カリカリしっとりバゲットキッシュ
手の空いた午前中に掃除でもしようと思い立ち、フレデリカが地下室の扉を開けると、そこには先客がいた。
「ルカ……あなた、そこで何をしているの?」
フレデリカは、咎めるような響きを込めて問いかける。
棚に並んだ瓶を眺めていたルカは、その中の一つを指差しながらフレデリカの方を振り返った。
「マチルダから頼まれて、新しい魂の抜け殻を置きにきたんだ。それにしても、これだけずらっと並んでいると、なかなか壮観だね。こいつら、罪を犯して逃げ回っていたんだろう? もし魂を奪われていなければ、もっと罪を重ねていたかもしれない。そう考えると、マチルダが果たす役割の功績は計り知れないね」
ルカの言葉に、フレデリカはどこか引っかかりを覚えた。
「功績……なのかしらね」
声に出すつもりは無かったのに、気付くと口からこぼれ出ていた。
途端に、ルカの目が険しくなる。
「功績に決まってるだろ? 生きてる価値のない人間を、この世から片付けてやったんだから。僕も早く、罪人どもに裁きを下してやりたいよ。きっと最高の気分なんだろうなぁ」
ルカは棚から瓶を一つ取り上げて顔に近付け、うっとりとした表情を浮かべる。
吐き気がした。
ルカの下そうとする裁きとは、いったい誰のためのものなのか。
被害を受けた者のため?
いや、きっと違う。
もしも被害者の気持ちを最優先に考えるならば、罰を与えることよりも先に、為すべきことや考えなければならないことは、山のようにあるはずだ。
ルカは、自身の感じた憤りを鎮めるためだけに、裁きという名目で人間の命を奪おうとしている。
それは、罪ではないのだろうか?
けれどもルカの方からすればきっと、自己満足で最後の一皿を提供しているフレデリカの方が、よほど罪深い存在に見えることだろう。
フレデリカは、心に渦巻く感情を表に出さないよう気を付けながら、やんわりとルカに退出を促した。
「掃除をしたいから、そろそろ部屋を出てもらえると助かるんだけど」
ルカは瓶を棚に戻すと
「分かった。また今度、ゆっくり見に来るよ」
と言ってフレデリカの横をすり抜け、地下室を後にした。
心にかかった靄を振り払うように時間をかけて部屋を綺麗にし、すっきりした気分で部屋の扉を開けると、階上から微かな話し声が耳に届く。
「あっ」
午後から死者の魂が来訪する予定であったことを思い出し、フレデリカは慌てて階段を駆けあがった。
立ち去ったはずのルカと来訪者の魂は、仲良くカウンター席に隣り合って座りながら談笑している。
「お待たせして申し訳ありません、ジュリアさん。私は見習い天使のフレデリカです。あなたの魂を天上へ送り出す前に最後の一皿をお作りしますので、食べたいものを教えてください」
息を切らしながら一気に伝えると、ジュリアと呼ばれた女性は可愛らしく小首を傾げ、少し考え込んでからオーダーを告げた。
「それなら、バゲットを使ったキッシュが食べたいわ」
「バゲットを使うんですか? パイ生地ではなく?」
フレデリカが確認すると、ジュリアは当然のように頷く。
「そうよ。ブライアンはキッシュが大好きだったから、よく作ってあげてたんだけど……いちいちパイ生地を用意するのも大変だから、スライスしたバゲットを代わりに使っていたの」
するとルカも会話に入ってきた。
「ブライアンって……さっき君が話してくれた、ろくでなしの元恋人のこと?」
「ろくでなしって言わないで!」
「ふーん。まぁ、いいけどさ。自分を殺した男のことを庇うなんて、僕には理解できないよ」
そう、ジュリアの死因は絞殺による窒息死だ。
フレデリカは、来訪する魂の死因を事前に把握するようにしている。
だが、他殺の場合は必要以上に自分の感情を乱されないよう、加害者に関する情報はシャットアウトしてきた。
知ったところで、フレデリカには何もしてあげられないからだ。
今回も、ジュリアを手にかけた犯人が誰なのかは知らなかったし、出来れば知らないままでいたかった。
それなのに……。
フレデリカは大きく息をつくと気持ちを切り替え、レシピを聞き出そうと正面からジュリアに向き合う。
