孫武さんの話の中に出てきた「昔の人たち」は、こんな人物です。
黄帝(紀元前2717年?-紀元前2599年?)
神話・伝説上の帝。姓は姫、あるいは公孫とも。名は軒轅。
はじめ、黄帝は太古の支配階級であった神農氏に仕えていた。
神農氏の勢いが衰え始めると、各地の有力者が勢力争いにを始めた。黄帝はこの争いを武力をもって鎮めた。
この功績によって黄帝は諸侯の支持を大いに集めることになった。黄帝が力を付けてゆくことに危機感を覚えた神農氏と黄帝は対立関係となり、ついには戦争となる。
諸侯の支持を得ていた黄帝はこの戦に大勝。その勢いのままに、服従しない蚩尤(一説に神農の子孫)をも破った。
以後も反乱を起こす者があれば兵をもって討伐した。
こうして緒戦に勝ち、一大勢力を築いた黄帝は、諸侯に乞われて「天子」となった。
一方で黄帝は中国医学の始祖とされている。漢代では、著者不明の医学書は黄帝の著作として権威付けしたため、東洋医学の古書の多くは黄帝の著作と信じられている。
日本の某栄養ドリンク剤の名前の由来でもある。
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桀(紀元前1600年)
伝説上の名君・禹が立てた夏朝の、最後の帝。姓は姒。名は履癸。
徳ではなく、武力をもって諸侯や民衆を統治したため、人々に憎まれた。
また末喜という美女を寵愛すること甚だしく、昼夜を問わず彼女を膝に乗せて耽溺してついに政を省みなくなった。
巨大宮殿を造営し、肉山脯林(生肉の山と干し肉の林=豪華な食事)の宴会を催すなど浪費を重ね、それを諫めた家臣を殺したため、国力は衰え、人心はますます離れた。
やがて諸侯は商(殷)の湯王を盟主として結束し、紀元前1600年頃、鳴条(現在の山西省運城市夏県の西、一説に河南省洛陽市付近)で蜂起。決戦によって桀は倒され、夏朝は滅びた。
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末喜(生年不詳- 没年不詳)
表記は妺喜/末嬉/妹嬉とも。桀の妃の一人。山東の有施氏の娘。
桀が有施氏を討った際に、降伏のしるしとして献上された。一説に、桀は末喜を得るために有施氏と戦争をしたともいう。
絶世の美女であり、桀に寵愛された。
桀は末喜のために宮殿を建て、盛大な宴会を催し、裂く音をを立てるためだけに国中の絹を集めさせた。
この様な浪費のため夏朝は衰退。湯王に侵攻される。
桀と末喜は南巣(現在の安徽省巣県)まで逃れたが、その山中で死んだ。
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湯王(紀元前1600年頃)
商(殷)朝の初代王。
姓は子、名は履。王号は天乙とも。
夏王朝末期、桀王に対して諸侯が反乱を起こした。
湯王は夏の臣として伊尹の補佐を受けてこれを平定。この功績によって諸侯は湯王の下に結束することとなる。
傑王がいよいよ暴虐で淫乱の度合いを増すと、湯王は諸侯を率いて桀王を攻め、紀元前1600年頃、これを滅ぼした。
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伊尹 (紀元前1649年?-紀元前1549年?)
