チョコとクルミのスコーン
ギィと音を立てて、入り口の扉が開く。
ここは、とある街の片隅にある、カウンター席だけの小さなお店。
店主のフレデリカは、人間の世界で修行を積んでいる見習い天使だ。
このお店はマチルダという天使から譲り受けたもので、フレデリカは寿命を迎えた人間の魂を天上へ返す前に、人生で最後の一皿となる料理を作ってあげることにしている。
「こんにちは」
フレデリカは、扉を開けて中へ入ってきた女性に声をかけた。
ふっくらとした優しい顔立をしたその女性は、不思議そうに店の中を見回している。
「あの……私、どうしちゃったのかしら。今日は娘が友達を連れてくるって言うから、スコーンを焼こうとして……足りない材料があったから買いに出かけて、それで……」
そこで女性が言葉に詰まる。
フレデリカは、彼女の代わりに言葉を続けた。
「それで、道端に停められた荷車のそばを通りかかった時に、崩れてきた荷物の下敷きになったんですよね、デボラさん」
ニッコリ微笑むフレデリカに、デボラと呼ばれた女性は眉をひそめる。
「だけど私、どこも怪我なんかしてないわ。痛みも感じないし」
「ええ、そうでしょうね。だって今のあなたは、もう魂だけになってしまったんですもの。嘘だと思うなら、あなたのものだった体がどうなったか、確かめてくるといいわ。事故があったのは、すぐそこの大通りですから」
デボラは青ざめた表情で店を飛び出し、しばらくするとまた戻ってきた。
「どうしよう……もうすぐ学校が終わって、あの子が帰ってくるのに……チョコとクルミの入ったスコーンを焼いてあげるって、約束したのに……」
さめざめと泣き出すデボラに、フレデリカはこう提案した。
「じゃあ、私が代わりに焼きましょうか」
「……え?」
デボラが戸惑いを浮かべた瞳でフレデリカを見る。
「申し遅れました。私、見習い天使のフレデリカといいます。人間の魂を天上へ返す前に、最後の一皿をごちそうすることにしているんです。デボラさんの食べたいものは“スコーン”ってことでいいですか?」
「……私が食べたいわけじゃないのよ。娘に食べさせたいの」
フレデリカは、顎に手を当てて少し考え込む。
「自分が食べたいものじゃなくて、娘さんに食べさせたいものですか……いいですよ。それじゃ、早速レシピを教えてください」
「え? 私が教えるの?」
デボラが目を丸くする。
「はい。本人がレシピを知らない場合は、魂の記憶をたどって味などを再現しますけど、今回は直接聞いた方が早いですから」
フレデリカはカウンターの後ろにある作業台の上へ、ボウルや木べらなどの調理道具を並べていく。
「材料は?」
というフレデリカの問いに
「ええっと、小麦粉・バター・砂糖にミルク……それから膨らし粉をほんの少し。あとはチョコチップとクルミも忘れずに」
とデボラが答えていくと、材料が次々と作業台の上に現れた。
「凄いわ! 魔法みたい!」
感嘆の声を上げるデボラに、フレデリカは
「それでは、作り方の手順を教えていただけますか?」
と先を促す。
「はいはい、まずは小麦粉と砂糖と膨らし粉をボウルに入れて、泡立て器でよくかき混ぜてちょうだい」
「粉をふるいにかけずに、泡立て器でかき混ぜるんですか?」
フレデリカが手を止めて尋ねると、デボラは豪快に笑いながら答えた。
「私みたいに大雑把でズボラなタイプはね、粉をふるいにかけるなんて、そんな面倒なことはしないのよ。こんな性格だから、お菓子作りは苦手なんだけど……このスコーンだけは、適当に作っても美味しく焼き上がるからお気に入りなの」
フレデリカは納得したように頷くと、言われた通りに作業を進めていく。
「次は小さく切ったバターを入れて、木べらで更に細かく切るようにしながら粉と混ぜ合わせてね。バターの塊がなくなってきたら、両手の指先で擦り合わせるようにしながら、粉チーズ状にするの。手の熱でバターが溶けないように、手早くやるのがコツよ」
デボラは指示を出しながらフレデリカの手元に目をやり
「あなた、手際がいいわねぇ」
と感心したように呟く。
「この後は?」
フレデリカが先を促す。
「ミルクを入れてゴムベラで混ぜるんだけど、少し粉っぽさが残るくらいでやめてね。あっそうそう、チョコチップと砕いたクルミも入れないとね。それから手で何回か折りたたむようにしてまとめて……粉っぽさがなくなってきたら、ラップに包んで冷蔵庫で休ませてちょうだい」
