File101 老兵と鴉
洗脳少女の歌声が聞こえ始めると同時に、僕らは激しいめまいに見舞われた。
世界が歪みながら回転し、右も左も、上か下かもわからない。
分かったのは星崎が僕に抱き着いて必死に離れないようにしている感触だけだった。
けれどそれもやがて曖昧になり、僕らは泥のような暗闇の底へと沈み意識を失った。
*
夜空を走るひび割れに目を細めて、柳生敏光は静かに決意を固めていた。
予感はあったものの確信はなかった。
けれど困った愛弟子は、機を逃すことなく帰ってきた。
予想もしなかった連れ合いを率いて。
教え足りていないことが山ほどある。
それでも一番大切なことはどうやらしっかり自分で見つけたらしい。
それならば……
「老兵は死なず……か」
そう独り言ちて柳生は立ち上がった。
床の間に祭った刀を袋に収め、道場を後にする。
呼びつけてあったタクシーは時間通りに門の前にやってきて静かにドアを開けた。
「本当にお行きになるのですか?」
運転手は柳生を見ずにそう言った。
「ああ。子どもの手にはちと余る。それに帝の手を煩わせるわけにいくまいて」
「彼に期待をかけてらっしゃるのですね」
「儂があのバカ弟子に⁉ はっ……馬鹿馬鹿しい」
車は滑らかにカーブを曲がり、国道に出た。
同時に県庁への案内が頭上を通り過ぎていく。
道行く人々は空にできたひび割れに気づかない。
誰も彼もが小さな自分の世界に引きこもって、大きな世界を揺るがす《《うねり》》には無関心のようだった。
「まっこと馬鹿馬鹿しい……だが、手元足元に囚われず、前を見て歩く若者がおるのも事実。ならばその道を整えるは大人の務め。八咫烏はカササギとしてではなく、柳生敏光としてのな」
運転手は黙っていたが、ふっ……と口元に笑みがさした。
「何が可笑しい?」
「いえ。彼がよく口にする馬鹿馬鹿しいという言葉、あれはあなた様から引き継いだのだなと」
「戯け……! 口の減らんバカ弟子一号め……!」
車は重力を感じさせることなく、県庁の前に停車した。
スッ……と開いたドアから柳生は外に出ると、運転手に言う。
「一時間で戻る。わかるな?」
「ご武運を」
男は静かに頭を下げると車を出して夜の街に消えていった。
「さて、参るか……」
柳生は静かな足取りで、明かりの消えた県庁へと歩みを進めた。
男が玄関に立つと、まるで分っていたかのように自動ドアが開いて出迎える。
監視カメラを、そしてその向こうにいる者を一瞥してから、柳生は迷わずエレベーターに乗り込み最上階の知事室へと向かっていった。