夏末期から商|(殷)初期の政治家。諱は摯。
始め桀王に仕えていたが、その暴虐ぶりを見て辞した。
湯王に仕えようと考えたが、伝手がなかったため、有莘氏の娘が殷の湯王に嫁ぐ際に料理人として従った。後、才能を認めた湯王に取り立てられ、殷の国政に参与した。
湯王の死後は、その子である外丙(即位後3年で死亡)と仲壬(即位後4年で死亡)の二人の王を補佐する。
中壬の死後、その甥である太甲が即位する。生来暴虐であった太甲はこ国内の政治を乱してしまった。そこで伊尹は太甲を湯王の墓所のある桐に追放する。
三年後、太甲が悔い改めたことを確認した伊尹は、彼を都の亳に呼び戻し、改めて天子の位に復辟させた。
伊尹は太甲の子・沃丁の時代に死去した。
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紂王(紀元前1100年ごろ)
商|(殷)の最後の王。
姓は子、名は辛、あるいは受。諡号は帝辛。
紂王の号は殷滅亡後に呼ばれたもの。(「紂」の字義は、馬具・農耕具において馬や牛の尻の部分にかける紐のこと)
若い頃の紂王は、美貌を持ち、弁舌に優れ、頭の回転が速く、力は猛獣を殺すほど強かった。
当方の異民族を討伐して国力を高めた。また、人身御供などの古い因習を廃止した。
年を重ねると、自分が優秀であっために臣下たちが愚鈍に思えるようになり、諫言をされても受け入れなかった。
紂王は祭祀をおろそかにし、佞臣を重用し、愛妾・妲己を寵愛して、淫乱にふけった。
酒をもって池と為し肉を縣けて林と為し(酒池肉林)、淫靡な音楽を作らせ、酒色に耽り、ますます民を虐げた。これをいさめた叔父を処刑し、謀反の疑いのあった重臣を処刑してその肉を塩辛や干肉とした。
さらなる領土拡大のための遠征費用捻出のため重税を課したことから民の怒りを買い、これを契機に周の武王が決起。
紂王は囚人・捕虜などで軍を編成してこれを牧野に迎え撃つ。
両軍は牧野の地で戦った。兵数七十万と号する殷軍だったが士気は低かった。一説に、兵は紂王に従うことはなく、周軍が迫ると反転して紂王に向かったともいう。
殷軍は大敗し、紂王は首都・朝歌の王宮に火を放って焼死した。
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妲己
殷王朝末期|(紀元前11世紀ごろ)の紂王の妃。
有蘇氏の娘。姓が己、字が妲
紂王が有蘇氏を討った際に、有蘇氏が降伏のしるしとして彼女を献上した。紂王は彼女を寵愛し、彼女の言は全て受け入れた。
殷が周の武王によって攻められ紂王が自殺すると、妲己は捉えられて斬首された。
元代の小説『全相平話』では狐の化身とされ、や明代の小説『封神演義』では九尾狐狸精として登場する。これを受けて、日本でも玉藻前/殺生石伝説と結び付けられた。
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文王(紀元前1152年-紀元前1056年)
殷王朝末期の政治家。周の創始者である武王の父。
姓は姫、諱は昌。
あるとき紂王から謀反の疑いを掛けられた文王は捉えられて幽閉される。
紂王は殷に人質として預けられていた文王の長子・伯邑考を醢尸刑(身体を切り刻む刑。凌遅刑)に処した上で、その肉を煮て羹(スープ)を作り、文王に与えた。(小説『封神演義』では肉餅と表現する)
この時紂王が「聖人なら子の羹を食わないだろう」と言ったのを聞いた文王は羹の正体を覚り、進んで羹を食べた。これを見た紂王は警戒を解き、解放した上で、殷の西部を統括する「西伯」の爵位を授ける。
釈放され国元に帰った文王は、紂王に目を付けられないようにしつつ仁政を行った。太公望・呂尚を軍師に迎えて北方遊牧民族を征伐し、領土を広げる。
やがて紂王に見切りを付けた諸侯が文王を慕い頼るようになったが、文王自身は最後まで商の臣下の立場を崩さなかった。
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武王(生年不詳- 紀元前1043年?)
周朝の創始者。
姓は姫、諱は発。武王の次男。
父の文王の亡き後、太公望・呂尚や同母弟の周公旦を補佐役として国力を高める。
殷の紂王の暴虐が酷くなると、諸侯の賛同を得て挙兵。(牧野の戦い)
殷軍の兵の士気は低く、統率の取れた周軍に攻め立てられると戦意を失い、多数の寝返りが発生した。殷軍は壊滅し、紂王は自死した。
武王は殷を滅ぼして二年程後に病を得、没した。
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周公旦(生年不詳- 没年不詳)
周の政治家。
姓は姫、諱は旦。
文王の四男。武王の同母弟。
周建国の功臣の一人。
兄・武王の補佐をして殷打倒に当たった。
殷周革命後も、領地の支配は嫡子の伯禽に任せて、自らは中央で兄の武王の補佐をした。
武王の死後、王位を継いだ成王が幼少であったため、旦は摂政となって国を安定させた。
