File70 記憶と生傷
目を覚ますと、すでに太陽は高く昇っていた。
部屋には辛うじて朝日の気配が残っていたけれど、腫れて上手く開かない瞼をこすると、それもどこかに消えてしまった。
「学校……」
そうつぶやいた瞬間、星崎の顔がフラッシュバックして、僕はもう一度ベッドに体を沈めた。
行きたくない……
やるべきことは分かりきっている。
「ごめん」
たった三文字の呪文を唱える。それだけ。
けれど、それが恐ろしい。
何もかもが粉々に砕けてしまうような気がして恐ろしい。
昨日までは世界が滅びればいいと思っていたくせに、自分の中にあるちっぽけな何かが崩壊することにすら、耐えられない自分がここにいる。
惨めで、無様で、不格好で、ダサすぎる自分がここにいる。
変わらないといけない。
そんなことは分かっていたけれど、やり方も分からないうえに、凄い力で「やりたくない……!」と駄々を捏ねる自分が肚の中に居座って動かない。
布団を頭の上に被ったその時だった。
「なーお……」
聞きなれた声が、窓の外で僕を呼んだ気がした。
ドラリオン……?
僕は布団を蹴飛ばして窓に駆け寄った。
見ると屋根の上に座ったキジトラが僕を見つめて尻尾を揺らしていた。
「なんでお前が僕の家を知ってるんだよ?」
窓を開けてそう言うと、ドラリオンは一声鳴いて僕の部屋にするりと忍び込む。
「お、おい……⁉」
咄嗟に掴もうとした僕の手に、ドラリオンは目にも止まらぬ早業で猫パンチをお見舞いして何食わぬ顔で僕の部屋を歩き回る。
ヒリヒリと痛む手をさすっていると、キジトラは押入れの前に座って僕の方にチラリと視線を飛ばした。
嫌な予感がする……
その予想は見事に的中し、ドラリオンは押入れの扉に爪を立ててガリガリと爪とぎを開始する。
「おい……! 何やってるんだよ⁉ わざわざ僕の部屋でするな!」
怒鳴ってもキジトラは気にも留めない。
仕方なく僕は押入れの方へ近づいた。
ドラリオンはそれを確認すると、今度は押入れの扉を横向きに引っ掻きはじめる。
その姿は、まるで押入れを開けようとしているように見えた。
「押入れに何かあるのかよ……?」
自分の言葉でゾクリと寒気がした。
もしかして、危険なナニカがそこにいるのではないか……?
そんな妄想が頭を過り、僕はごくりと唾を呑む。
一瞬逃げ出そうかとも思ったけれど、僕にはもう逃げる場所も相手もいない。
僕はなかば自暴自棄になって、キジトラが引っ掻き続ける押入れに手をかけた。
ガラ……
ど……さ……
何かが押入れから転がり落ちてきた。
それは埃にまみれた剣道着と防具だった。
ドクン……と心臓が動いた。
唯一僕を叱ってくれた人の顔を思い出す。
同時に星崎の顔を思い出す。
化け物たちの姿を思い出す。
弱い自分の惨めな姿を思い知る。
あの日も僕は僕を叱ってくれる人から逃げたんだ……
ジクジクと苦い記憶が蘇り、今しがた出来たばかりの生傷に重なった。
「また逃げるかにゃ?」
不意にそう聞こえた気がして、僕は慌てて振り返る。
そこではドラリオンが後ろ脚を高く上げて、自分の腹を舐めていた。
僕の視線に気が付くと、ドラリオンは見透かすような目で僕を見つめてから軽やかに窓から出て行った。
「今度は逃げちゃだめだ……」
僕は誰もいない部屋の中でそうつぶやくと、道着と防具を掴んで部屋を飛び出した。




