ダフネ・オドラに口づけを!
――或いは、ラナンキュラスに祝福を!
「だーかーらー! 無ー理ー!」
面倒臭そうに間延びした可愛らしい声の主は、積み上げられた薬草の奥、椅子にふんぞり返っている。
「そこをなんとかぁっ!!」
対して、埃やら妙な物体やらが散乱する床に額を擦り付けて叫ぶのは『声変わり』の『こ』の字も見えない幼い声の少年だ。
顔をあげた少年は、今度は祈るように指を組む。
「アデルフィーリャ! 僕と結婚してくださいっ!!」
「無ー理ー!」
大体ね、と言葉は続き、声の主は少年に歩み寄る。面倒くさそうに少年を見下ろすのは、彼と同じくらいの年齢に見える、大きなつばの三角帽子をかぶった少女――アデルフィーリャだった。
アデルフィーリャは、芝居がかった様子で首を振ってみせる。
「ああ、クロウフット様! クロウ王子! あんたこれ、何回目かしら?」
「さぁ? 多分、五回目くらいだと思いますけど」
「ええそうね。五回目だわ」
アデルフィーリャはニッコリ笑ってクロウ王子の頬に手を添える。王子はまだ幼く甘い顔を綻ばせて、アデルフィーリャの手に手を添えようとして――。
「ええ、五回目ですとも。今日が始まってから数えて、ね!」
「いひゃい! いひゃいです、アデル!」
「痛いのが嫌だったら、アホも大概になさい!」
アデルフィーリャは、王子のよく伸びる頬を思い切り引っ張って、それから手を腰にあて、溜め息をつく。
「王子? あんた、由緒正しき魔女であるこのあたしを、何歳だと思ってるのかしら?」
「花のように美しいあなたは、歳など気にしなくても良いのです!」
「はぁぁぁぁぁ……。――いいこと? あたし、今年で二百を超えるのよ。こんなババアに言い寄るもんじゃありません!」
ホント、あんたってあたしの歳を覚えないわねぇ。
そう言って机に戻っていくアデルフィーリャの後ろを、クロウ王子が雛のように追いかける。
「そんな! 歳など関係ありませんよアデル! 百九十二歳差がなんだというのですっ」
「それにね! あんた、王族のくせして、護衛もつけずに魔女の森に入ってくるんじゃないわよ」
「わぁ! 僕を心配してくれるんですね! アデルフィーリャ、結婚してください!」
王子のキラキラした顔を見て、アデルフィーリャは思う。
――毎度毎度、話が通じないわ。このアホ王子。
こうなってしまっては、村の乙女からの依頼された腰痛薬も、街の伊達男からお願いされた老眼を治す薬も作れない。
なぜなら、クロウ王子がアデルフィーリャから離れないから。
――しかたないわね。とりあえず、在庫を全部渡しましょ。
幼い見た目で、しかし魔女歴は長い少女は溜め息をついて手を叩く。
「アウラ! ウーロス!」
『アウラ、馳せ参じました!』
『ウーロス、馳せ参じました!』
使い魔のフクロウ二羽が翼で敬礼している。
それを眺めながら、アデルフィーリャは万年筆を指揮棒のようにもてあそぶ。
「アウラ。あなたはレディー•ミモザに、取り取り急ぎ分として、三日分の腰痛薬を。残りはあとで、と伝えなさい」
『イエス•マム!!』
アウラはそう言うと、薬棚から器用に瓶をとって、開け放たれている窓から飛び立った。
「ウーロス。あなたは、サー•リンデンに塗り薬を。薬が一日分しかないことをまず伝えて、それから使い方を教えてあげて。残りについては、あとで届けると伝えなさい」
『イエス•マム!!』
ウーロスも器用に薬を持って飛び立つ。それを目で追いかけてから、アデルフィーリャは書類にサインを書いて立ち上がる。王子はやっぱり、当たり前のようについてくる。
アデルフィーリャが向かうのは小ざっぱりした応接間である。いつものことだから仕方ない、と割り切って彼に茶を出してやるためだ。
いつもの茶葉に、いつものティーカップ。それに、適当に用意したクッキーを添えて。
アデルフィーリャがそれらをクロウ王子の前に置いてやれば、彼は子犬のように喜んで笑顔を投げてくる。
そのきらめきをいなすのだって、アデルフィーリャにとってはもう慣れたものである。
気品を漂わせて紅茶を飲む姿は腐っても王子だわね、と失礼なことを考えながら、アデルフィーリャは自分用のティーカップをテーブルに置いた。
「幼気な想いを無下にしては、と思ってたんだけど、もう限界。あんたに求婚されるの、飽きてきたわ」
ソファに腰掛けてアデルフィーリャがきっぱり言うと、王子は泣きそうな顔をする。だがその顔が泣き真似だという事を、魔女はよーく知っている。
「同じ手が二度通用すると思ってるのかしら」
「あー、ダメですか。聡くて素敵、僕と結婚してください!」
「何なのかしらねぇ。あんた、一言ごとに求婚しないと死ぬの?」
「アデルが僕と一緒に居ない未来を想像したら、死にそうにはなります」
めんどくせぇ、とアデルフィーリャは鼻に皺を寄せる。それすら「可愛い」と言ってくるこのちびがきに思い知らせてやろう、と思って、彼女はいやらしく、それこそ魔女らしい笑みをその顔に乗せて、唇を開いた。
「そんなに私が好きだというなら、結婚したいというなら、それなりを見せていただかないと」
「お金ならたんまり」
