ほろほろアーモンドココアクッキー
しばらく姿を見せなかった天使のマチルダが、久しぶりにフレデリカの店へとやって来た。
「元気にしてた? 寂しかったでしょう。なかなか顔を出せなくてごめんなさいね」
フレデリカは、抱きついてこようとするマチルダから身をかわし
「ちっとも寂しくなかったから大丈夫よ」
と冷たくあしらう。
「相変わらずねぇ。あなたのせいで、こっちは大変だったっていうのに」
マチルダの言葉に、フレデリカは洗い物の手を止めて顔を上げる。
ついさっき死者の魂を天上へ送り出したばかりで、まだ後片付けの最中だったのだ。
「私のせいって、どういうこと?」
フレデリカが尋ねると、マチルダはため息まじりにこう答えた。
「いつまで経ってもあなたが私の役割を継いでくれないから、大天使に呼び出されてグチグチグチグチ説教をされた挙句、無理矢理に新しい見習い天使を弟子につけられて、『こいつを後継者に育てあげろ』って命じられちゃったのよ。あーもう、面倒臭いったらありゃしない!」
「新しい弟子?」
「そうよ。会いたい?」
何となく嫌な予感がして、フレデリカは断った。
「遠慮しておくわ」
「そう? まぁ、大人しくしているタイプじゃないから、そのうち向こうから勝手に来るかもしれないけど。その時はよろしくね。でも、手に負えないようだったら……」
マチルダが言い終わらないうちに、店の片隅がチカっと光る。
眩しさに思わず目をつぶり、少ししてから再び目を開けると、クルクルした短い巻き毛の天使が、不愉快そうな顔で立っていた。
姿を現すなり
「置いてくなんて酷すぎる!」
と怒っている。
マチルダは嫌そうな顔をして
「ついてこないでって言ったでしょ。どこかへ行ってちょうだい」
と手で追い払う仕草をした。
「弟子なんだから、そばに居させてくれたっていいじゃないか!」
「だって、あなたちょっと鬱陶しいんだもの。私、しつこくされるの嫌いなの」
そのやり取りを聞いていたフレデリカは
「それなら、マチルダも私に付きまとうのはやめてね」
と口を挟んだ。
「付きまとってなんかいないわよ! 師としての責任を果たすために、可愛い弟子の行く末を見守っているだけじゃない!」
ムキになって言い返してくるマチルダを無視して、巻き毛の天使に声をかける。
「私はフレデリカ。これからよろしくね。一応、マチルダに付き従って修行をしているってことになってるんだけど……今はあまり一緒に過ごしていないの。マチルダの役割はちょっと特殊だから、いろいろと大変なこともあると思うけど、困ったことがあったらいつでも相談してね」
「僕はルカ。君のことは噂に聞いてるよ。マチルダの後を継ぎたくないってゴネてるんでしょ? 見習い天使の分際で、よくそんなワガママが言えるよね。君に頼るつもりは一切ないから、どうぞご心配なく」
にこやかに言いながら、ルカは片手を差し出して握手を求めてきた。
初対面での失礼な物言いに戸惑いつつ、フレデリカも片手を差し出して握手を交わす。
きつく握られた手からは、何か嫌なものが流れ込んでくるような気がして、フレデリカはすぐに手を振りほどいた。
「挨拶も済ませたことだし、もう気が済んだでしょ? フレデリカと話したいことがあるから、あなたは席を外してちょうだい。地下室に、今まで魂を奪い取った人間の抜け殻があるから、見に行ってきたら?」
マチルダは苛立った声でルカを地下室に追いやると、大きく息をついてカウンター席に腰掛けた。
「嫌な気分にさせちゃって、ごめんなさいね。あの子のことは、後でちゃんと叱っておくから」
ルカの代わりに謝るマチルダが、何だか人間の母親みたいに見えて、フレデリカは思わず笑ってしまった。
「大丈夫よ、気にしないで。それにしても、やる気のある後継者が見つかって良かったじゃない」
「……あの子はダメよ。迷いがないもの」
「迷い?」
