦しい境遇にある国民を守る方が、元気一杯な活動家を支援するよりずっと重要」
おっしゃるっ通りだが、おばあちゃん問題は何も解決されていない気がする……
そうとは言わずに僕は頷き、この話題を早々に切り上げた。
戦略的撤退が板に付いてきている気がするのは、この際気づかなかったことにしておこう。
いつの間にか洗脳少女の歌声は名前も知らないオーケストラに変わっていて、僕らはスピーカーを見ながら黙ってそれを聞いていた。
「シンフォニエッタ」
星崎はつぶやくように言った。
「この曲のことか?」
「そう。村上春樹の1Q84にも登場する名曲。ちなみにこのQは量子を意味するクァンタムのQだと思う」
「ふーん……」
その言葉の意味するところが、正直なところ僕にはよくわからない。
わからないけれど、何か深い意味があることは理解できる。
けれどそれを聞くとまた長くなりそうだったから、僕は曖昧な返事でそれを宙に浮かべた。
窓の外に浮かぶ白い月はいつも通りで、校庭では陸上部が朝練をしている。
それなのに、何かがじわじわと日常を侵略してきている気配は日増しに色濃くなっている気がする。
手の中にあるスマホの画面では相変わらず『かわいいですね』という文字が膨らんでは歪みを繰り返していた。




