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余命10000文字

作者: はな丸

「ぬらりとした感覚を顔に感じて、神無月はあわてて飛び起きた。夜の獣臭に振り返ると」


こちらは

村崎羯諦様の作品、「余命3000文字( https://ncode.syosetu.com/n0112gc/ )」のオマージュ作品です。

どうぞぜひそちらをご覧ください。作者様より了承を頂いております。ありがとうございます。


ピクシブにも投稿しております。こちらもよろしくお願いいたします。

https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=13156527


天地は過ぎゆかん


されど我が言は


過ぎゆくことなし


(新約聖書 ルカ傳福音書)




 ぬらりとした感覚を顔に感じて、神無月はあわてて飛び起きた。


 夜の獣臭に振り返ると、目と鼻の先に奇妙な生きものがこちらをのぞき込んでいた。


 人の顔をしているが、顔からは油のような血液のようなものを、したり、したり、とたらしている。



 神無月はあまりの驚きに、その巨躯に似合わず素早く後ろに飛び退いた。


 その生きものから視線をはずさずに、横でまだ寝ているはずのルカを左手で探して叩いて起こした。


 ルカは寝ぼけまなこだった。


 しかし、一言も発しない神無月の緊張に気がついた。


 彼女は上体を起こすと、神無月の視線の先にある異様なものをみて息を呑んだ。



 神無月は刀に手をかけようとしたが、ルカは自分の胴ほどもある神無月の左腕を両手で抱きかかえ、押し留めた。


「……くだんさま?」


 ルカはおそるおそる、その奇妙な生きものの名前を口にした。


 それは、顔は人だが体は牛のようで、血と油がまざったような体液で全身が濡れている。


 生まれたばかりのようなぎこちない動きをしている。


 しかし親はまわりには見えない。



 人の顔をしたくだんは、獣の匂いのする息を吐きながら、神無月たちの水筒を前足のひづめでふみつぶし、水をすすった。


 くだんは神無月たちにふたたび顔を向けて、しわがれた男性のような声で言った。


「お前たちの余命は一万字」


 突然のくだんの人の言葉を聞いて、神無月は口の中がカラカラに乾燥し、唾液がねばる感じがした。


そして驚くほど幅広い背中の真ん中を冷たい汗が流れた。


 神無月はルカを守るために、左手を刀の鞘におきながら、その肘で彼女を自分の背中に隠そうとした。


「私たちは目的のために生きている者です」


 ルカは神無月が制している左手にしがみつきながら、くだんに問いかけた。


「おそれながら、くだん様。私たちの目的は叶うのでしょうか?」


 長い沈黙が流れた。


 くだんは、質問などまるで意に介してないような顔をして、前足のひづめで、水を飲み干してしまった割れた水筒をいじっていた。


と ぷ ん


 神無月の視線は、くだんからそらせていないはずだった。しかし、一刹那のうちにくだんは見えなくなってしまった。消えるというより、水滴が落ちて水面に接すると水と区別がつかなくなるように、くだんは闇の中に溶けてしまった。


■ ■ ■ ■ ■


 くだんの姿が見えなくなり、風景は元通りに戻っていた。焚き火はすでに消えて冷たくなっていた。自分のひげが伸び、異常な空腹と喉の渇きを感じていた。夜空を見上げると、さきほどまでは満月だった月が明らかに欠けている。くだんと出会ってから三日三晩たっている事に気づいた。


 神無月とルカは焚き火をもう一度おこし、残り少ない食事をした。つい先程、夕食をとったはずなのに食べ物を見るだけで唾液があふれ、痛くなるほど胃が鳴った。染み渡る食べ物の味に、予期せぬ絶食を痛感した。くだんはやはり本当にいて、知らないうちに三日三晩たっていたのだ。