「寿命の残った人間から魂を奪い取るのは、殺人と同じことでしょう? その行為に何の疑問も抱かず、嬉々として命を奪おうとするような者に、私の役割は任せられない」
「私の目から見ると、マチルダも嬉々として人間の命を奪っているように見えるんだけど……」
フレデリカの言葉に、マチルダは心外だという顔をする。
「冗談じゃないわ。私は自分の行いが正しいと思ったことなんて一度もない。むしろ罪を重ねてきたという意味では、彼らと私は同類よ。寿命を奪い取るたびに、いつも考えてた。『もし私が彼らのように生まれ育っていたら、どんな末路を辿っていただろう』ってね。だけど、それでも私は自分に課せられたこの役割が必要なものだと感じているし、フレデリカにもこの役割を受け継いでもらいたいと思ってる」
マチルダが抱える葛藤は、フレデリカの心の中にあるものとよく似ていた。
「私もずっと、あなたと同じようなことを考えてた」
フレデリカが呟くように言うと、マチルダは表情を和らげた。
「そんな気がしてたわ。私達、それぞれのやり方はまるで違うけれど、根っこの部分は似ているのかもしれないわね。あなたが死者の魂に最後の一皿を作るのは、『ささやかでもいいから、天上へ送り出す前に何か一つくらい願いを叶えてあげたい』と思うからでしょう? 私も同じなのよ。罪を犯さずにはいられなかった人生の最後に、心からの願いを一つだけ叶えてあげたい。そう思いながら『天使のスープ』を作ってる」
「……いつも思っていたんだけど、もしマチルダの元を訪れる人間達の最後の願いが、『世界を滅ぼしてくれ』とか『気に入らない人間を全て消し去ってくれ』というものだったら、どうするの?」
「私は心からの願いしか叶えられないから大丈夫。『世界を滅ぼしたい』という人間が本当に切望しているのは『世界に受け入れられたい』という願いだし、『気に入らない人間を消し去りたい』と考えている人々の心の奥底に潜んでいるのは、『認められたい』とか『愛されたい』という気持ちだもの」
マチルダの言う通り、これまでにフレデリカが耳にした多くの者達の望みは、ほとんどが「他者から受容されたい」という願いだった。
彼らの最後の願いを思い返すと、胸が痛む。
『受け入れてもらいたい』『愛されたい』『認められたい』『許されたい』『理解されたい』。
それはつまり、受け入れてもらえず、愛されず、認められず、許されず、理解されなかった人生だったということだ。
黙って考え込んでいるフレデリカの手を、マチルダがそっと握る。
「もちろん『この世の全てを心の底から憎んでいる』という人間だっているでしょうけど、そういう者には私達のところへと繋がる扉は、決して見つけられない。だから安心してちょうだい。私の叶える願いが、誰かの安全や幸福を脅かすことはないから」
フレデリカが頷くと、マチルダはニッコリしながらオーブンの横に置かれた皿を指差した。
「さっきから気になってたんだけど、あれってココアクッキーじゃない? 手のかかる弟子が増えてストレスが溜まってるから、甘いものでも食べて癒されたいなぁ」
分かりやすいおねだりに苦笑しながら、フレデリカはクッキーの載った皿をマチルダに差し出す。
「残りもので良ければどうぞ」
そこへ、地下室からルカが戻ってきた。
「何それ、僕にもちょうだい!」
先ほどの無礼な発言をすっかり忘れているのか、ルカはマチルダの隣の椅子へ腰掛けて無邪気に笑っている。
「これは私がもらったのよ! あんたはどっか行ってて!」
「マチルダの意地悪! 食べさせてくれないなら、あることないこと大天使様に言いつけてやるからな!」
ギリギリと歯ぎしりをしながら、マチルダがルカを睨みつける。
やり込められているマチルダの姿など見たことがなかったので、フレデリカはちょっと面白くなってしまったのだが、ここで吹き出したりしたら面倒なことになりそうだ。
笑いをこらえながらミルクティーを淹れて、マチルダとルカの前にティーカップを置く。
「仲良く分けて食べればいいじゃない。足りなければ、また今度作ってあげるから」