「バカ! ソレはあんたの金じゃないでしょう!」
仕切り直し、とばかりに咳払い。すると、クロウ王子は真剣な顔をした。アデルフィーリャは、今度は淑女のように微笑んで、人差し指を立て、「あんたに課題を与えましょう」と唄う。
「朝焼けの空の黒い雲。新月の欠片。湧き水の最初の一滴。凪の海の囁き。山の根っこ。春一番の風切り羽。それから、マンドラゴラの笑い声」
パチパチ瞬きする王子に、アデルフィーリャは「この七つ」と言葉を続ける。
「これを、あたしのところに持ってきてくれたら……考えてあげないこともないわ、結婚」
「……! ほ、本当ですね!?」
「ええ、本当ですとも」
七つを復唱し始めた王子に、アデルフィーリャは心の中でニヤリと笑う。
――馬鹿な子。東洋の姫の難題を自己流にアレンジした、この七つの課題。全部、魔女じゃなきゃ集められない代物よ。せいぜいあがいて、しょんぼり帰ってくればいいわ。
そしたらきっと『結婚してくれ攻撃』も鳴りを潜めるだろう、とアデルフィーリャは考えている。そんな彼女の前、クロウ王子は紅茶を一息に流し込み、探してきます! と部屋を飛び出していった。それを見送って、アデルフィーリャはパン、と手を叩く。
「ベンダバル」
『ここに』
「クロウフット王子を、森の外まで送ってさしあげなさい」
御意、と飛び立つ黒いフクロウの羽ばたきを聞きながら、アデルフィーリャは少し冷めた紅茶を口に含むのだった。
◆◆◆
それから一週間、王子はアデルフィーリャの所に来なかった。
過ごしやすい一週間だったが、クロウ王子の騒がしさに慣れた身では、静寂がほんの少しだけ耳に痛かった。
「ええと、今日は……学童ちゃんたちの風邪予防薬ね。大鍋、大鍋。それから、コレとコレと……」
そんなふうに、材料を大鍋に入れて抱えて歩いていた時のことだ――
「アデル! アデルフィーリャ! 僕の愛しの魔女様! 見つけてきましたよ!」
――アデルフィーリャの耳に馴染んだ声が後ろから聞こえてきたのは。
胡乱気に振り返ったアデルフィーリャは、思わず鍋を取り落としてしまった。材料が床に散らばるが、それよりなにより、王子の手にある物が、彼女の目を奪う。
「あ、あんたそれ……」
「全部、手に入れてきました! どうぞお納めを」
どうして、と眉を寄せるアデルフィーリャの前、クロウ王子は腕一杯に瓶を抱えている。
「一つ一つは少ないですが、分け……ごほん、持ってくるにはこれが精一杯でした」
嘘でしょう、と鼻に皺を寄せる魔女の前で、クロウ王子はニコニコ笑っている。アデルフィーリャは、震える手で瓶を一つ、手に取った。
「……うっそでしょう……」
小瓶には、黒い靄が渦巻いている。
王子の持つ瓶全てを確かめ、アデルフィーリャは魂をすっかり吐き出すように、息を吐き出した。
「……あんたを、カエルに変えたい気分」
「ああ、それはいい! 使い魔として、そばに置いてくれるんですね!」
「あたしの使い魔はフクロウだけよ」
「フクロウでもいいですよ。使い魔なら、一生一緒にいられるってあの人が――ごほんごほん。ええと、ともかく、結婚してくれるんですよね?」
僕と結婚してください、アデルフィーリャ!
そう言って跪く王子を置いて、アデルフィーリャは手早く材料を大鍋に戻し、歩き出す。
「アデル! 約束したじゃないですかっ!」
「結婚する、とは言ってないわ! 考えてあげるだけよ!」
「流石、フクロウの森の賢者様! そう言うズルいところも大好きです、結婚しましょう!」
――結局、王子様は調合部屋までついてきた。アデルフィーリャは、仕方ない、彼に向き直って大きな溜め息を吐いた。
「あんた、どうやったら諦めるの?」
「僕を諦めさせるのを、諦めては?」
「はぁ……」
「可哀想に、お疲れなんですね? 結婚しますか?」
――もういっそ笑えてきたわ。
そう思いながら、魔女は、しようのない子、とクロウ王子の頬を優しくつねる。
「仕方ない。まずは、あたしの友人という扱いにしてあげましょう」
「そこから、恋人を経て、結婚……アデルは奥ゆかしいですね!」
「バカおっしゃい」
ぴしゃりと言っても、王子は楽しそうに笑っている。アデルフィーリャも釣られて笑う。
梟の魔女の家には、しばらく柔らかい笑い声が響いていた。
◆◆◆
その日の夜。
アデルフィーリャの家には、昼間とはまた違った笑い声が響いていた。
「馬鹿笑いして……やっぱりあんただったのね」
『ひゃっひゃっひゃ!』
「笑うのやめなさいよ、まったく」
王子が七つの課題を終えられたのは、アデルフィーリャの友人のせいだったのだ。
『すまんすまん……王子様が、あんまり可愛くてねぇ。いいかいアデル。お前、ちゃんと唾つけときな、唾』
「バカ言うんじゃありません。まったく、魔女なんかに想いを寄せたって、不幸になるだけよ」
『あたしゃ、そうは思わないよ』
アデルフィーリャは水晶に映る友人に、あらそ、と返して通信を切った。
◇◇◇
さてこの後。二人がどうなったのか知る人間はいない。
いない、が――こんな噂は流れている。
魔女の森のその深く。
そこにある小綺麗に整えられた魔女の家には、青年と少女が住んでいるとか、いないとか。