サクサクひとくちチーズパイ
「チーズ味の、甘くないパイなんだよ」
そう言って、赤ら顔の大柄な男性は、身振り手振りを交えながら、さらに詳しい説明を付け加える。
「こう、ひとくちサイズの四角い形でさ、酒のつまみにもピッタリだし、ちょっと小腹が空いた時なんかにも、ちょうど良くてね。あとほら、甘いものが苦手な人もいるだろう? そういう客を招いた時にも重宝したなぁ」
興奮気味に語り続ける男性の話を遮って、見習い天使のフレデリカはこう尋ねた。
「それで、レシピはご存知なんですか?」
「いや、知らない。だからこうして、イメージがつかめるように詳しい話をしてるんじゃないか」
再び話し始めようとする男性を、フレデリカが慌てて止める。
「それでしたら、もっと簡単な方法があるのでお任せください」
そう言って、フレデリカは自分の指先を男性の額にあてた。
やわらかな光が二人を包み、男性の記憶がフレデリカへと流れ込む。
膨大な記憶の中からチーズパイに関する部分だけを抜き出し、味や食感からレシピを推測する。
「どうやら、奥様はパイ生地から手作りしていたみたいですね、マルコさん」
男性に呼びかけると、フレデリカは頭の中でイメージした材料を次々と調理台の上に出現させていく。
マルコと呼ばれた男性は、目の前の出来事に目を見張りながら
「こりゃ凄い。手品みたいだ」
とフレデリカに賛辞の拍手を送った。
『ずいぶんと明るい魂ね』
と、フレデリカは心の中で思う。
この店にやってくる人間の魂は、たいてい酷く動揺している。
自分が死んだことを認められずに喚き散らす者もいれば、泣き崩れて話もできない者や、恨み言を延々と語り聞かせてくる者など、多種多様ではあるものの、一様に取り乱している者がほとんどだ。
だからこそ、フレデリカはマルコの妙に明るい言動が気になってしまい、普段なら絶対に口にしないようなことを尋ねてしまった。
「あの……死んでしまって、悲しくないんですか?」
マルコは一瞬きょとんとした顔をしたあと、苦笑いを浮かべてこう言った。
「そうだなぁ、悲しいというよりは……『これでリズを楽にしてやれる』っていう安心感の方が大きいかなぁ。あっ、リズっていうのは、俺の女房の名前なんだけどね」
「知ってます。さっき、記憶を覗かせていただいたので」
「だったら、分かるだろう? 寝たきりになった俺を、リズは疎ましく思っていたわけだからさ、あいつのお望み通り、サッサとくたばることができて良かったよ。……まぁ、息子のことは気がかりだけどね」
「息子さん、まだ小さいですものね」
「トトは六歳になったばかりだから、まだまだ手もかかるし……。それに、しばらくの間はこれまでの蓄えで暮らせるだろうけど、その後は大変だろうな……」
話しながら、先ほどまでの明るさが嘘のように、マルコは暗く沈んだ面持ちになる。
「こんなに早く死んじゃって、悪かったなぁ……」
後悔という名の負のオーラが、マルコの魂を包む。
その時、フレデリカの店の片隅から眩い光が放たれて、店内を明るく照らし出した。
「あらあら、ずいぶんドス黒いオーラを放っている魂がいるわね。私の出番かしら?」
弾けるような笑顔と共に姿を現したのは、フレデリカの師である天使のマチルダだ。
「呼んだ覚えはないわ。帰ってちょうだい」
冷たく突き放すフレデリカの言葉を右から左へ受け流し、マチルダはマルコの額にそっと指先をあてて記憶を読み取った。
「あなた、妻子よりも先に死んだことを後悔しているみたいだけど、全然気にしなくて大丈夫よ。リズと息子さんは、あなたがいなくなったおかげで、とっても幸せになれるから」
眉をひそめるマルコに向かって、マチルダは笑顔で話を続ける。
「だって生前のあなたは、かなり酷い夫だったもの。覚えてる? あなたは悪阻で苦しんでいるリズに向かって、『飯も作らずゴロゴロしてるだけなんて、いいご身分だな』って言い放ったのよ」
「それは、本当にリズが一日中寝ているだけだったから……」
マルコが反論すると
「起き上がれないほど体調が悪いから横になってたのよ。怠けていたわけじゃないわ」
マチルダはピシャリと返して話を続けた。