そして、彼女の頬にある涙の跡に気付いた。よく見ると、目も赤く充血している。
ここへ来た時のジュリアは、泣いていたのかもしれない。
そんな彼女を慰め、話を聞き出し、今のような落ち着いた状態になるまで面倒を見てくれたのは、きっと……。
フレデリカは、ルカへと視線を移す。
「ルカ、ありがとう」
「別に、お礼を言われるようなことをしたつもりはないけど」
相変わらずの生意気な態度ではあったけれど、ルカに対する苦手意識が、少しだけ薄らいでいく。
それにしても、どうしてジュリアは元恋人の好物を最後の一皿に選んだのだろう。命を奪われたというのに、相手を恨む気持ちは無いのだろうか。
そこまで考えて、フレデリカは一旦思考を停止した。
考えることは、いつでも出来る。
今は、ジュリアの魂を天上へ送り出すことが先決だ。
フレデリカは気を取り直し、ジュリアから詳しいレシピを聞き出すことにした。
「では、必要な材料を教えて下さい」
「まずはバゲットでしょ、それからタマネギ・ベーコン・マッシュルーム、卵にチーズに牛乳に……もしあれば生クリームも」
ジュリアの口にした材料を、フレデリカが作業台の上に出現させていく。
「便利な力ね。食べ物以外も出せるの? 私、前から欲しかったバッグやアクセサリーがあるんだけど……」
甘い声でねだるジュリアに、フレデリカは困った顔になる。
「申し訳ありませんが、最後の一皿以外のリクエストは受け付けておりません」
「そっか、残念だけど仕方ないわね」
ジュリアはあっさりと引き下がり、キッシュの作り方を説明し始めた。
「マッシュルームとタマネギは薄切りにして、小さく切ったベーコンと一緒に炒めるの。それから塩コショウで味付けして、火が通ったらお皿に移してね。粗熱を取っている間にアパレイユを作りましょ」
「アパレイユ?」
聞き返すフレデリカに
「卵や牛乳なんかを混ぜ合わせて作る、液状の生地のことよ」
とジュリアが教えてくれる。
「卵をボウルに割り入れて、牛乳と生クリームを加えたら、塩コショウを振ってよく混ぜてね」
手順に従って、フレデリカは手際良く作業を進めていく。
「いよいよバゲットの出番よ。耐熱皿の底と側面に、薄くスライスしたバゲットを敷き詰めて並べたら、炒めた具材と細切りチーズを入れて、最後にアパレイユを注いでね。あとはオーブンで一時間くらい焼けば出来上がりよ」
それまで静かに作業を見守っていたルカが
「一時間? そんなに待つの?!」
と、急に大声で反応した。
「じっと待ってるのもつまらないから、もし外へ出られるならブライアンの様子を見に行きたいな。ねぇ、いいでしょ?」
ジュリアは、上目遣いをしながらルカとフレデリカに頼み込む。
恵まれた容姿に加えて、甘え上手。
たぶん生前のジュリアは、こうやって周囲の人間を虜にしながら、物事を思い通りに進めてきたのだろう。
少し迷ったが、ジュリアの様子からして悪霊になる心配も無さそうだったので、フレデリカは彼女の願いを聞き入れることにした。
ブライアンの行方を辿るには、彼の思念が色濃く染み付いたものに触れる必要がある。ということで、まずはジュリアの住んでいた部屋へと向かう。
事件現場となったアパートの前は、野次馬でごった返していた。
「ジュリアっていう若い女が殺されたらしいぞ」
「あの派手な女か……いつかこうなるんじゃないかと思ってたよ」
「見かけるたびに違う男を連れ歩いてるって評判だったからね」
「うちの亭主にも色目使ってきてさ! とんでもない女だったよ」
「何人もの男達に、さんざん貢がせてたんだろ?」
「いつも着飾ってたもんな」
「犯人は逃走中だってさ」
「そいつもきっと、あの女に騙されたんだろうよ」
「かわいそうになぁ」
口々に語られる噂話は、どれもこれもジュリアを貶める内容ばかりだった。
ルカが、冷ややかな視線をジュリアに投げかける。
「なぁんだ。ろくでなしの屑は、君の方だったのか。同情なんか、するんじゃなかった」
そう言うと、ルカは当てつけのように眩しい光を撒き散らして、その場からいなくなった。
