表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
チャラ孫子~もしも孫武さんがちょっとだけチャラ男だったら~  作者: 神光寺かをり
人物紹介:むちゃくちゃ真面目に書いたら殺伐とした雰囲気になりました。
40/44

公孫勝(羋勝)君はこんな人です。

こう(そん)(しょう)(はく)(こう)勝)(生年不詳-紀元前479年)


 姓は()、諱は勝。春秋時代末期の()の公族で、楚の(へい)(おう)の太子・(けん)の子。


 父である太子建は祖父・平王から(うと)まれたため、(てい)(てい)(こう)を頼って亡命したが、紀元前520年に(しん)と共謀して鄭を滅ぼす計画を企てた。

 これに気付いた鄭の公族で(さい)(しょう)(こう)(そん)(きょう)によって、健は(ちゅう)(さつ)された。


 このとき勝は近侍の伍子胥とともに呉に逃れた。


 勝は呉の地で成長し、やがて伯父|(太子建の(しょ)長兄)の公子(しん)によって楚に(しょう)(かん)された。叔父にあたる楚の(しょう)(おう)(平王と(しん)の公女(はく)(えい)の間の子)から(そう)(別名を白)の(たい)()に任じられたので、その地名を取って「白公勝」と呼ばれた。


 勝は鄭の公孫喬によって殺害された亡父の恨みを忘れず、その仇を討つべく鄭への出兵を上奏し、入れられたが、実際に出兵する機会は訪れなかった。


 紀元前479年6月、勝は刺客を立てて宮中で叔父の公子(けつ)と公子(けい)を暗殺し、恵王を幽閉。自らを「楚王」と称する。

 しかし密かに逃げた恵王は、7月に勝を攻撃。山中に追い詰められた勝は自決した。


 なお、後漢末の(とう)(たく)の孫娘の()(よう)(くん)(とう)(はく)は、勝の末裔といわれている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