「一万字か。ルカはどう思う」


 ルカは新しい焚き火に小さな枝をくべながら、神無月の方を見ずに小さな声で言った。


「神無月、くだん様は異形だ。この世の終わりに出現し、予言を行い、三日で死ぬと言われている」


「お前がそう言うのなら、そうなんだろうな」


 神無月の方を見ながら、ルカは力なく言った。ルカは言葉に仕える者だった。全てを言葉で理解して、言葉を操ることで世界を理解しようとしていた。


「私が知り得るのは言葉だけだ。言葉にできることは理解し、ときに解決することができる。世界が終わっても言葉は残る。だが神無月、この世には言葉になっていない事があふれている。言葉に出来ないことは、沈黙するしかない」


 焚き火の炎があかあかと登っている。神無月の顔が熱くなっているが、多分焚き火のせいだけではない。くだんに自分の人生の残りを予言され、興奮しているのだ。


「一万字、どう使う?」


神無月はルカに聞いた。


「差し支えなければ、まずお互いの話をしよう」


ルカはそう言った。神無月は声を出さずにうなづいた。


 ルカが先に身の上話を始めた。世の中には奇怪な病が流行っていた。人々はなすすべもなく、バタバタと倒れ死んでいった。しかしこの流行り病は他の病気とは違っていた。村が全滅するようなことはなく、必ず生き残りがいるのだった。誰が病にかかるのか分からなかった。病んでいても生き残る者もあれば、元気なのに翌日には冷たくなっている者もいた。


 外界と交流を絶っていたルカの村は誰一人、死者がいなかった。ほどなく周りの村からはいろいろな噂がたった。


「あの村が、病を操っている」


「邪教を信じる村人は悪魔だから病にかからない」


 その村人は邪宗を信じていたがために、流行り病でその村だけ死者がいないことで逆に汚名を着せられたのだった。


「私たちはよこしまではない。病を操ってはいないし、悪魔でもない。他の人とは考え方と信念が違うだけだ」


 ルカはそう言うと、神無月から視線をそらし焚き火に目をやった。


「だから私が、病の源である天狗を突き止める役になったのだ」


 不思議な名だな、と神無月が聞いた。ルカは自分が信じている教えについて簡単に伝えた。


「ルカ、という名前は医者から来ているのか」


「そうだ。偉人だ」


 神無月はルカの村にまつわる噂を聞いてみた。


「お前たちは言葉を操る、と聞くが」


「私たちは言葉で世界を理解する。言葉があれば光を曲げ、見えない遠方の者と意思をつなぎ、万病に効く薬を作ることもできる」


「まるで呪術だな」


「理解できないものには恐怖を覚える。他の者たちに私たちのことは理解できないから、私たちはうとんじられるのだ」


 膝を抱えたルカはつぶやくように言った。沈黙が流れた。


「俺には話すようなことはないのだが、」


 そういいながら神無月はぽつりぽつりと自分の出生から話し始めた。ルカとは対象的に神無月は言葉が少ない。彼はもののふであり、肉体に仕える者であった。


 神無月は分家の三男坊で、ひどく貧しい暮らしをしていた。本家からは疎んじられ、分家は何かあれば最初に矢面に立ち、本家を守らなければいけなかった。


「神無月という名の通り、俺の家には武運がないのだ。武家はげんを担ぐ。俺のような“神がいない”という名は、それだけで避けられる」


 しかし神無月本家は人を使い捨てることでその名を挽回しようとしたのだ。とにかく分家の人の命を大量に捨てるように使い、本家はのし上がっていった。


 神無月は小さい頃から武術、特に刀が好きだった。刀の切っ先が弧を描くのを見るのが好きだった。曲線がのびた先に物があると、少し間があってから、ぽとりと落ちる。水平に切っ先が抜けると、切ったものはそのままだが、じきに中身があふれてくる。果物でも、動物でも。そして人でも。


