公孫勝(羋勝)君はこんな人です。
公孫勝(白公勝)(生年不詳-紀元前479年)
姓は羋、諱は勝。春秋時代末期の楚の公族で、楚の平王の太子・建の子。
父である太子建は祖父・平王から疎まれたため、鄭の定公を頼って亡命したが、紀元前520年に晋と共謀して鄭を滅ぼす計画を企てた。
これに気付いた鄭の公族で宰相の公孫喬によって、健は誅殺された。
このとき勝は近侍の伍子胥とともに呉に逃れた。
勝は呉の地で成長し、やがて伯父|(太子建の庶長兄)の公子申によって楚に召還された。叔父にあたる楚の昭王(平王と秦の公女伯嬴の間の子)から巣(別名を白)の大夫に任じられたので、その地名を取って「白公勝」と呼ばれた。
勝は鄭の公孫喬によって殺害された亡父の恨みを忘れず、その仇を討つべく鄭への出兵を上奏し、入れられたが、実際に出兵する機会は訪れなかった。
紀元前479年6月、勝は刺客を立てて宮中で叔父の公子結と公子啓を暗殺し、恵王を幽閉。自らを「楚王」と称する。
しかし密かに逃げた恵王は、7月に勝を攻撃。山中に追い詰められた勝は自決した。
なお、後漢末の董卓の孫娘の渭陽君・董白は、勝の末裔といわれている。




