天使たちのお茶会
「今日はお招きありがとう」
嬉しくてたまらないという表情で、ニーナがカウンター席に腰を下ろす。
「私、お茶会って初めて! フレデリカに誘われた日から、ずっと楽しみにしてたのよ」
上機嫌でニコニコしているニーナは、何とも愛らしい。
「今日のために、マフィンを焼いたの。さっそく食べましょうか」
フレデリカは、オーブンで温め直したマフィンをカウンターテーブルへ置くと、ニーナの隣に腰を下ろした。
ティーポットから紅茶を注ぎながら、先日の騒動を振り返る。
「あの後、大丈夫だった?」
「あの後って?」
「ほら、沈没事故があった日に、いろいろあったじゃない。私達が帰ってしまった後に、どうなったのかなと思って……」
「あの時は本当にごめんなさい」
ニーナがしょんぼりしてしまったので、フレデリカは慌てて言葉を付け足す。
「違うのよ、責めてるわけじゃないの。マチルダは『カレンに任せておけば大丈夫だ』って言っていたんだけど、私はカレンのことをよく知らないから……あなたが辛い思いをしていないといいなと思って、心配だったの」
「心配してくれてありがとう。私のことを気にかけてくれるのなんて、あなたとカレンだけだわ」
そう言って、眩しいものでも見るように目を細めながら、ニーナは話を続けた。
「カレン様は優しくて素敵な人よ。見た目も声も迫力があるから、最初はちょっと怖かったんだけど……中身は天使そのものだわ。叱られることも多いけど、それ以上にたくさん褒めてくれるし、普段はとても穏やかなの。それに加えて、あの素晴らしい歌声! 何度聴いても惚れ惚れしちゃう。大天使様からの信頼も厚いみたいだし、どうしてカレン様が私を弟子にしてくれたのか、不思議でたまらないわ」
どうやら、カレンはニーナを大切に扱ってくれているようだと分かり、フレデリカは胸を撫で下ろす。
「それを聞いて安心したわ。さあ、温かいうちにマフィンと紅茶をどうぞ」
「わぁ、美味しそう!」
「ニーナの好みが分からなかったから、何種類か作ってみたの。手前にあるのがハムとクリームチーズのマフィンで、その隣はオレンジピールとホワイトチョコ入り。後ろにあるのは、ラム酒に漬けたレーズンを混ぜて焼いたものよ」
フレデリカの説明に頷きながら、ニーナはまず最初にハムとチーズのマフィンを手に取った。
「しょっぱいだけじゃなくて、ほんのり甘いのね」
「ベースの生地に砂糖が入っているから、少し甘いかも。苦手な味だったら、無理せず他のマフィンを食べてね」
「好きな味だから大丈夫! 次はどれにしようかな」
楽しそうにマフィンを選ぶニーナの姿に、フレデリカも自然と笑みがこぼれる。
「ニーナは、相手を幸せな気持ちにする天才ね。見ているだけで癒されるわ」
「……そんなことない。人間だった頃は親を怒らせてばかりいたし、今だってカレンによく叱られるもの」
今、確かに『人間だった頃』と口にした。
やはり、ニーナは何か知っている。
「そうなの? ……人間だった頃のことを、ニーナはどうして知っているの?」
「カレンの弟子として選ばれた時に、記憶を戻してもらったの。『師弟関係を結んだら、天使になった経緯を伝える』っていう習わしがあるみたいよ。フレデリカは、何も聞かされていないの?」
「マチルダは何も教えてくれなかったわ」
「……でも、知らない方がいいのかもしれない。私ね、人間だった時……自分の母親に大怪我をさせてしまったの。ほら、私って忘れっぽい上にサボり癖があって、簡単なお使いすらまともにこなせないでしょう? 人間だった頃も、周りの人達に迷惑をかけっぱなしだったらしいの。いつもいつも約束を破って、頼まれたことも、やるべきことも忘れて、『やめなさい』って言われたことを何度も繰り返す。そのくせ『やりなさい』って言われたことは、何一つ上手く出来ない。だからお母さんは、お父さんや周りの人達から『お前の躾が悪い』って責められ続けて、精神的に参っていたみたい。そしてある日、ついに限界を迎えたお母さんは、ナイフを握りしめて私を刺そうとした」
ニーナの話に、フレデリカは息を飲む。
