第9話 妹なるもの
『すず兄?』
ドアの向こうから声が聞こえた。
「……」
返事をためらっていると、乙村さんが言った。
「妹さん? どうして返事しないんですか?」
「いや、その」
面倒くさくなることが目に見えているからだ。
『あら、もしかして……お邪魔だった?』
にやにやした声。
――ほらもう面倒くさい……。
同じ面倒ならとっとと終わらせたほうがいいと考え、招き入れることにした。
「問題ない。入れ」
ドアが開き、その隙間からにょきっと頭が生えた。
「あらー! きれいなお姉さん!」
乙村さんを見た茉莉実が興奮したように言った。部屋に入ってきて、いまさらのようにお下げ髪やセーラー服の裾をいじったりする。
「帰ってきたまんまの格好でごめんなさいね」
「いえ、かわいいですよ」
「声もきれい! ――あ、ごめんなさい、大きい声出しちゃって。すず兄――涼樹の妹の茉莉実です」
「渡来くんの同級生の乙村小依です」
膝に手を添え、お辞儀をする。
「え、乙村さんって、あの病院の?」
「はい、父が」
「あらー!」
――うるせえ……。
声もリアクションもでかい。
「そんなお嬢さんと仲がいいなんて知らなかった。ピコピコしか取り柄のない兄ですけど、よろしくお願いしますね」
「ピコピコ?」
「ほら、ゲーム」
――おかんかお前は……。
「あら、もう、お茶も出さないで。気の利かない兄ですいません」
「そんなことは」
「いま持ってきますね。――あ、紅茶のほうがいい?」
「いえ、もうお暇しますので」
「そんなこと言わずに。よかったら夕ご飯食べていってくださいよ」
「どうぞお構いなく」
「あ、じゃあリンゴ! リンゴ持ってってください! たくさんあるから!」
と、どたどた音を立てて階段を下りていった。もう、おかんじゃない部分を見つけるほうが難しいレベルだ。
俺は額を手で押さえた。
「なんかすまん……」
「いえ、楽しい妹さんですね」
乙村さんは手で口を押さえ、くすくすと笑った。
俺たちも階下へ移動する。茉莉実がリンゴの入ったビニール袋を乙村さんに手渡した。
「じゃがいもも入れときましたんで」
「ありがとうございます。いただきます」
「ほら、すず兄、もう暗くなってきてるしちゃんと送ってきな。――送り狼になるんじゃないよ。ふふ、ふふふ!」
――だからおかんかお前は……。
俺はポケットを探った。
「あ、スマホ忘れた。ちょっと待ってて」
部屋に引きかえし、鞄の中を探ってみるも見つからない。
辺りを見回す。
「あった」
PCデスクに置いてあったスマホを引っつかみ、玄関にもどった。
「悪い、行こう」
「は、はい」
外に出る。空はちょうど夕方と夜のあいだだった。紫の下地に、かろうじて夕焼けの橙が残っている。
大通りのほうへ並んで歩く。
乙村さんはずっとうつむき加減で、無言だ。気疲れさせてしまっただろうか。
「悪かったな、うちの妹が。うるさい奴だっただろ?」
「そんなことは……」
「悪気はないんだ。ちょっとお節介というか」
「いえ……」
「昔は大人しい子だったんだけど、中学に入ったくらいからかな? 急にあんな感じになって」
「はい……」
「家じゃ落ち着かないし、次回はゲーセンにしようか」
「ええ……」
「いつでも言ってくれ。付きあうから」
「はい……。――へ、え!? ちちちちち違いますよ!?」
乙村さんが急にすっとんきょうな声をあげた。
「そ、そんなつもりはありませんから!」
「……はい?」
「あ、でも、べつに渡来くんが嫌ってわけではなくて、むしろ――ってそれはどうでもよくて!」
「……?」
「つまりそういう邪な動機ではなくて、純粋にゲームがうまくなりたいのです!」
――『のです』?
選挙演説かなにかか。
「うん、だからゲーセンに付きあうって言ってるんだけど……」
「……」
乙村さんはしばらくぽかんとしたあと、顔を真っ赤にしてあたふたと言い訳がましく言った。
「あ、そ、そういう意味で! はい、ええ、ありがとう。是非お願いします」
「ああ」
「じゃ、じゃあわたし行きます!」
「ここで大丈夫か?」
「もう人通りも多いですし。ありがとうございました。では」
乙村さんはこちらを振りかえることもなく、まさしく脱兎のように駆けていった。
俺はそれを呆然と見送った。
あの慌てっぷり――。
――なんだったんだ……?
俺は首をひねりひねり引きかえした。
家にもどると茉莉実が台所で味噌汁を作っていた。
「ただいま」
「おかえり。ちゃんと送ってきた?」
「まあ」
いったん通りすぎようとして、立ち止まる。
「乙村さんの様子がさ、変だったんだよ」
「変?」
「慌ててたっていうか。――もしかしてお前、悪口でも吹きこんだんじゃないだろうな」
「どんな」
「知らんけど。あることないことだよ」
「やらしい画像がたくさん入ってるフォルダのこととか?」
「それはただの事実だろ――なに言わせるんだよ!?」
「やっぱりあるんだ」
「な……くはない。というか男ならみんなあるんだよ!」
あるはず。あるよな? あってくれ。
茉莉実は哀れむような笑みを浮かべた。
「はいはい、そうだね」
「お前、なんてこと言ってくれるんだよ……」
「ん? 違うよ。エロ画像フォルダの話なんて乙村さんにしてない」
「じゃあなんで乙村さんは――」
「一個聞いただけ」
「なにを」
「『すず兄と付きあってるんですか?』って」
「なん……、え?」
――……あ。
妙に大人しかった乙村さんの様子がさらにおかしくなったのは、俺が「付きあう」という単語を出した直後だった。
「お前……、お前なあ……!」
「だって、ひとりで家に来るくらいだからそうなのかなって思ったんだもん」
「乙村さんが俺なんかと付きあうわけないだろ」
「そんなことないでしょ。すず兄は自己評価低すぎ。けっこういいところあると思うけど」
「な、なんだよ、急に」
照れくさくなって目をそらす。茉莉実はちょっと笑って言った。
「そういう単純なところとか」
「からかっただけかよ」
「ほら、手洗ってきて。ご飯にするから」
夕食を済ませ、風呂に入り、途中だった英作文の課題に手をつける。乙村さんのアドバイスのおかげか、前の苦戦が嘘のようにはかどった。
ちらっと彼女との会話を思いだす。
『あ、でも、べつに渡来くんが嫌ってわけではなくて、むしろ――』
むしろ、のあと、彼女はなんと言うつもりだったのか。
――まあ、『いいひと』が関の山だな。
俺は乙村さんにゲームを教える。そして乙村さんからは勉強を教わり、Win-Win。それが俺と乙村さんとの関係。非常に合理的だ。
「よし」
課題が終わる。寝る前に少しDFでもやろうかとPCの電源ボタンに手を伸ばしたとき、ふいにドアが開いた。
眉をつり上げた茉莉実が立っていた。
「ま~たピコピコやろうとして。早く寝な!」
「はいはい、分かったよ、おかん」
と、言ったとたん――。
「誰がおかんだ!!」
茉莉実は烈火のごとく怒った。
「自覚なかったのかよ!?」
「こんなピチピチの中学生を捕まえて!」
てっきりわざとやっているのかと思っていた。
「いいから寝なさい!」
――まさにそういうところなんだが……。
わざわざ指摘して虎の尾を踏みに行くことはない。
「分かったって……」
俺は大人しくベッドに退散した。