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太公望(生年不詳- 没年不詳)
周の政治家、軍師、将軍。
姓は姜、氏は呂、諱は尚、字は子牙。諡は太公。
氏の呂と通称の太公望の望を合わせて呂望と呼ばれることもある。
史記に「文王が猟に出る前に占いをすると『獣ではなく人材を得る』と出た。狩猟に出ると渭水で釣りをする呂尚に出会う。文王はその知識の深遠なことを知り『吾が祖父の太公(古公亶)が待ち望んでいた人物である』と喜び、軍師として迎えた。以後呂尚は太公望と号した」という逸話がある。
文王の死後、周の軍師として文王の子の武王を補佐。殷を牧野の戦いで打ち破り、軍功によって斉(山東省淄博市臨淄区)の地に封ぜられる。
没時には100歳を超えていたという。
明代の娯楽小説『封神演義』では、周の軍師かつ崑崙山の道士として主役とされている。
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桓公(斉)(生年不詳-紀元前643年10月8日)
春秋時代、斉の君主|(初代の太公望から数えて第16代目)。
姓は姜、諱は小白。
長兄の襄公(14代斉公)が暴虐であることから、弟たちは命の危機を感じた。
次兄の糾は家臣を伴って魯へ、小白(桓公)は同様に莒へ亡命した。
前686年、襄公は従兄弟の公孫無知に暗殺される。斉公を称した無知だが、程なく家臣により暗殺される。
空位になった斉公の座を巡って、糾と小白(桓公)の兄弟は争うこととなる。
糾の腹心の部下管仲が、斉へ帰国途上の小白を暗殺しようとしたが失敗。
最終的に跡目争いの勝者は小白となり、糾は処刑された。
即位して桓公となった小白は、自分を暗殺しようとした管仲も処刑しようとしたが、自身の家臣の鮑叔から強い推薦があり、彼を取り立てて宰相とした。
桓公は、国内政治は経済振興、外交は積極的融和路線をとり、諸侯の信頼を得た。
しかし宰相・管仲が死亡すると、桓公は国政を顧みなくなり、佞臣を起用するようになった。
やがて家臣の間で権力争いが起きた。佞臣たちは病を得た桓公を病室に閉じ込め、食事も与えなかった。
紀元前643年、桓公は餓死した。
桓公の死後も家臣たちの争いは収まらず、遺体は二ヶ月以上放置された。
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管仲|(生年不詳-紀元前645年)
春秋時代、斉の政治家。宰相。
姓は管、名は夷吾、字は仲。
始め斉の公子糾に仕える。
糾の兄である襄公は暴虐で、その兄弟達に命の危険が及んだため、糾と家臣の管仲らは魯へ、弟の小白とその家臣の鮑叔らは莒へ亡命した。
襄公が従弟の公孫無知に暗殺され、その無知も暗殺されると、糾と小白が斉の君主の位を争った。
管仲は小白を暗殺しようとしたが失敗。結果として小白が即位して桓公となり、破れた糾は処刑された。管仲も連座させられるところであったが、桓公の重臣であった親友の鮑叔の取りなしで助命された上に、宰相として取り立てられる。
管仲は内政改革を行って国力を高めると、諸国の紛争を武力で収めるなどして、斉を発展させた。
紀元前645年、管仲は桓公に「佞臣を近づけないように」と遺言して死亡した。
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鮑叔|(生年不詳- 没年不詳)
春秋時代、斉の政治家。姓名は鮑叔牙とも。
姓は姒、氏は鮑、諱は牙、字は叔。
管仲の親友。
管仲に「私を生んだのは父母だが、父母以上に私を知る者は鮑叔である」と言われる。
公子小白(後の桓公)に仕える。
後継者争いを制した桓公に、敵方の陣営にいた管仲の登用を薦めた。管仲が宰相となるとその補佐を務めた。
史記には「人々は桓公を覇者に押し上げた管仲よりも、管仲の力量を見抜き信頼し続けた鮑叔を称えた」とある。
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専諸(生年不詳- 紀元前515年)
名は鱄設諸とも。
春秋時代の呉の公子光|(後の呉王闔閭)の側近。刺客。呉王僚暗殺の実行犯。
呉の堂邑|(現在の南京市の一部)の出身。
伍子胥によって公子光に推薦され、側近となる。
紀元前515年、呉王僚が楚へ軍を送り、国内に残された王の兵力が手薄になったのを見て、公子光は王権を奪取する好機であると考えた。そこで專諸に、後に遺される老母と子どもの面倒を見ることを約束し、刺客として王を暗殺させることを決めた。
僚は光の招待に警戒しており、警備は厳重であった。専諸は魚料理を運ぶ振りをして僚に近づき、魚の中に隠しておいた匕首で僚を突き殺した。
専諸は、王の護衛たちによってその場で切り殺された。しかし、光による政権奪取は成功した。
紀元前514年、光は呉王に即位|(呉王闔閭)。専諸の子には上卿の地位が与えられた。




