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すこしふしぎですこしこわくてすこしさびしい

影泳ぐトカゲ

作者: 雲晴夏木

 公園のベンチに座り、ぼんやり日向ぼっこをしていたときのこと。見知らぬ女性と目が合ったかと思うと、その女性は僕の隣に断りもなく腰掛けた。はてさて彼女の目的は何なのかと思いつつ、拳一つ分距離を開ける。女性は気にする様子もなく、私ににこりと微笑みかけると、花びらのような唇を開いた。


「私、影のある人が好きなんです」


 そう言って、彼女は訊いてもいない〝影のある人が好きな理由〟を話し出した。

 そうそれは、彼女曰く。

 影の中には、トカゲがいるらしい。日の当たらない場所。切れかけた電球が作る影。木陰。ありとあらゆる影にトカゲは存在して、人体の中も例外ではないそうだ。


「レントゲンで〝影〟って呼ぶでしょう? あそこにね、泳いでるんですよ」


 そう言って、彼女は含み笑いをした。その横顔は子供のようだ。レントゲンにもその影にも縁の遠い私が首を傾げると、彼女は自分の職業が看護師であることを話した。なるほど、だからトカゲが泳ぐ様を頻繁に見るわけだ――と、胡散臭い話なのに納得してしまった。

 ある非番の日、電車で揺られていた彼女は、向かいに座る女性の胸からトカゲの尻尾が生えているのを見た。彼女の視点で見るトカゲは、影の中で泳ぐものだ。だからトカゲの尻尾を見つけたとき、彼女はその人の胸に影でもあるのかと心配し、つい凝視してしまったそうだ。視線に気づいたのか、トカゲはくるりと回り、胸の中から顔を覗かせた。かと思えば、また胸の中へ沈み、尻尾だけを見せる。そしてまた、子供がでんぐり返しをするように沈んで顔を見せ――を繰り返した。遊んでいるような仕草に愛らしさを感じ、彼女はつい、くすりと笑ってしまった。彼女が笑うと、トカゲは回るのをやめ、じいっと彼女を見つめた。その顔は、爬虫類なのに感情豊かで、彼女は構ってほしそうに感じたらしい。


「きゅるんとした黒い目が可愛くって、つい、目的の駅で降りるのも忘れてその子を見つめてました」


 それからは、胸にトカゲを泳がせている人を何度も見かけたらしい。胸にトカゲを泳がせているのは、大体、どこか寂しそうな影のある人だそうだ。中には屈強な体つきの人や、子供が一目ですくみ上がりそうな強面の人もいたらしい。しかし胸から顔を覗かせるトカゲを見ると、どんな相手でも彼女には可愛く思えるそうだ。だから、影のある人が好きなんです――と彼女は締めくくった。

 話し終えるのを待っていたかのように、彼女のポケットに差し込まれていた携帯電話が震える。慌てた様子で彼女はポケットから電話を取りだし、通話に応じた。ちらりと見えた画面には括弧書きで夫とあり、逞しい体格を持つ男性の写真があった。どうやら、この写真の男性と結婚しているようだ。ちらと見ただけだが、写真の男性は優しく笑っていた。影のある人には見えないなと思っていたら、顔に出ていたらしい。通話を終えた彼女はこちらを見て、わずかに眉を下げた。まるで母親のような穏やかな顔で、彼女は携帯電話の画面を見せた。


「この人も、昔はトカゲがいたんですよ」


 写真の男性は、とてもそうは思えないほど穏やかな顔で笑っている。とても似通った穏やかさを目に浮かべながら、彼女は自分に画面を向け、男性へ目を落とした。


「私があんまり構うものだから、この人、寂しくなくなったんです。可愛いトカゲもどこかに行ってしまって、あのつぶらな瞳はもう、見れなくなってしまいました」


 だから、と彼女は困った顔をしてみせた。


「寂しくないなら、私なんか必要ない。そう思って離れようとしたら、あの人、あのトカゲみたいなほっとけない顔をするから……」


 絆されちゃった。そう言って、彼女は照れ笑いを浮かべた。その笑顔は日だまりのようにあたたかで、こんな笑顔の人がそばにいれば、そりゃあ影も消えるだろうさと納得した。

 話はどうやらここで終わりのようだった。変わった話をありがとうと礼を言い、私は立ち上がった。ねだった覚えはないけれど、と付け加えようかと思ったが、それはやめておいた。そのまま立ち去ろうとすると、彼女は私の袖を掴み引き止めた。いったい何だと振り返ると、彼女の細く白い指が、とん、と私の胸を突いた。


「あなたのここに、トカゲがいるの」


 彼女の目は、私ではなく胸を見ている。今聞いたばかりの話を頭から信じたわけではないが、少なくとも彼女の目には、本当にトカゲが見えているのだろう。真剣な目が、胸から私の目へと移った。


「私は、トカゲのことが好き。可愛いし、ずっと見ていたいと思う。でも、こんなに可愛いトカゲだけど、胸に泳がせ続けていいことなんてないんです」


 気遣うような、励ますような、そんな笑顔が、私に向けられた。


「トカゲが泳ぐ影を払えるような、夢中になれる何か、誰かを、いつか見つけてくださいね」


 彼女が私を案じていることは、声音でわかった。見知らぬ私を、心底心配してくれている。変わった人ではあるが、いい人だ。そう思い、私は再度礼を言った。


「興味深いお話でした。ご心配、ありがとうございます。あなたが言うとおり、なるべく寂しくならないよう、努力します」


 ぺこりと頭を下げ、今度こそ、私はその場を立ち去った。彼女はもう、私を引き止めなかった。

 公園を出る道すがら、優しそうな顔立ちの大柄な男性とすれ違った。男性はあの女性が座るベンチの方角へ大股で歩いて行く。彼女の、夫だろう。すれ違いざま、彼をちらと振り向く。彼は私の視線に気づかず、まっすぐに彼女の元へ足早に歩き去った。

 背後から、男性のものらしい声が誰かを気遣っているのが聞こえた。あの女性の声が、平気だとか心配しすぎだとか、そんな返事をしているのも聞こえる。

 人生をともに歩んでもいいと思える相手がいる二人を羨む反面、伴侶とはそんなにいいものなのだろうかと疑問に思った。彼女が言うトカゲは見えないけれど、私は自分の胸元に目をやり、どうだい、と話しかけた。


「伴侶がいたところで、本当に寂しさは拭えるもんかね」


 当たり前だが、返事は聞こえない。けれど胸の中で何かが、くるんと泳いだような気がした。

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