『進撃の巨人』って度々、政治的な思想がどうこう言われるけど結局の所どうなんだ?
政治系、思想系が苦手な方はお気をつけ下さい。
ファイナルシーズンが絶賛放映中の進撃の巨人、原作も残すところ後2話になりました。一体どんな結末を迎えるのか非常に楽しみですが、今回『進撃の巨人』の政治的、或いは思想的な側面について考えていきたいと思います。
まずは初めに『進撃の巨人』という作品において表明されているテーマや主張、或いは作品の描かれ方から読み取る思想について論じる訳ですが、当然ながらこれは原作者である諫山創氏個人の主義主張や思想に直結しません。
私の勝手な見解であることを抜きにしても優れた作品であればあれほど、作者の思想や人格を突き抜けて物事の本質を描くからです。偉大なアニメーター宮崎駿氏の思想は左翼的として有名ですが、宮崎作品の表現はイデオロギーを超えた普遍的なメッセージ性を獲得したからこそ名作と呼ばれるようになりました。
結論から述べれば『進撃の巨人』は戦後日本の所謂左翼思想に対してのアンチテーゼです。
戦後日本の左翼思想とはなんぞや。色々あると思いますが今回は代表的な憲法前文『平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して~』を基礎とし憲法9条の『戦争の放棄』と『戦力の不保持』を絶対とする価値観、これに付随する自虐史観と定義します。
――その日、人類は思い出した。奴らに支配されていた恐怖を。鳥かごの中に囚われていた屈辱を。
――家畜の安寧、虚偽の繁栄、死せる餓狼の自由を!
進撃の巨人において有名なセリフと歌詞ですが敗戦後、武力を放棄し米軍によって生存権を確保している日本の状況を端的に表しています。現実の日本において憲法9条絶対という思想は、アメリカの巨大な軍事力を背景にした抑止力が支えている訳ですが、作中内における巨人への防衛がほぼ壁頼みのように
パラディ島=日本国、壁=米軍、巨人=外敵という構図になっています。
壁の中に閉じこもってさえいれば良いというウォール教は、差し詰め9条信者と言えるでしょう。
原作1話冒頭、壁とともに平和神話が崩壊したことで物語は動き出しますが、これぞまさに9条さえ守っていれば平和が続くという左翼思想への痛烈な批判です。また後半に登場する『不戦の契り』などはそのまま『憲法9条』で、この戒めを突破するためにエレンは苦悩します。
エレンは一貫して自由を希求し、迫りくる敵を自らの力で排除しますが、この姿勢は所謂、保守派が唱える自主独立、または戦後レジームからの脱却(©安倍晋三元首相)であると言えるでしょう。
次にマーレの収容区に囚われているエルディア人ですが、彼らはマーレによる洗脳教育により徹底的な自虐史観を植え付けられ、同じ民族であるパラディ島のエルディア人を悪魔として蛇蝎のごとく嫌っています。
その代表者がガビです。ガビについては特にカヤとの問答シーンが槍玉に挙げられ、韓国人の主張といったように炎上しますが、カビは左翼的な自虐史観に染まった典型の日本人だと思います。
何故ならガビはエルディア人としての自分に誇りがあるからです。パラディ島を悪魔とするのは自分たちが正しい存在であることを証明するための方便であって、そこにはある種のナショナリズムが介在します。また私は現実の所謂、左翼と呼ばれる人に対し真の意味で日本が嫌いなんだとは思っていません。敗戦して日本が全て悪かったと思い込むことでアイデンティティーを保った心情は、理解できるからです。それが戦後70年以上経っても続いているのは問題な訳ですが……。
閑話休題
そんなガビもパラディ島で様々な経験を積み、100%の善も悪も存在しないのだと理解します。マーレ編に入ってからが特に顕著でマーレの軍人マガトが、軽々しく正義を語ったことを謝罪しアルミン達と手を取り合うシーンが出てきます。これは日本に正義はなく、全て日本が悪かったという戦後日本の自虐史観からの脱却を促すような描写とも言えます。
さてここまで書くと『進撃の巨人』は右翼的な作品であるかのように思われますが、そうではありません。作品内で明確に戦後日本を否定しているにも関わらず、それが社会に受け入れられているからです。右翼の街宣では眉をひそめる我々が何故『進撃の巨人』を楽しめるのか。それは正しいとか正しくないとか、正義だとか悪だとか何一つ決めつけていないからです。『進撃の巨人』は戦後の日本のあり方を否定こそしますが、日本の全肯定はしません。
今の日本では左翼が金科玉条の如く9条を讃えるなら、右翼は何が何でも憲法改正といったように結論ありき、お題目を唱えているだけで中身がない。お互いが自らの主張を正義と信じてやまないからです。アルミンは徹頭徹尾、話し合いを望みます。地ならし以外にも可能性を模索し出来る限り決めつけることをしません。
つまり『進撃の巨人』は偏った考えに凝り固まらず、現実を直視しながらも何が正しいのか、正しくないのか。自分以外にも色々な人がいて、色々な考えがあるのを理解し、受け入れながら歩んでいこうというメッセージが込められているのです。その普遍的な価値観(私は単に『大人の考え方』だと思っています)を物語の中で上手く表現しているからこそ、国内問わずこれほど多くの人に読まれているのではないでしょうか。
ただし、戦後日本を批判的に描く関係上、左右の視点から見ると政治的な側面が強く映り、議論や言い合いに発展するんだろうなというのが、個人的な見解です。寧ろこれだけ露骨な表現が多いのにそこまで叩かれないのは、諫山創氏の漫画家としての才能がずば抜けているからで、今回この文章を書くに当たり改めてその凄さを認識しました。
またエレンの暴走とも思える地ならしによる壁外人類絶滅は、戦争不能国家の日本が一度狂うと今度こそ1億総玉砕までいくじゃないかという示唆のように感じますが、何にせよ戦争と平和についてもう少しバランスの取れた考え方が今の日本に求められていることは間違いないでしょう。
以上、とくに真新しい解釈はなかったと思いますが、如何でしたでしょうか。
他にもジークのニヒリズム、作中内で日本を背負うミカサのエレン依存からの自立と考えられることは多いですが、そんなの抜きにしても純粋に滅茶苦茶面白いですよね。