フレデリカに諭されて、マチルダは渋々クッキーをルカにも分け与えた。
「ココア風味のアーモンドスライス入りクッキーよ。口の中へいれると、ほろっと舌の上でほどけるの」
フレデリカの説明を聞きながら、ルカとマチルダはクッキーを口に運んだ。
「うん、美味しい! こういう口の中でホロホロ崩れるクッキーって、作るのが難しいのよね。どうやったらこんな歯ざわりになるの?」
マチルダが尋ねると、フレデリカはレシピノートを見せながら材料の一つを指差した。
「ほろっとした食感にするには、粉砂糖を使うといいんですって。あと、卵も卵黄だけにするのがポイントみたい。それから混ぜ方も大事らしくて、『固くなるから絶対に練っちゃダメ』って言ってたわ」
「ふーん。確かに、他の材料は普通ね。あっでも、『クッキーの生地を冷蔵庫で冷やした後に、棒状にして冷凍庫で固める』って書いてあるわよ。何これ、カチカチにしちゃったら伸ばして型抜きする時に大変じゃない」
「この『アイスボックスクッキー』は、棒状の生地を輪切りにして焼き上げるから、型抜きする必要がないのよ」
「へぇ、そうなんだ。クッキーの作り方にも色々あるのね」
よっぽど気に入ったのか、マチルダは皿の上のクッキーを次々と口の中へ放り込んでいく。
それに対して、ルカは一つ食べたきり手を止め、黙り込んでしまった。
「口に合わなかったら、無理しないでね」
フレデリカが声をかけると、ルカはようやく口を開いた。
「いや、美味しいけどさ。どうして死者の魂に最後の一皿を食べさせようとするの? 最後にこんな美味しいものを口にしたら、この世に未練が残って天上へ行くのが嫌になっちゃうんじゃない?」
「それは大丈夫。最後の一皿を口にしたら、魂は強制的に天上へ向かわされるから」
「何だよそれ、わざわざ名残惜しい気持ちにさせてから送り出すなんて、凄く残酷じゃないか。何もしない方がよっぽどマシだよ」
ルカとフレデリカの会話に、マチルダが割って入る。
「そうね。あなたの言うように、残酷なことをしているのかもしれない。だけど、『絶望させたまま送り出したくない。最後に、ほんの少しでもいいから幸福を感じてもらいたい』というフレデリカの気持ちは、私にもよく分かる」
「そんなの自己満足だ」
「ええ、そうよ。それの何がいけないの?」
マチルダに見つめられて、ルカが言葉に詰まる。
フレデリカは、どうやってこの場をおさめたらいいものかと考えながら、ミルクティーのおかわりを注いだ。
「私の元で修行するなら、考え方を改めなさい。それが出来ないなら、師弟関係は解消よ」
そう言うと、マチルダはルカの皿に載ったクッキーを全て自分の皿へと移し、一つ残らず食べてしまった。
「あー、おいしかった! ごちそうさま」
二杯目のミルクティーを飲み終えたマチルダが、立ち上がりながらルカを急かす。
「ほら、そろそろ行くわよ。早く全部飲んじゃいなさい」
ルカは、先ほどからずっと不機嫌そうな顔つきで黙りこくっている。
「まだ不貞腐れてるの? 面倒臭い子ねぇ。それじゃ、先に行ってるわね」
マチルダはルカを置き去りにして、さっさと帰ってしまった。
残されたルカは、射るような目でフレデリカを睨みながら
「マチルダに気に入られてるからって、いい気になるなよ。お前にだけは絶対に負けないからな」
と吐き捨て、マチルダの後を追うように姿を消した。
まったく、子供みたいだ。それも、かなり手がかかるタイプの。
この先もルカと顔を合わせることになるのかと思うと、憂鬱な気分になる。
口からこぼれそうになるため息を飲み込み、フレデリカはお気に入りのカップを棚から取り出した。
ミルクティーを淹れて蜂蜜を垂らし、ふわりと漂う香りを吸い込みながら、ゆっくりと口をつける。
ほんのりとした温もりが、フレデリカの心を満たしていく。
元気を取り戻したフレデリカは、小さな声で歌を口ずさみながら、洗い物の続きに取り掛かった。