File72 県総体と魔物の産声
僕は家から三十分ほどの距離にある道場の前で立ちすくんでいた。
三年前の《《あの日》》以来、二度と来ることは無いと思っていた道場は、あの日から少しも変わっていなかった。
庭師が手入れした松の木と、玉砂利の庭園。
一見するとお寺か神社のようにも見えるその場所は、幼いころからずっと通った見慣れた景色でもある。
僕は大きく深呼吸してから門をくぐった。
幸いなことに、今は昼間で道場生の姿は無い。
この時間ならきっと、《《ジジイ》》しかいないはず……
道場の扉の前で、僕はもう一度大きく深呼吸してから、木戸を叩いて言った。
「ごめんください……!」
しかし反応は返ってこなかった。
僕は再び扉を叩き「失礼します!」と大きな声を出してから扉を開けた。
ダンダンダンダンダン……!
床を踏みしめる音がして、嫌な予感がした。
僕は咄嗟に竹刀袋を胸に引き寄せる。
「こぉんのぶぅあかもんがぁあああ……! なぁあにが失礼しますだ⁉ たわけぇえええ!」
「いぃいいいいい⁉」
気合の掛け声と共に打ち下ろされる飛び込み面を、僕は咄嗟に竹刀袋で受け止める。
ばぁちぃぃぃぃイン……!
信じられないような爆音が響き、竹刀から足のつま先にまで電撃が走った。
「くぅぅぅうっ……⁉」
筋骨隆々にして白髪の老人が、目を見開いて僕に迫る。
握られた竹刀がギリギリと僕の竹刀袋を押し込み、僕はとうとう膝をついた。
これが八十近い爺さんの力かよ……⁉
「し、師匠……お久しぶりです……」
「誰が師匠じゃこの小便垂れ……! どの面下げて神聖な道場の敷居を跨いどるんじゃ貴様ぁああ?」
ズキリ……と胸が痛んだ。
師匠の言う通りだ。
三年の前のあの日、僕は師匠からも剣道からも逃げ出した。
*
三年前。
県総体団体戦決勝。
「悠太。頼む……あとは大将戦で勝つしかない……」
「応」
僕は剣道が好きだった。
いつも忙しい父さんと母さんが、試合の日には必ず会場に来ていたから。
勝てば二人が喜んだから。
それなのに、中学に入ってから、二人は僕の試合に来なくなった。
理由は分からない。
その代わりに試合の次の朝には、お祝いのカードが添えられた現金が、机に置かれるようになった。
「明日、県総体があるんだけど」
そう言うと両親は目を丸くした。
「それだけ。もう寝るよ」
本当は来てほしいと伝えたかった。
でも、僕は断られるのが怖くて言えなかった。
そしたら、二人が僕に言ったんだ。
「悠太、代表に選ばれてるの?」
「凄いじゃないか⁉ 先方か⁉ 中堅か⁉」
「大将……」
僕がつぶやくように言うと、二人は久しぶりに僕のことで喜んだ。
「絶対見に行くね!」
「頑張れよ!」
僕は何も答えずに頷いて自分の部屋に戻った。
次の朝、起きると、両親の姿は家に無く、机には『頑張れ悠太!』と書かれたカードと、おにぎりが置かれていた。
それなのに……
二人は決勝の時間になっても来なかった。
決勝戦の勝敗は大将戦に掛かっていた。
相手は強豪校で、集中しなくちゃ勝てるような相手じゃない。
だけど僕は、会場にばかり気持ちがいっていた。
「おい⁉ 悠太! 集中しろよ⁉」
「応……ごめんごめん」
「緊張してんのか? 力抜けよ! 脱力!」
そう言って仲間は僕を送り出した。
相手は僕よりも一〇センチくらい背の高い巨漢だった。
問題ない。
出鼻の小手だ……
みんなが力の入った眼で僕を見つめる。
師匠だけが険しい顔で目を細めていた。
僕は、会場に二人の姿がないか、もう一度だけ確かめた。
当然のように、二人はいない。
仲間達の親、相手チームの親、みんなが自分の息子や、所属するチームに熱を送っている。
だけど、その中に僕の親はいない。
暑苦しい県営の剣道場が、深海みたいに寒くなるのを感じた。
その瞬間、僕の中に、産まれた。
駄々を捏ねて、世界を妬む、幼稚な魔物が。
魔物は僕の心を内側から食い破り、大きな声で喚きたてる。
『全部駄目にしてしまえ!』
『あいつらのせいだ!』
『あいつらのせいで駄目になったんだ!』
『みんな恨むなら僕のパパとママを恨め!』
『仕事にかまけて僕を一ミリも大事にしないあいつらを!』
「はじめいっ……!」
不意に審判の声が響いた。
僕は慌てて相手を見た。
「きぃぇええええええ……!」
気合の声を上げた。
僕の得意な間合いはすでに潰されている。
こうなれば、泥仕合になる。
その予感めいた直観は見事に当たっていて、僕は巨漢相手に何度も何度も打たれた。
鈍い痛みが、小手の周りや肩に蓄積されていく。
それでも互いに一本が取れず、試合は延長戦に突入する。
鈍い痛みがあちこちを襲う。
足の裏の皮がめくれているのがわかる。
それでも僕は何とか有効打を回避して、相手の隙を伺った。
息が苦しい。
体が熱い。
体が鉛みたいに重い。
痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い……
そのくせに、世界がよく見えた。
審判たちは僕に勝機が無いのを察しているのも
誰の目にも僕の方が形勢不利に映っていることも
みんなが次の有効打で、僕から一本を取って、長い試合に幕を下ろそうと考えているのも
手に取るようにわかった。
独りぼっちだった。
味方は誰もいなかった。
仲間たちでさえ、諦めた目をしている。
すでに悔しそうに涙を流している仲間の顔を見て僕は思った。
何で頑張ってるんだっけ?
『世界なんてどうでもいい……』
耳元で声が聞こえた。
僕もそう思った。
僕はその声に従い、無理やり面を打ちに行った。
「馬鹿もんがぁああ!」
師匠の声が響いた。
同時にガラ空きになった胴を、相手の竹刀が打ち抜いた。
「一本……!」
全ての旗が上がり、試合が終わった。
やはりその場に、両親の姿はなかった。
僕はその日を境に誰にも告げず剣道をやめた。