生地を休ませている間、フレデリカはデボラに温かい紅茶を淹れた。
「ありがとう。魂だけになっても、紅茶を飲んだりできるのね」
デボラは嬉しそうにティーカップを持ち上げて口をつける。
「こうしてお店の中にいる間だけですけどね」
フレデリカの返事に、デボラはそっと目を伏せ
「そうなのね……」
と言ったきり、黙り込んでしまった。
静寂の中、遠くから街の喧騒が微かに届く。
紅茶を飲み干すと、デボラは沈黙を破ってフレデリカに話しかけた。
「ねぇ、さっき人間の魂を天上に返すって言ってたけど、そのあと魂はどうなるの?」
「他の魂と混ざり合って、また新しく生まれ変わります」
「混ざっちゃうの?」
「はい。ごちゃ混ぜです」
「天国とか地獄とかは?」
「人間がイメージするようなものはありません」
「へぇ……そうなんだ。なんか、ちょっとガッカリだわ」
「どうしてですか?」
「だって、良いことをした人も悪いことをした人も、みんな同じところに行って混ざり合っちゃうんでしょ? そんなのって……何だかちょっと、損した気分だわ」
デボラの言葉に、フレデリカは首をかしげる。
「そうですか?」
「そうよ! 私はね、なるべく悪いことはしないように生きてきたし、人には親切にするよう心がけてきたんだから!」
「それならきっと、いい人生だったんじゃないですか?」
「……そうね、まぁ悪くはなかったんじゃないかしら。そりゃあ、いろいろ嫌なことだってあったけど、それなりに楽しいこともあったし……」
フレデリカは、ニコニコしながらデボラの話を聞いている。
つられてデボラも笑顔になり
「さあ、それじゃ続きに取りかかりましょうか」
と言って立ち上がった。
冷蔵庫から生地を取り出したフレデリカに、デボラが次の手順を伝える。
「生地がくっつかないように打ち粉を振ったら、めんぼうで厚さ二センチくらいに生地を伸ばして、平べったい円形にしてちょうだい」
「円形ですか?」
「そうよ。大きな円形に伸ばして、ピザみたいにナイフで八等分にカットするの」
「なるほど。型抜きする時みたいに生地が余ることもなくて、いいですね」
フレデリカの反応に、デボラは得意そうな顔をする。
「あとは表面にミルクを塗って、オーブンで焼くだけよ」
フレデリカは天板に生地を並べてオーブンに入れると、分厚いノートを取り出して何やら熱心に書き込んでいる。
「何を書いているの?」
デボラが尋ねると
「レシピノートです」
という答えが返ってきた。
「へぇ、天使もレシピノートなんて書くのね。お気に入りのレシピはどれ?」
「特にありません。記録として残しているだけなので」
淡々としたフレデリカの返事に、デボラは苦笑いする。
「天使って、みんなあなたみたいに最後の一皿を作ってくれるの?」
「いえ、いろいろなタイプがいますよ」
「たとえば?」
「マチルダという天使は、罪人や悪人の生命力を吸い取って魂を奪い取り、抜け殻になった肉体はスープの材料にしていました」
フレデリカの発言に、デボラはギョッとした顔をする。
「冗談よね?」
「本当です」
「……天使っていうより、悪魔とか死神みたいね」
デボラはそう呟いてから
「やだ、失礼なこと言っちゃったわ」
と慌てたように自分の口に手をあてる。
フレデリカは少しも気にしていない様子で
「人間にとっては、似たようなものかもしれませんね」
と穏やかな声で返すと、オーブンの中を覗き込んだ。
スコーンの表面には綺麗な焼き色がついている。
その時ちょうどタイマーが鳴り、フレデリカはオーブンの扉を開けた。
スコーンを取り出して網の上にのせ、粗熱をとる。
「いい匂い! 私も食べたくなってきちゃった。一つ食べてもいい?」
デボラが尋ねると、フレデリカは
「最後の一皿を口にした魂はすぐに天上へ召されてしまいますから、食べるのは娘さんに会ってからにした方がいいんじゃないですか?」
と返した。
「娘に会わせてくれるの?」
デボラは驚きの声をあげる。
「向こうからは見えませんが、デボラさんからは娘さんの姿を見ることが出来ますから、スコーンを届ける時、一緒に行きましょう」
フレデリカの言葉に、デボラは一瞬だけ嬉しそうな顔をしたが、すぐに悲しそうな表情へと変わり
「会いに行くのはやめとくわ」
と断った。
「最後に顔を見ておかなくていいんですか?」
「ええ、大丈夫。顔を見たら、天上へ行くのが嫌になってしまいそうだから」