「それから、些細なことで喧嘩になるたびに、『ここは俺の家だ! 稼ぎのない奴は出て行け!』って怒鳴りつけて、リズを家から追い出してたわよね。お腹の大きな妊婦を真冬の寒空の下へ放り出すなんて、普通の人間にはなかなか出来ることじゃないわ」
皮肉たっぷりに言われたマルコは、怒りに顔を歪めながら
「リズが口うるさいことばかり言うから悪いんだよ! あいつが細かいことをグチグチ言ってこなきゃ、俺だってあんな態度はとらなかった!」
と吐き捨てるように言ったが、マチルダは
「親に叱られた子供みたいな言いぐさね」
と一笑に付す。
「まだまだあるわよ。あなたのご両親を外食に連れて行く予定の日に、高熱を出してたリズに対して、『なんでこんな日に熱を出すんだ! 台無しにしやがって!』って怒ったでしょう? それから、産後の言動も酷かったわね。あなたのご両親が、赤ちゃんのお披露目パーティーをするって言い出した時、リズは『赤ちゃんのお世話で寝不足だし体調もボロボロだから今は無理。もう少し落ち着いてからにしてほしい』と泣いて頼んだのに、『どうして一日くらい頑張れないんだ! せっかくみんながお祝いしてくれるのに!』って怒鳴りつけて、無理矢理パーティーを開いたのよね。ご両親やあなたは大満足だったみたいだけど……。さて、あの時のリズは一体どんな気持ちだったのかしら」
話が長くなりそうだったので、フレデリカはパイ生地を作り始めることにした。
よく冷えたバターをサイコロ状にカットしてボウルに入れ、半々にした強力粉と薄力粉をふるい入れる。
氷水にあてながら切るように混ぜ、バターが粒状になったら、冷水を少しずつ加えながらさらに混ぜ合わせる。
その間にも、マチルダの口撃は止まらない。
「あなたはリズと喧嘩するたびに彼女を悪者にして、両親や友人たちに悪い噂を吹聴して回った。その上、息子の躾にも非協力的で甘やかしてばかり。リズが息子を叱ると『お前は厳し過ぎる』と言って庇うものだから、トラブルの絶えない悪ガキに育っちゃったのよね」
息子を貶されたマルコは、顔を真っ赤にして抗議した。
「トトを悪く言うな!」
「悪くなんて言ってないわ。事実を述べただけよ」
言い争う二人を横目に、フレデリカはパイ生地をひとまとめにしてから半分に切り、重ねて押す、という作業を何度か繰り返した。
それから生地を綿棒で縦横に伸ばし、三つ折りにしてから冷蔵庫に入れる。
マチルダの話は、まだ続いていた。
「あなたが病に倒れて寝たきりになった時、リズは冷たかったでしょう? 温かい言葉一つ、あなたにかけることはなかった。でも、三度の食事は欠かさなかったし、いつも清潔な衣服を用意して体を綺麗に拭き、排泄の世話までしてくれていたわよね。どうしてだと思う?」
マチルダの問いかけに、マルコは黙り込む。
たぶん、どうしてなのかが分からなかったのだろう。
でもそれは、フレデリカも同じだった。
なぜ、自分に酷い仕打ちをした相手を、リズは見捨てなかったのだろう。
復讐をする絶好の機会が訪れたのに、どうして仕返しをせずに世話をし続けたのだろう。
「黙ってないで、何か言いなさいよ」
ゾッとするようなマチルダの冷たい声に、マルコは口をパクパクさせるばかりだ。
「分からないみたいだから教えてあげる。リズはね、あなたみたいに思いやりのない人間とは、決して同類になりたくなかったのよ。だから復讐に手を染めなかった。だって、もしも仕返しをしてしまったら、自分まで屑の仲間入りをしてしまうじゃない。それだけは絶対に嫌だったのよ」
唇の端を吊り上げて笑うマチルダの表情は、天使どころか悪魔そのものだ。
「寝たきりになったあなたの世話を投げ出さなかったのは、リズのプライドよ。馬鹿げた意地だと言う人もいるかもしれないわね。でも、私はそうは思わない。どのような状況に置かれても誇りを失わず、自分の信念に恥じない生き方をする。私はそういう人間がとても好きだし、そういう人間にこそ幸福になってもらいたいと願ってる」
そう言ってマチルダはとびきりの笑顔をマルコに向けると
「だからリズと息子さんのことは何も心配せずに、さっさと消え失せてちょうだいね。それじゃ、チーズパイが焼き上がった頃にまた来るわ」
と言い残して姿を消した。
フレデリカは、休ませていた生地を冷蔵庫から取り出し、作業台の上に打ち粉を振って生地を伸ばし始めた。