「ほかの子供には、その曲線が分からないらしい」


 神無月は小さな枝を折って、焚き火にくべた。


 神無月が成人してすぐに騒乱の時代を迎えていた。激戦をくぐりぬけ、友人たちはみな死んだ。歯車ですり潰されるような日々だったが、いくさ場には生きている実感があった。しかしようやく生き抜いて国にたどり着いたら、もう生きる場所が国にはなかった。


 神無月は生還するはずのない死地から、名を上げて戻ってきた。そして分不相応なほどの立場に昇進した。しかし本家の本音では、神無月のような戦いぐるいには戦場で死んでほしかったのだろう。


「めちゃくちゃな仕事を散々おおせつかり、最後に残ったのがこの天狗退治の仕事だ」


 神無月は天心にかかった月を仰ぎ見て、ため息をついた。


「だから俺にとって生きるとは戦うことだ。肉体の限りまで戦い抜くことなのだ」


 神無月は自分のことを初めて他人に話したが、不思議と後悔はなかった。ルカはじっと黙ったまま、焚き火を見ていた。神無月はルカに尋ねた。


「俺たちは生きては帰れないのだろうか」


 長い沈黙の後、ルカは重い口を開いた


「おそらく」


 ルカは座りながら、枝でなにやら足元に文字を書いていた。そして書いた文字をグシャグシャと消してから、神無月の方に向いてはっきりと言った。


「なあ、神無月。くだん様はどちらかではなく『お前たちの余命は一万字』と言った。もし二人の人生に一万字しかないのなら、天狗退治などやめてこのままどこか二人で逃げ去ろうか。名も家も捨て、どこかでひっそりと一万字分だけ余生を暮らさないか」


 神無月は真剣なルカの眼差しに気圧されながら言った。


「俺には無理だ」


「なぜ」


 ルカの瞳は焚き火の光を照り返してゆらめいている。かすかに涙を浮かべているようにも見える。神無月はルカの目から視線を外し、枝で焚き火をいじりながら自分に言い聞かせるように言った。


「俺の会得した切っ先の曲線の意味が、お前にはわかるだろう。お前の言葉が世界を理解するためにあるように、おそらく俺が生きているのは、この肉体で刀を正しく使うためなのだ」


 ルカは下唇をかんで沈黙した。


■ ■ ■ ■ ■


 二人は長い長い橋を渡っていた。日が暮れそうだった。今まで歩いてきた道はすでにぼんやりとしてはっきりせず、これからいく先の道もおぼろげだった。


 右手に夕日が落ちていく。橋は細く、そして長かった。橋の両脇には、葦が身の丈ほどに伸びている。青い火の玉が打ち上がり、放物線を描いて遠くの水面に沈んだ。


「あの火玉のせいで、ここら一帯はじきに焼き尽くされるだろう」


 ルカは訳知りげにつぶやいた。そんなもんなのだろう、と神無月は思った。


 はじめ、河を渡っているような気がしていた。しかしだんだん海のような気がしてきた。海鳴りが、自分の思っているのと反対の方から聞こえてきて驚いた。その海の音にルカは思わず飛び上がった。神無月がルカの手を引くと、ルカの手は一瞬ためらったあと、おとなしく手をつないだ。はじめはおそるおそる、そしてゆっくり強く握り返してきた。


 橋の両脇に葦は生えているのだが、橋の下の水は深く、ゆっくりと螺旋を描いているようだった。夜に特有なさみしさを思い出させる潮風が吹いてきている。急がなくてはいけない。神無月は突然、家に帰りたくなった。しかし帰るべき家はもうない。


 橋の前方から年老いた女性がひとり歩いてくる。神無月は自分の祖母だと思った。ゆっくりとした歩き方や物腰はずいぶん前に見た祖母のものだった。顔は見えなくても、動きと雰囲気でわかる。


「ばあちゃ……」


 口にだすつもりがなかった言葉がのどからあふれ出てきて、声が出そうになった。あわててルカは神無月の口をおさえた。


(この世のものではない)