「ナイフを持って追いかけてくるお母さんから逃げ回るうちに、壁際へ追い込まれてしまって……すぐそばにあった本棚から、手当たり次第に本を投げつけた。そして、お母さんが怯んだ隙に、重たい図鑑を両手で持ち上げて、思いっきり殴りつけたの。お母さんが動かなくなるまで、何度も、何度も」
フレデリカの背中を、冷や汗が伝う。
「近所の人達は、私が母親から殴られたり怒鳴られたりしていることを知っていたから、味方になって有利になる証言をしてくれた。きっと、それまで見て見ぬふりをしてきたことへの罪滅ぼしのつもりだったんでしょうね。結局、『身を守るための、やむを得ない反撃だった』という判決が下されて、私は罰を受けることなく釈放された」
一旦そこで話を止めると、ニーナは気持ちを落ち着けるように紅茶を一口飲んだ。
「罪に問われることは無かったけれど、お母さんは捕まってしまったし、お父さんからは『お前なんか、生まれてこなければ良かったのに』と言われて、私の居場所なんかどこにもなかった。だから、『命と引き換えに願いを叶えてくれる天使がいる』という噂を耳にして、探し回ったの」
フレデリカは、思わず口を挟んだ。
「その天使って、マチルダのこと?」
ニーナは首を横に振る。
「私が探し当てたのは、別の天使だったわ。もっとこう……いかめしい顔つきをしていて、威厳のある雰囲気だった。最初は追い返されそうになったの。『お前の罪は、既に裁かれている』って言われて……でも私は『どうしても叶えたい願いがあるんです』って訴えて、しつこく食い下がった。そのうちに向こうが根負けして『願いは?』って聞いてくれたから、『役立たずな私の命と引き換えに、できるだけ多くの人へ幸福をもたらして下さい』って頼んだの。そうしたら、『では天使となり、自ら願いを叶えるがいい』って言われて、まぶしい光に包まれた。カレン様から戻してもらった記憶は、そこで終わってる」
しばしの沈黙の後、フレデリカはポツリと呟いた。
「苦しんできたのね」
うつむいていたニーナが、顔を上げる。
「カレン様にも、そう言われたわ。『ニーナも母親も、苦しんできたんだね』って」
「母親も?」
「そう、お母さんも。……たくさんの人間の魂を送り出してきたフレデリカなら分かると思うけど、世の中にはいろんな人間がいるし、それぞれの人間関係は複雑で、家族の形だって様々でしょう? 片方だけが悪で、もう片方は何も悪くないという関係性だって、もちろんあるんだろうなとは思うけど……私とお母さんの場合は、そうじゃなかった。お互いに傷つけ合ってたんだと思う。怒鳴られたり叩かれたりするのは、とても怖かったし痛かったけど、怒っている時のお母さんは、いつも辛そうな顔をしてた。『どうして分かってくれないの』『どうして困らせることばかりするの』『どうして私をこんなに苦しめるの』『どうして、どうして、どうして』って、悲しそうに繰り返しながら」
「だからって、ニーナに怒りや悲しみをぶつけていいという理由にはならないでしょう?」
「……でも私、カレン様と出会って、いろいろな人間の魂と触れ合ううちに、気付いたことがあるの。あの時のお母さんは、辛くて、苦しくて、だけど母親をやめることも出来なくて、どこにも逃げ場がなくて、追い詰められていたんだろうなって。本当は、怒鳴ったり叩いたりなんてしない、優しいお母さんになりたかったんじゃないかなって。生まれてきたのが私みたいな子じゃなかったら、お母さんは幸せになれたのかもしれないなって」
「……そんなに自分を責めないで。あなたのせいじゃない。ニーナだって、もし別の母親の元に生まれていたら、違う人生を歩んでいたはずだもの」
「そうね。私とお母さんは、家族になるべき二人じゃなかったんだと思う。悲しいくらいに、相性が悪かった。離れて別々に暮らしていれば、こんなことにはならなかったのかもしれない。だけど、事件当時の私にはまだ、家を出て一人で生きていけるだけの力はなかった」
再び、沈黙がおりる。
しばらくして、先に静寂を破ったのはニーナだった。