「あーあ、嫌われちゃった。あなたも幻滅した? でも私、ブライアンのことだけは本当に好きだったのよ」
ジュリアの声が、せつなさを帯びる。
「あの人は私に服もアクセサリーもプレゼントしてくれなかったけど、一緒にいると穏やかな気持ちになれた。初めて、自分から何かしてあげたいと思える相手だった。料理なんてしたことなかったけど、キッシュが好物だって聞いたから頑張って作り方を覚えたし、他の男達との関係だって断ち切ろうと思っていたのよ。だけど……全員との関係を精算しきれないうちに、ブライアンにバレちゃって……」
首元に手をやりながら、ジュリアが話を続ける。
「あの人、私の首を絞めながら泣いてた。『愛してたのに、どうして!』って言いながら、ボロボロ涙を流してた。可哀想なブライアン。私なんかと出会わなければ、こんなことにはならなかったのにね。まだ捕まってないって聞いて安心したわ。このまま逃げ切って欲しい。私なんか、殺されたって仕方ない人間なんだから」
自嘲するように乾いた笑い声を上げると、ジュリアは目を伏せて黙り込む。「ブライアンの様子を知りたい」という意欲は、既に失われているように見える。
「そろそろキッシュが焼き上がる頃ですね。戻りましょうか」
フレデリカの声かけに、ジュリアは力なく頷いた。
フレデリカ達が戻ってくると、カウンター席にはマチルダが座っていた。
「ルカがなかなか帰って来ないから迎えに来たんだけど、どこにいるか知ってる?」
「さっきまで一緒にいたんだけど、どこかへ行っちゃったわ」
「あらそう。入れ違いになっちゃったみたいね。それより、オーブンから凄く良い匂いがするんだけど! 今日は何を作ったの?」
「バゲットを使ったキッシュよ」
「美味しそうねぇ」
マチルダは、物欲しそうな顔でジュリアに話しかける。
「こんにちは、お嬢さん。もしあなたが食べきれなかったら、私にもキッシュを少し分けてもらえない?」
「いいわよ。私は一口食べれば十分だから、残りは全部あなたにあげる」
「あら、優しいのね」
「優しくなんか無いわ。それどころか、生きてる価値の無い、死んで当然の人間よ」
ジュリアの言葉に、マチルダは目の色を変える。
「死んで当然? そうかしら。そんな人間、いないと思うけど」
「何も知らないから、そんなことが言えるのよ。私はね、大事な人を裏切って傷つけて怒らせて殺されたの。私が悪いのよ」
「へぇ、そうなんだ。でも、これだけは言っておくわね。いかなる事情があろうとも、他者の命を奪っていいという理由にはならないのよ。私はこれまで、数えきれないくらい沢山の人間から魂を抜き取ってきた。彼らのほとんどは『死んで当然』と言われるような罪人や悪人ばかりだったわ。だけどね、私は自分の行いを正当化しようとは思わない。だってそうでしょう? 誰かにとっては殺したいほど憎い相手だとしても、他の誰かにとっては違うかもしれないんだから。死んで当然の人間なんて、いないのよ」
「ゴチャゴチャうるさいわね。話が長くて何を言いたいのか分からないわ。とにかく、私はブライアンを恨んでなんかいないし、彼に罰を与えたいとも思っていない。ねぇ、私もう疲れちゃった。早く天上とやらに送り出してよ」
ジュリアはマチルダとの会話を打ち切り、フレデリカへと頼み込む。
「分かりました。すぐにご用意しますね」
焼き上がったキッシュをオーブンから取り出して、お皿に取り分ける。
「どうぞ。これを召しがれば、天上へ向かえます」
差し出された皿を受け取り、ジュリアはキッシュにフォークを入れた。
外側のバゲットはカリッと焼き上がっているが、中はしっとりしている。
「休日にブライアンが遊びに来ると、ランチはいつもこのキッシュを作ることにしていたの。中に入れる具材は時々変えてたんだけど、このベーコンとマッシュルームの組み合わせが一番のお気に入りだって言ってた」
話しながら、ジュリアの体が透き通っていく。
「ねぇ、もしいつかブライアンがここへ来たら……最後の一皿には、何を選ぶのかしらね」
その言葉を最後に、ジュリアの姿は見えなくなった。