 ルカは神無月の口をふさぎながら、声にならないように小さくつぶやいた。そう言われてみると、祖母に似ているがまるで別の、うつつの者ではないのように思えてきた。左手で刀の鞘を持ち上げようとするが、ルカはわずかに首を振った。


(いけない)


 すれ違うときには、やはり祖母だった。神無月が小さな頃に死んでしまったが、やんちゃな三男坊をかわいがってくれていた祖母だった。陽だまりが似合う、小さな小さな優しい祖母だった。その祖母が、神無月たちと言葉もなくすれ違う。


(刀を抜こうとするなんて)


 神無月はそう思いながら、自分を責めた。祖母が横を通り抜けるときに涙が出そうになった。ルカには、神無月の大きな体がいつもより小さく見えた。


 すれ違いざま、ルカはなにか知らぬ言葉をとなえた。ルカの言葉が届くと、通り過ぎた祖母であったものは、沈みかかった夕日の中に溶けてちりのように消えていった。


 神無月は後ろを振り返り、祖母のいた場所に向かい手を合わせた。温かいものが心から遠くなり、静寂がのこった。まわりは、ほとんど夜になっていた。


 ルカは神無月の大きな手をそっと握った。今度はルカが神無月の手を握ってくれたのだった。神無月は小さく、ありがとうとつぶやいた。気がつくと神無月の両の目からは、はらはらと涙がこぼれていた。


「火の玉のせいだ。草と一緒に橋がもえている」


 ルカは神無月に言った。祖母の通り過ぎた方向の、いま来た橋の遠い後ろがぼんやりと赤くなっていた。野火がいずれこの場所も焼き尽くすことだろう。


 神無月はルカの手を握りかえした。ルカの手は温かく、自分の手が冷たいことに気がついた。二人は再び前に進んだ。もう二度と戻れない橋を渡っていたのだと、その時気がついた。


 二人に残されている文字は、ここまででちょうど五千文字であった。


■ ■ ■ ■ ■


 旅が進むにつれ、人がいなくなり風景があいまいになり、そして時間があいまいになった。強烈な日差しと緑だけが夏を思い出させる。蜃気楼のような、白昼夢のような旅だった。


 いつの頃からか、ルカが唱える言葉が長くなってきた。境界を超えた場所では人が人であるために、自分が自分であるために、より努力と強い精神力が必要になってきているのだった。


「境界を超えているから、言葉が必要なのだ」


 ルカは長い言葉の後で、のどを鳴らしながら水を飲んで言った。


「草木の名前がわからなければ区別がつかないように、あらたに定義を加えることでこの世界に固定できる。今この瞬間に、神無月が神無月であり私が私であるために、言葉で私たちの肉体をこの場所にとどめている」


 ルカは小さな声で言った。


「ここはすでに、うつつではないからな」


 神無月はルカの異変に、薄々気がついていた。彼女は最近、急に食欲が落ちていた。味覚と嗅覚が失われているようだった。ルカは体力がなくなり、はかなげになっていたが、その分精神力を極限まで高めているようだった。


 神無月が、肉体の力を失っていくルカを背負って進むこともたびたびあった。ルカの体重は驚くほど軽く、強力の神無月にとってルカを背負うことは本来、造作も無いことだった。しかしこの世界では肉体はあまりにあいまいで、体の芯まで重さが響くようだった。


 軽いはずのルカの重たさに神無月の巨躯は一歩ずつ大地に沈み、夜には血尿をだした。そして神無月は昔の記憶が徐々におぼろげになっていた。父も母も、本家も分家も、全ては遠くの彼方に過ぎ去っていった。境界があいまいな世界で、大事なものを削りながら二人は進んだ。