三つ折りにして伸ばす作業を何度か繰り返してから、再び冷蔵庫に入れて生地を休ませる。
それから、ぼんやりとした目でカウンターテーブルの木目を眺めているマルコに、コーヒーを淹れて差し出した。
「あ……どうも」
マルコはカップを受け取って口をつけると、褐色の液体をゆっくりと喉に流し込んだ。
「結婚する前は、上手くいってたんだ」
マルコがポツリと呟く。
「リズと一緒にいると楽しかったし、心が安らいだ。でも……夫婦になって、子供が産まれて、だんだんお互いの嫌なところばかり目につくようになって……リズが俺を疎ましく思っていたように、気づいたら俺も、リズのことが嫌で嫌でたまらなくなってた。どうして、こうなっちゃったんだろうなぁ」
黙って話に耳を傾けているフレデリカに、マルコは問いかけた。
「俺はリズが悪いと思ってたけど、さっきの話だと俺の方が悪者みたいに聞こえるし……。なぁ、あんたはどう思う?」
フレデリカは少し考えてから、こう答えた。
「どちらが悪いというよりは、相性が悪かったんだと思います」
「相性?」
「はい。でも相性がぴったりの相手に巡り会えることなんて、なかなか無いでしょうから……皆さんきっと、相手に合わせたり合わせてもらったりしながら、より良い関係を築こうと努力しているんでしょうね」
「……努力したいと思える相手じゃなくなった時点で、別れれば良かったのかな……」
「それも一つの選択肢だと思います」
そこで話を打ち切ると、フレデリカは冷蔵庫から生地を取り出して薄く伸ばし、ナイフで一口サイズにカットしていく。
「パイ生地を作るのって、こんなに手間暇がかかるんだな。知らなかったよ」
マルコの言葉に頷きながら、フレデリカは生地の表面に牛乳を塗り、粉チーズを振りかけた。
それからパイ生地を天板に並べてオーブンに入れ、こんがりと焼き上げていく。
すっかり冷めたコーヒーをマルコが飲み干した頃、チーズパイが焼き上がった。
「さぁどうぞ、召し上がれ」
フレデリカは、新しく淹れ直したコーヒーと共に、皿に盛ったチーズパイをマルコに差し出す。
「ありがとう。いただくよ」
サクサクと微かな音を立てながら、ひとくちサイズのチーズパイが次々とマルコの口の中へと消えていく。
「懐かしいな……。幸せだった頃の味がする」
マルコの頬を、一筋の涙が伝う。
彼の体は徐々に透き通り、やがて光に包まれて見えなくなった。
フレデリカが空になった皿を見つめていると、マチルダが戻ってきた。
「あらやだ! 全部食べちゃったの?!」
忌々しそうに空っぽの皿を睨みつけながら声を荒げるマチルダに、フレデリカは呆れた声で返す。
「マルコさんのために作ったんだから、全部食べたって構わないでしょう?」
「私も食べたかったのに!」
マチルダは悔しそうな顔をしつつも、すぐに気持ちを切り替えた様子で
「まぁいっか。リズが作ったチーズパイを食べてきたばかりだし」
と言った。
「リズのところへ行ってきたの?」
フレデリカが驚いて尋ねる。
「そうよ。リズったら、埋葬の手続きやなんかで忙しいはずなのに、なぜか大量のチーズパイを焼いていたのよ。リズと息子だけじゃ食べきれないくらいの量だったから、こっそり何個かもらって食べちゃった」
マチルダの返事に、フレデリカは首をかしげる。
「どうして、リズはチーズパイをそんなにたくさん焼いたのかしら……」
一番たくさん食べるであろうマルコは、もう死んでしまったのに。
「どうしてかしらね。人間の考えることは、時々よく分からないわ」
マチルダはそう言うと、ふいっと姿を消してどこかへ行ってしまった。
リズの焼いたチーズパイには、どんな気持ちが込められていたのだろう。
わずかに残った、マルコへの愛情だろうか。
それとも、これまで受けた仕打ちを許せずに、冷たい態度を取ってしまったことへの懺悔?
まさか、さっさと死んでくれたことへの感謝だったりして……。
フレデリカはいろいろと考えてみたが、これだと思うような答えは見つからなかった。
人間界で修行を続けていたら、いつか複雑な人間の気持ちを理解できる日がくるのかしら。
フレデリカはそんなことを思いながら、汚れた皿や調理道具をスポンジでゴシゴシと洗った。