「このままブライアンが逃げ切ったら、彼はここじゃなくて、私のところか悪魔の元へ向かうことになるけどね」
マチルダが言うと、フレデリカは表情を曇らせる。
「……もし本当にブライアンがマチルダのところへやって来たら、どうするの?」
「もちろん美味しい『天使のスープ』をご馳走して、残りの寿命をいただくわ」
「ジュリアはブライアンへの罰を望んでいなかったのに?」
「ええ、それでも魂を抜き取る。だって、ブライアンは許されないことをしたんですもの。『相手を殺す以外に選択肢は無い』という状況に陥っていたというなら話は別だけど、今回の場合は違うでしょう? ブライアンには、他にいくらでも選択肢があった。ジュリアを殺す必要なんてなかったのよ。彼自身の、未来のためにもね」
「でも……あなたさっき自分で言ってたじゃない。『いかなる事情があろうとも、他者の命を奪っていいという理由にはならない』って。だったら、マチルダが人間の寿命を奪うことだって許されないはずだわ」
「そうよ。フレデリカの言う通り、私は許されないことをしている。そのことを十分に理解した上で、それでもこの役割を担っているのよ」
「……どうして?」
「罪を悔やんでいる人間から命を奪い取ることは、罰であると同時に救済でもあるからよ。私は、強い悔恨に苛まれている者にしか『天使のスープ』を与えない」
マチルダは、真剣な顔でフレデリカの目を見据えている。
「この前フレデリカが天上へ送り出した、シェリルという女の子のことを覚えてる? 彼女を川へ突き落とした犯人の魂を、私はこの手で抜き取った。そうしたのは、犯人が自分の行いを心から悔やんでいたからよ。悔いのない人間に対して、私達天使は手を出さない。そういう人間を相手にするのは、悪魔の役割だから」
マチルダが、これほど詳しく自分の役割について話してくれるのは、初めてのことだった。
「どうして急に、こんな話をしてくれる気になったの? 今までは、何を尋ねてもはぐらかしてばかりだったのに」
フレデリカの疑問に、マチルダはため息を一つ吐いて答える。
「私の後継者として、ルカが名乗りを上げたからよ。あの子は、人間の寿命を奪うことを罰としか捉えていない。そこに救済が無ければ、天使としての役割を逸脱してしまう。単に罰を与えるだけの存在になるなら、それはもう天使ではない」
そう、それは天使ではない。
悪魔だ。
「……マチルダは、ルカを悪魔にしたくないのね?」
フレデリカの問いに、マチルダが頷く。
「自ら望んで悪魔になりたいと言うなら、止めるつもりはないわ。でもルカの場合は違う。いつか大天使になりたいと願ってる。だからこそ、今のあの子に役割を譲るわけにはいかないの。ルカを悪魔にしないために、私達が出来ることは二つよ。一つは、時間をかけてあの子の考え方を変えていくこと。そしてもう一つは……言わなくても分かるわよね」
分かっている。
自分がマチルダの役割を継ぐこと。たぶんそれが一番手っ取り早い。
でも……それでは根本的な解決にはならないような気がする。
「私がマチルダの後を継げば、一旦はルカの悪魔化を防ぐことが出来ると思う。でもそれは、『とりあえず今のところは』ということよね? マチルダと同じ役割を担う天使は、少数とはいえ他にもいるわけでしょう? 大天使になるには、マチルダのように特別な役割を担う天使として、貢献を積まなければならない。だからきっと、ルカは他の天使が後継者を探し始めたら、また名乗りを上げるんじゃないかしら」
「そうなったら、その時にまた考えればいいのよ。起きてもいない出来事を恐れていたら、何も出来ないわ。とりあえず今は、目の前の問題を解決することだけに集中しましょ」
それからマチルダは、笑顔でこう付け加えた。
「というわけで、なるべく早く私の後を継ぐ意思を固めてちょうだいね」
そう言って、姿を消した。
そばにいた時には分からなかった一面を知るにつれ、マチルダに対する印象が大きく変わっていく。
ルカのためにも、私が後を継ぐべきなのだろうか。
マチルダの言葉を思い返しながら、フレデリカはいつになく真剣に、自分の進むべき道について考えを巡らせた。