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チャラ孫子~もしも孫武さんがちょっとだけチャラ男だったら~  作者: 神光寺かをり
人物紹介:むちゃくちゃ真面目に書いたら殺伐とした雰囲気になりました。
43/44

孫武さんの話には出てこないけど、孫子兵法とは深い関わりのある人物には、こんな人がいます。

曹操(そうそう)孟徳(もうとく)

永寿元年(155年)~建安25年1月23日(西暦220年3月15日)

後漢の政治家・武将・兵法家・詩人。

諡号(しごう)は武皇帝。()の武帝。


三国志でおなじみ、後漢最後の皇帝である献帝(けんてい)()()()丞相(じょうしょう)閣下。

現在残っている「孫子兵法」は曹操が注釈を付けたものだといわれ、このことから「魏武注孫子」とも呼ばれる。

過去には「孫子兵法は曹操が『孫子』に仮託して書いた物」説があったが、前漢時代(曹操が生まれるより前)の墳墓(ふんぼ)から「孫子兵法(竹簡孫子)」が出土したため、この説は否定された。

「魏武注孫子」の他に「続孫子兵法」「太公陰謀」「兵書接要」「兵書論要」といった兵法書を書いたそうだが、残念ながら散逸してしまった。





孫臏(そんぴん)

生没年不詳。

紀元前4世紀頃、中国戦国時代の斉の軍人・思想家・兵法家。


本名不明。

(ぴん)膝蓋骨(しつがいこつ)(膝の皿)の意で、臏刑という身体刑を指す。

臏刑とは、脚のひざから下を切断、または膝蓋骨を切除、あるいは跟腱(アキレスけん)を切断するなどして、歩行できなくする身体刑のこと。

つまり孫臏とは「足切り刑に処された孫さん」位の意味。

孫武の子孫だとされており、彼自身も「孫子」と呼ばれる。

一時期「孫子兵法(呉孫子)」は孫臏の作であるという説があったが、近年(1972年)になって寛大の墳墓から「孫子兵法」と異なる内容の兵法書(斉孫子。後に「孫臏兵法」と呼ばれる)が発掘されたことから、否定された。


孫臏と同窓の龐涓(ほうけん)(中国戦国時代の魏の武将)は、自分よりも孫臏の方が優秀である事を自覚しており、自分の地位が脅かされることを恐れていた。

そこで、孫臏を魏へおびき寄せて捕縛。濡れ衣を着せて、臏刑(アシキリ)と額への黥刑(イレズミ)に処した上で、軟禁(なんきん)した。

その後、(せい)の将軍田忌(でんき)の協力を得て脱出。

田忌の客将(きゃくしょう)となって活躍。

魏との戦争(馬陵の戦い。紀元前342年)で、龐涓の裏をかいた策略を仕掛け、きっちり仕返しをしている。





(みなもとの)晴信(はるのぶ)

大永元年11月3日(1521年12月1日)~元亀4年4月12日(1573年5月13日)

日本の戦国時代の武将。甲斐の守護大名・戦国大名。

甲斐武田家第19代当主。つまり武田(たけだ)信玄(しんげん)公。


「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」と記した旗指物(「孫子四如の旗」「孫子の旗」)を作らせた。


なお、信玄公がこの部分を「中途半端に」抜き出して用いた理由は不明。

また、いわゆる「風林火山」という略語は、古い史料には登場しない。

(井上靖の歴史小説『風林火山』が初出という説が濃厚)

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