六
神前で神主より祝いの言葉が発せられ、神妙な面持ちでそれを賜る七重と
背後の学徒。
七重は我知らず、胸元に手を当て目をつぶる。
かすかに細い指先が震えている。
武徳殿の花頭窓からは、校庭に集まった学徒達と武芸大会の総評を話す
白髪の校長の姿が見えている。
春の暖かい風が吹き込んでくる。
あくびをしながら訓話を聞いている重森の姿を認め、
普段の生活を遠く、遠く感じ、ふと涙が溢れそうになった。
学徒がそれぞれ言葉を受け、武芸の神への感謝と加護を受ける為に祷る。
儀式を終え、それぞれ神前で杯を戴き、日根野がお神酒をいれる。
そこで神前式は締められる。
船山の杯を持つ手が震えている。額に汗を浮かべ血管が浮かびあがり、
血走った眼で七重の後ろ姿を睨みつけている。その様子に気づき杯を取り落としそうになる片岡。
お神酒を注ぐ日根野が慌てる。
「だめだ、だめだ、だめだ。」
「こんな女、俺が…」
ゆらりと立ち上がった船山の手から杯が落ち、割れる。
船山は全身の血を逆流させたような顔色で眼下の七重を見据えている。
震える拳を確かめるように見、七重の顔を見比べる。
(殺してやる 殴り殺してやる)
血塗れで這いつくばる七重の姿を想像したとき、船山の興奮は高まり
叫びだしそうになるのを抑えて一歩踏み出した。
腹に焼きごてを入れられたような感覚があった。
みると銀色の刃が腹から生えている。刀で突かれた、と認識するまで
一瞬の空白があった。その間に刃は左右に振られ純白の胴着に
真っ赤な染みが溢れだす。声を発する前に、大量に腸が床に零れ落ち、
咄嗟にそれを拾おうとして前につんのめり、倒れた。
船山は息絶えた。
大きく目を見開き、立ち上がろうとした片岡の横を日根野が
つま先で回転しながら通り過ぎた。
片岡の首に朱の線が浮かび、血が噴き出した。
鼓動に合わせ、なんどか大きく吹き出す血を、手で押さえている。
不思議なものを見るように片岡は床の血だまりを見つめて、
やがて立ち膝から背後に倒れた。
頭部が床にあたる鈍い音がする。血液は未だに吹き出しているが、
やがてそれも止まった。
日根野は血潮が滴っている神前刀を床に放り出した。
額にうっすらと汗をかき、人の良い笑顔のまま低い、暗い声で呟く。
「永らく待った。」
「ヤシャショウライ」
呪詛のような言葉を紡ぎながら着物の前をはだけ、両腕を突き出す。
日に焼けていないぶよぶよとした中年ぶとりの身体に、
色素が沈着していくように赤黒い染みが広がっていく。
両腕を震えわせながらざわざわと体毛が生え、
ぶつり、と音を立てて小さな髷を結んでいた紙縒がやぶけ
頭髪が逆立ちながら伸びる。
大柄な船山より一回り大きな巨躯に変貌していく日根野。
その額に瘤が盛り上がり、皮膚を突き破るようにぬるぬると
光る角が生えてくる。
七重は表情のない顔で一連の出来事を他人事のように見ていた。
俯いていた日根野が顔をあげる。複雑な文様の入れ墨が浮かび上がり、
やがてそれは上半身からも浮かび上がっていく。
上下の犬歯が唇からはみ出して伸び、鼻筋に皺をよせ、大きく開いた瞳孔は
赤茶色に変わる。
すでに、教師日根野ではなく、人間ですらなかった。はじめて、七重は魂消る悲鳴をあげた。
茶筅曲げを結い、囲炉裏を背にした悪兵衛の表情は見えなかったが
その優しい瞳の光を思い出す。
「神前の儀で、異変が起きたならば」
「生涯唯一の勇気を持って立ち向こうてくだされ。」
「太鼓を叩くより他に道なしと思わずば、死。」
別れ際に悪兵衛が託した胸元の玩具のような振鼓。
弥者の姿に変貌した日根野を見上げる目から、自然に涙があふれる。
震える指で胸元の振鼓を取り出し、両手の平を合わせる。
「汝を殺し血肉を啜る。心待ちにしていた。」
すでに日根野の甲高い声ではない。
遠雷のような低く、響く声で弥者は呟いた。
その指先は分厚く黄色い爪が伸び、七重の胴回り程もある腕は、
刃物無しで簡単に人間を縊り殺せるだろう。
「ハ ザ マ」
弥者の口から発せられた言葉と共に、神殿内が海中に没したような
圧力で充満された。弥者、七重、背後の2体の死体以外の空間が
「なにか」で満たされ、質量を伴っているようだ。
七重の意識がふと消えそうになる。
「生涯唯一の勇気を持って立ち向こうてくだされ。」
悪兵衛の言葉を反芻する。
自分は幾たびも辛い思いをし、克己を繰り返し、武道を歩んできた。
目をつぶり、恐怖と相対し、立つのは今を置いて他にない。
やがて震えが収まり、しずかに振鼓を合わせた掌で回し始める。
かすかな可愛らしい音が響く。
「吉房、何を叩いてる んだ やめなさい」
「先生は そういうの いやだなぁ」
低い声と甲高い声の入り混じった奇妙な発声で弥者が後ずさった。
振鼓の小気味のいい連続音が大きくなっていく。
「其は何か 其を止めろ」
飛び出しそうな巨大な目で七重を睨みつけながら、弥者は耳を抑えて悶絶する
七重は、充満していた空気以外の「なにか」にくさびを打ち込んでいるような感覚を覚えた。
目を開き、まっすぐに弥者を見上げながら振鼓を鳴らす。
空間にひびが入った。黒く連鎖して裂けていく。やがてそれは大きくなり、
燃え上がるように発光し、七重を中心に広がる。
圧縮されていた空間が破壊されていく。
ひときわ大きなひびが天井に達した時、爆発音と共に屋根板が破壊され、
ばらばらになった屋根板、煙、梁材と共に黒い人影が降ってきた。
床板を割りながら着地し、ゆっくりと立ち上がる男。
播磨悪兵衛であった。