「つまらない話を長々としちゃって、ごめんなさい。だけど、フレデリカには私の過去も知っておいて欲しかったの。あなたは私にとって唯一、友達と呼べる存在だから。あっ! でも、さっきの話を聞いて私のことが嫌になっちゃったら、遠慮なく距離を置いてもらって大丈夫だからね。無理して付き合ってもらうより、そっちの方が全然いいから!」
「嫌になんかならないし、距離を置くつもりもない。過去がどうであれ、私は今のあなたと仲良くなりたいと思ったわけだし、この先も友達でいられたらいいなって思ってる」
ニーナの瞳から、涙がこぼれ落ちる。
「ありがとう……私、天使になって良かった。カレン様とフレデリカに出会えたから」
「カレンと同列に並べてもらえるなんて、光栄だわ」
そう言ってから、フレデリカは気になっていたことを尋ねた。
「ねぇニーナ、もし知っていたら教えて欲しいんだけど……さっきの話から考えると、私達は自ら望んで天使になったということになるわよね? その……『命と引き換えに願いを叶えてくれる天使』に力を借りて……」
フレデリカが確認すると、ニーナは言葉を濁す。
「どうなんだろう……今回の話は、あくまで『私の場合は』ということだから、他のみんなも同じような経緯で天使になったのかどうかは分からない。それよりも、せっかくのお茶会なのに暗い話ばかりしちゃってごめんなさい。ここからは、もっと楽しい話をするわね。その前に、もう一つマフィンをいただいてもいい? 他の味のも食べてみたくて!」
「もちろんよ、たくさん食べて! 紅茶のお代わりも用意するわね」
その後は、ニーナが最近観たお芝居の感想や、カレンが天上へ送った魂達との心温まるエピソードなどを聞かせてもらいながら、楽しいひとときを過ごした。
帰り際、ニーナはお礼と共に改めて謝罪の言葉を述べた。
「とっても楽しかったわ! ありがとう。ぜひまた声をかけてね。私からも誘うから。あと、あの……途中で余計な話をしてしまってごめんなさい」
「私も凄く楽しかったわ。それに、余計な話なんて一つもなかったから大丈夫よ。また一緒にお茶会をしましょうね。もし今度、面白そうなお芝居が上演されていたら私にも教えてね。観に行ってみたいから」
「もちろんよ! すぐに教えるから、一緒に行きましょうね」
ニーナが笑顔で立ち去り、フレデリカは楽しかった時間の余韻に浸りながら、後片付けを始める。
そこへ、マチルダが現れた。
「お茶会はどうだった?」
フレデリカは、質問に質問で返す。
「どうしてあなたが知っているの?」
「カレンから聞いたのよ。で、どうだった? あなたの知りたかったことは教えてもらえた?」
マチルダには、いつだって何もかもお見通しだ。
今回のお茶会でニーナとフレデリカが交わした会話の内容も、だいたい予想がついているに違いない。
「どうせ、聞かなくても分かっているんでしょう? 試すような質問をされるのは不愉快だから、やめてちょうだい」
「あなたって、私にだけはいつも辛辣よねぇ。愛情の裏返しなのかしら。もしそうだとしたら、特別な感じがして嬉しいんだけど!」
ほんのり頬を染めて喜ぶマチルダに、フレデリカは冷ややかな視線を浴びせかける。
「どうしたらそんな風に前向きに受け止められるのか、全く理解できないわ。とにかく、私を監視するような真似は二度としないで。そんなことより、私の過去について教えて。私が人間だった頃のことを、あなたは知っているはずよ」
するとマチルダは、真顔になってフレデリカに尋ねた。
「本当に、知りたい?」
フレデリカの心臓が、大きな音を立てる。
知りたいという思いと、知るのが怖いという気持ちが、心の中でせめぎ合う。
もしも自分が、ニーナと同じように「命と引き換えに願いを叶えてくれる天使」の力で天使になったのだとしたら。
それはつまり、フレデリカは人間だった頃に、何らかの罪を犯したということだ。
悔やんでも悔やみきれず、命を捨て去りたいと願うほどの、重い罪を。
しばらく悩んだ末に、フレデリカは意を決して答えた。
「知るのは怖いけど、知らないままでいるのはもっと怖い。だから教えて」
マチルダはフレデリカに近づき、そっと指先を額にあてる。
過去の記憶が、濁流のようにフレデリカの頭の中へと流れ込んだ。