 激しく照りつける夏の日差しの下で、唐突に旅は終わりを告げた。高く青い空に、白い大きな雲が上に伸びていた。


 おそらく目の前にいるのが、二人が追い求めていた天狗なのだ、と神無月は思った。しかし想像していた天狗とはまるで違っていた。大昔のやんごとない方が、その怒りと呪いとともに天狗になったと聞いていた。天狗は自ら舌を食いちぎり呪詛の誓文をかいたり、背中に羽があったり、長い長い鼻があると噂されていた。


 しかし目の前にいる天狗は、スラリとした上背、一分の無駄もない筋肉を持っていた。男性の神無月から見ても美丈夫だった。夏の日差しがあまりにも強くて天狗の表情は見えないが、所作からしてかなりの達人だ。


 強い夏の日差しがなにもかもを光に溶かし込んであいまいにしているが、天狗だけは黒く浮かび上がっている。


 確証はない。しかし確信はある。


 ルカがすでに長い詠唱を行っている。ゆるやかな暑い風に、ルカの髪がなびいていた。神無月は迷わず刀の鯉口を切った。


 神無月の刀の切っ先は、うつくしい軌跡を描いた。すばらしい一閃だった。しかし相手はゆっくりとした動きで、切っ先から身をかわした。川の流れを神無月の刀が切れないがごとく、自然にそうなるべくかわしたのだ。


「おうっ」


 神無月は最初の弧をそのままつないで、次の太刀とした。だが天狗は二の太刀にも難なくそれに対応した。


 天狗の初太刀が来た。夏の日差しをあびて天狗の刀が強くきらめく。神無月はそのきらめきを受けた。しびれるような快感を覚えた。天狗という妖怪を相手にしているが、元はやんごとない方だったのかもしれぬ。しかし、神無月にとっては昔から知っている、遊び仲間のような気がしてならなかった。


 ルカの詠唱は長く続いた。精神を集中して、間違えないように。しかし気負わぬように。一つ一つの順序を丁寧に。変な意識をせずに、無我で集中をする。


 天狗は、肉体と精神と魂の3つに分かれていた。肉体を神無月が抑えてくれている。精神と魂をルカが受け持っていた。


 旅の途中で、神無月はルカに聞いたことがあった。


「天狗を切るだけじゃだめなのか」


「おそらく天狗の精神と魂が永遠をつかさどっている。天狗の肉体を切るだけだと、すぐに別の場所に同じ天狗が現れてしまうはずだ」


 ルカに天狗の肉体を抑える力はない。一方、神無月に天狗の精神と魂を抑える事はできない。たとえ二人そろっていたとしても、相打ちがせいぜいだろう。


「私は七つの門をあけていく。その時間がほしい」


 神無月は天狗と互角に立ち合っていた。天狗は神無月とは全く異なる美しい曲線の太刀筋だった。


 神無月の肢体は躍動感にあふれていた。夏の日差しをあびて、刀がきらきらと光りながら美しい軌跡を描く。お互いの切っ先が相手の体に触れると、少し遅れてから赤い飛沫が舞う。


 天狗も笑っているようだが、表情は見えない。神無月は所々に天狗の返り血を浴びている。血しぶきさえなければ、子供が二人じゃれ合っているようにも見える。あるいは素晴らしい舞を二人で踊っているようにも見える。あらかじめ決められたかのように美しく、そして即興のような激しさがある。


 揺らめく蜃気楼の中、二人の太刀筋は多くが空を切り、わずかに相手の陰影と交錯した。空にほとばしる血しぶきは天狗のものか、神無月のものか分からなかった。ルカは詠唱しながら涙が出てきた。


(きれいだ。なんてきれいなんだろう)


 時間が永遠にも思えた。斬撃が、二人にとってはゆっくりと美しい曲線を描く。二人の強力が、満身の力を発揮している。しかし、夏のきらめきのように一瞬だった。


 ルカの胸が緑色に光り、第四門が開いた。心の臓の位置である第四門を開けて以降、術は後戻りできない。第四門は七つの門のちょうど中間であり、要であった。


 少しずつ天狗の動きの精度が落ちていく。ルカの詠唱が第五門である首にまで届いたのだ。ルカの言葉は、天狗の首から下の神経を変性していく。天狗の足がすくみ、手にはわずかな震えが出てきている。