「分かりました。では、お一つどうぞ」
デボラはカウンター席に腰掛け、フレデリカの差し出してくれた皿の上からスコーンを一つ手に取り、口へと運んだ。
カリッとした歯ざわりのあと、口の中でホロリと崩れ、クルミの香ばしい歯ごたえがする。
少し溶けたチョコレートの甘さを舌に感じながら、デボラは家族と過ごしてきた日々を思い返していた。
食べ終えたデボラは、スコーンを載せた皿をフレデリカの方へと押しやり
「やっぱり、娘のところへは届けなくていいわ。残りは全部、あなたにあげる」
と言った。
「どうしてですか?」
「だって、あなたが突然『お母さんからのお届け物です』って言ってスコーンを渡しに行ったら、きっと不審に思われて追い返されちゃうわ。もし受け取ってくれたとしても、喜んでもらえるかどうか分からないし……」
話しながら、デボラの姿は徐々に透き通っていく。
「スコーンを焼いてくれてありがとう。とっても美味しかったわ。私の魂を送り出してくれる天使があなたで、本当に良かった」
その言葉を最後に、デボラは跡形もなく消え去った。
フレデリカは、デボラの残したスコーンを見つめながら考え込んでいた。
本当に、このスコーンをデボラの娘に届けなくて良いのだろうか。
するとそこへ、まばゆい光が差し込み、天使のマチルダが姿を現した。
彼女は悪戯っぽい笑みを浮かべながら
「悩み事?」
とフレデリカに尋ねる。
「別に」
素っ気なく答えるフレデリカだったが、そんな彼女が可愛くてたまらないというように、マチルダはフレデリカをきつく抱きしめた。
「ちょっと、やめてよ!」
フレデリカはマチルダの体を押しのけて睨みつける。
ハッキリと拒絶されたのに、マチルダは何故か嬉しそうにフレデリカを見つめている。
「あなたって、やっぱり最高ね。人間に対してはあんなに丁寧な態度で接するのに、師である私のことは、ぞんざいに扱うんだから。弱きを助け、強きを挫くっていうの? そういうところが、他の天使達とは全然違うのよね」
マチルダは、手を伸ばしてフレデリカの頬にそっと触れた。
「ねぇ、このお店を譲ってあげたんだから、私の後継者として罪人や悪人の魂を奪い取る役割を担ってよ。あなたが後を継いでくれたら、私は大天使に昇格できるし、あなたのことだって、すぐに見習い天使から卒業させてあげられるんだけどなぁ」
フレデリカは、マチルダの手を強く払いのけた。
「あなたってホントに卑怯だわ。寿命の残っている人間の魂を奪い取るくらいなら、私は見習い天使のままで結構よ」
「へぇ、悪人や罪人にも寿命を全うする権利があるって、本気で思ってるんだね。まだまだ修行が足りないなぁ」
フレデリカはマチルダを無視することに決めて、皿の上ですっかり冷たくなってしまったスコーンを紙袋に入れた。
「それ、どうする気?」
マチルダに聞かれたが、フレデリカは返事をせずに、店の入口へと向かう。
「娘のところへ行くつもりなら、やめなさい」
先程とは打って変わった厳しいマチルダの声に、フレデリカは思わず足を止める。
マチルダは、真剣な表情でフレデリカに語りかけた。
「デボラは、『娘のところへは届けなくていい』と言ったはずよ」
「でも、本当は娘さんに食べさせてあげたかったのかもしれない」
「そうね、私もそう思うわ。でもね、デボラは自分の気持ちよりも、娘の気持ちを大切にしたかったんじゃないかしら」
「どういうこと?」
「デボラの娘は今、母を亡くして悲しみに沈んでいるのよ? そんな時に、母親を思い出させるようなものを届けに行って、喜んでもらえると思う?」
フレデリカは、スコーンの入った紙袋をギュッと握り締めながら、声を絞り出した。
「……嬉しくは……ないかもしれない」
マチルダは、真面目な表情を崩してニッコリ笑うと、素早くフレデリカに近付いて紙袋を奪い取った。
「ちょっと!」
フレデリカが止める間もなく、マチルダは紙袋の中からスコーンを一つ取り出して齧り付く。
「美味しーい! でも、ちょっと冷めちゃってるわね。温め直しましょう」
そう言って、マチルダはオーブンにスコーンを並べるとスイッチを入れた。
フレデリカは、すぐさまスイッチを切って抗議する。
「勝手にオーブンを使わないで!」
「いいじゃない、元々は私のお店だったんだから」
「今は私のお店よ!」
「あなたって、本当に可愛くないわねぇ」
そう言いながらも、フレデリカを見つめるマチルダの眼差しは、慈愛に満ちていた。