「第五門だ」


 ルカは大きく息を吐いた。その瞬間、天狗の太刀が真っ直ぐにルカの右肩を貫いた。天狗が狙ったのか、あるいは神無月が防御して太刀筋がそれたのか。天狗との戦いに集中していた神無月は突然、ルカの傷にはげしく動揺した。


「ルカ!」


「気にするな。致命傷じゃない」


 神無月がルカに駆け寄ろうとするのを、ルカは必死で押し留めた。神無月も、天狗と同様に動きが落ちていたのだった。


「だが……」


「天狗に集中しろ。私も無駄死にしたくない」


 ルカはわざときつい言葉を使って、神無月を鼓舞した。神無月は右足と左手、左頬がすでに汚染されていた。天狗の返り血が、神無月を蝕んでいるのだ。それは決して取れない、清められない汚濁だった。子供のように楽しそうに刀を振るっていたが、少しずつ天狗の血や呪詛は神無月をからめ取ろうとしていた。


 ルカはさらに精神集中を高めていった。自らの額に精神を集中し、第六門である眉間の第三の目を開けるためである。


「ぬうっ」


 神無月は天狗の返り血で動かなくなった右足を無理やり大地から引きはがし、大きく四股をふんだ。決して落ちない血の汚れで黒くなった右足から無数の細かい出血が出ていた。


 神無月は、奥歯を食いしばった。左の頬の打撃で割れてしまった歯が口の中でじゃりじゃりと音を立て、血の味がする。


 神無月は、渾身の突きを打った。その突きが天狗の胸にわずかにあたり、血しぶきが飛び散る。天狗はすれ違いざまに組み討ちに持ち込もうとして、左手で太刀を持ちながら右手を太刀から離し、神無月の奥襟をつかもうとした。神無月は組み討ちを嫌って、突きを返す刀で天狗を薙ぎ払おうとした。天狗は神無月の首にのばした右手を途中で戻し、下段蹴りにつなげた。


(神無月も天狗も、時代と場所が変われば友人にも、親友にもなれただろうに)


 若木のように真っ直ぐに伸びている神無月が、故郷に捨てられて、誰も見ていないところで剣技をつくして天狗と戦わなくてはいけないことが、見ているルカにはつらかった。神無月と天狗が子供のように無心で刀を振っているのを見ていると、ルカは胸が痛くなった。


 ルカの眉間が明るくなった。第三の目が開けられたのだった。これがすなわち第六の門であった。ルカの第六門が開くと、天狗は急に雄叫びを上げ、姿が人ではなくなった。手足の指の爪は獣のように伸びて、熱い息を苦しげに吐いていた。第六門が開いたことで天狗本来の獣性と呪いが吹き出してきているのだった。ルカは天狗の精神をおさえたのだった。残っているのは天狗の魂だった。


 いままで呪詛で身体が汚れることを嫌がっていた神無月が、太い両手で天狗に直接触れて抑え込もうとしていた。みるみるうちにその両手は黒ずんで汚濁が広がっていた。しかし、もう神無月は構わなかった。万力のような腕の力をもって、天狗の動きを封じていた。


 さらにルカの頭頂部から後光がさし、まるで王冠を戴いているようだった。第七門を開きつつあった。


 獣のように変わってしまった天狗は、呪いの限りを集中し自らの体の一部を矢に変えた。そして抑え込んでいる神無月の胸のど真ん中に、呪詛で真っ黒な矢を打ち込んだ。その矢は至近距離から神無月の胸から背中に貫通した。神無月の大きな胸の穴にどす黒い鬼火が燃え上がっている。


「神無月!」


「……大丈夫だ」


 この世界では傷すらうつつではなく、夢まぼろしだった。だからこそ呪いも言葉も強い力を持っていた。神無月はその肉体と精神力で、胸に大穴が空いたまま天狗を押さえ込んでいた。


 ルカの頭頂が開いた。第七門であった。まぶしい光とともに天狗は一筋の涙を落とし、黒い球形になっていった。一抱えもあるほどの大きな黒い玉だった。神無月は天狗が姿を変えた玉を、自分の大穴が空いた胸の空洞に押し込むように両腕で抱えていた。


 ルカは天狗の黒光りする玉をお互いの胸で挟み込むように、神無月を強く抱きしめた。ルカは第四門である胸には緑色に光る空間があいた。そして大穴が空いた神無月の胸に重ねた。二人の胸が天狗の鬼火で燃えている黒い玉を包みこむようにピタリとくっついた。


 神無月の巨躯は今では小さくなったように思えた。神無月は胸に大穴があき、いまだに火が燃え続けていた。全身が汚染され黒くただれた皮膚と白い濡れた瞳でルカに答えた。神無月はすでに手も足も力が入らなくなってきていた。


「天地は滅びるであろう。しかし、わたしたちの言葉は決して滅びることがない。」


 ルカは神無月と一緒に天狗を抱きしめながら言った。それは聖なる書の一節であった。


 すでに神無月は目が見えなくなっていた。ただ触れているルカの体温だけがこの世と自分をつないでいた。神無月は真っ白な目を閉じて、ルカをほとんど動かない手でそっと抱きしめてつぶやいた。


「すまない。言葉がすべてのルカ。俺には、お前に届く言葉が、もうない……」


 神無月の力が抜け、永遠に沈黙した。


「神無月。わたしたちは、言葉なんかじゃないだろ」


 ルカは神無月を抱きしめ返しながら、言った。そして焼けただれ、呪詛で真っ黒に汚れた神無月の頬をすり寄せた。


 そして、これを最後に二人が使える言葉は残っていなかった。死が二人のそばにあった。それは別な世界へ行く門であった。門をくぐると、全ては忘れ去られ、世界は変る。


 もう十分。ただ、もう少しだけこの世界にいたかった。


 ルカと神無月の姿はより白く、そして天狗は黒くなっていった。第七門でも魂を破壊することはできない。それは神の領域だからだ。天狗の肉体と精神をおさえ、魂はルカと神無月が閉じ込めるしかなかった。


 硬度と純度が増し、内側に向かって硬く小さな玉になっていった。ルカと神無月の魂は、天狗と一緒に結晶化した。あとには白と黒の混じり合った、光る美しい玉が残った。その玉は誰もいない、境界のあいまいな世界に転がっていた。


■ ■ ■ ■ ■


 二人の消息がつかめなくなってしばらくして、くだんが奥右筆の夢に出てきたとうわさがたった。流言によると、歴史を書き留める役目の奥右筆が三日三晩、熱にうなされていたという。


 上下逆の人面で奇妙な笑い顔のくだんが奥右筆の前に現れた。牛の胴体の横にある目から涙が流れた。奥右筆がくだんからあふれる涙でずぶ濡れになった。とたんに、奥右筆は強烈な吐き気に襲われ、大量の吐瀉物といっしょに巻物を吐き出した。その巻物には神無月とルカの物語がちょうど一万字で記されていたという。


 後の世にその巻物は戦火で失われ、いまでは口伝のみ伝わる。天狗は戦乱の世に、たびたび復活が噂されるが真実は分からない。


 玉の行方は、ようとして知れない。


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― 新着の感想 ―
[良い点] つこさん。の紹介で拝読しましたー。 件さまの登場で寿命1万字を預言するのかっこいいです。医者の仕事である余命の宣告を妖怪に任せることで、スムーズに作品の世界観に入り込めたように思います。 …
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