売られた恋は買うのが礼儀、ですか?
<プロローグ~黄金学園高等学校公式HPより~>
理事長のあいさつ
黄金学園高等学校を志す皆さん、受験勉強は順調でしょうか。特に中学三年生の皆さんにおかれましては、忙しい日々を送られていることと思います。
ご存知の通り、黄金学園では学内に≪仮想社会≫を構築しています。生徒たちは毎月末に行われる学力試験の成績に応じて≪仮想給与≫を受け取り、それを授業の選択費用や消耗品の購入、放課後の自己啓発等に充てています。
これらは「いち早く社会で通用する人材を育てる」という黄金学園の理念に則ったものであり、事実、卒業生たちは世界中の多種多様な分野で、大きな貢献を果たし続けています。
入学に際しては始めの一歩が重要になります。受験生の皆さんにおかれましては単に合格を目指すのではなく、選ばれし者だけが許される≪ピラミッド≫の頂点に立つことができるよう、今この時から抜かりなく準備を進めていってください。
それでは、来年の春に元気な姿でお会いできることを楽しみにしています。
黄金学園高等学校 理事長 蛙池泰典
1
一目惚れした奴がいる。
一年前の入学式、体育館の壇上に立った新入生代表の姿に、俺は目を奪われた。
女性らしいスラリとした体型に、見事に着こなされた制服。試験成績が学年五位以内の者のみに許される臙脂色のブレザーが目を引くが、それ以上に彼女の顔貌は美しく輝いていた。
鳶色のぱっちりとした瞳に、凛とした細めの眉。肌は雪原のように白くきめ細やかで、鼻筋はスッと通り、唇はサクランボのように艶々としている。絹のような黒髪は背中の辺りまで伸びていて、彼女がお辞儀をするたびにサラサラと肩の上を流れていくのが印象的だった。
体育館に集まった全員が、息を殺したようにその姿を見つめている――そう思えるほど静まり返った空間の中で、彼女は声高らかに宣言した。
「宣誓! 我々生徒一同は、日頃の勉強の成果を発揮し、正々堂々と他人を蹴落として、≪ピラミッド≫の頂点に立つことを誓います!
――平成二九年四月七日、新入生代表、金城美雷」
最初、彼女が何を言っているのか、すぐに理解することができなかった。
それは、周りの新入生たちはもちろん、保護者や教師陣にとっても同じだったようで、ざわめきが加速度的に空間を埋め尽くしていく。
そんな中で、彼女の向かいに立つ理事長・蛙池泰典だけが、満足げな笑みを浮かべていた。
「素晴らしい宣誓をありがとう。他の皆も、金城さんの言葉を肝に銘じて学生生活を送っていってください」
パチ、パチと柏手を打つ音。それは前列に座る者たちへと伝染していき、一人、また一人と手を叩く人数が増えていく。それがやがて大喝采となって広い体育館の中を包み込むと、金城は見事なまでのお辞儀を披露した。その後、軽やかに階段を下りて自らの席へと移動する。
その姿に、俺はすっかり釘付けになっていた。
単に容姿が優れているというだけではない。美しい所作に完璧な礼儀。それだけで、金城という人間の育ちの良さが伝わってくる。
だが、その後の挨拶は違った。今まで積み上げてきたものを全てぶち壊すかのような衝撃を、彼女はたった一つの言葉によってもらたしたのだ。
その≪噛み合わなさ≫に対して、凡人の代表格である俺は興味を持たずにはいられなかった。
――金城美雷……か。雲の上の存在って感じだけど、いつか話をしてみたいな。
そんな淡い夢を胸に抱きながら、俺の高校生活はスタートしたのだった。
それから時は経ち、二年生の春。
にわかには信じ難い一通のメールが、俺の元に届くのだった――
2
四月になって、教室には見たことがない面子がちらほら混じっていた。
しかし、それはクラス替えがあったからではない。この黄金学園では、毎月末に定期テスト(これを『月末テスト』と呼ぶ)が実施され、その成績に応じて≪仮想給与≫が給付されるのだが、生徒たちはそれを使って自分が所属するクラスを選ぶことができるのだ。
クラスは全部で四階級あり、ファーストクラス・スーパーエグゼティブクラス・エグゼクティブクラス・エコノミークラスと分けられている。
現在、俺が所属しているのはその最下層。お世辞にも賢い奴らが集まっているとは言えないその集団の中には、一年の頃から顔を合わせている面子に加え、物心ついた頃からの腐れ縁が二人ほど混じっていた。
「なんだよ、またお前らと同じクラスか」
ガッチリとした体格の坊主頭が、ガッカリといった様子でエナメルバッグを机に置いた。その男――佐藤俊男の態度に対し、二回りほど身体の小さな女が狼のように噛みつく。
「それはこっちのセリフよ! 大体、クラスが同じなのは当たり前じゃない。私たちは全員エコノミーのままなんだから」
その女――三崎恋奈が椅子に座ったまま睨み付けると、俊男は少々怯みながらも、返しの言葉を口にした。
「そりゃ分かってるよ。でも、エコノミーって言っても六クラスあるんだぜ? 少しは中身をシャッフルしてくれたっていいじゃねーか」
「嫌だったら、頑張ってEなりSEなりに上がればいいじゃない。まぁ、野球バカの俊男には無理だろうけど」
そう言って、恋奈は華奢な肩をすくめた。ちなみに、Eというのはエグゼクティブ、SEというのはスーパーエグゼクティブの略称である。
「なにぃ!? 恋奈、お前だってバレーバカじゃねぇか! 勉強なんてろくにしてねぇだろうがよ」
「失礼ね、私はちゃんとしてるわよ。この前の月末テストでは学年四五八位だったし」
「俺の一つ上じゃねぇか! そういうのは威張って言うことじゃねぇんだよ!」
「なによっ」
「なんだよっ!」
両者、火花を散らし始めたところで、俺が慌てて仲裁する。二人とも不満そうだったものの、さすがにこれ以上朝の教室で喧嘩するのは良くないと思ったのか、渋々といった様子でそれぞれの席に着く。
それから少しして、後ろの恋奈が声を掛けてきた。
「銀河はこの前のテスト、どうだったの?」
「あぁ……五七位だった」
「本当に? やっぱり、銀河って頭いいんだねぇ」
恋奈が感嘆の表情を浮かべているところに、俊男が再び入ってきた。
「やっぱりすげぇなぁ。俺、二年生になって、銀河はEクラスに行っちまってるんじゃないかと思ってたよ」
「そんなわけないだろ……ほら」
そう言って、俺は胸元のポケットから電子学生証を出して見せた。その表面にはエコノミークラス所属を示すECの文字がくっきりと映し出されている。
そしてその上には、天川銀河というフルネームもあった。まるで芸能人のようにキラキラした名前だが、俺自身は決して華やかな存在であるとは言えない。顔も身長も平凡だし、スポーツは昔から大の苦手。そのため、天川銀河という名前は俺にとってコンプレックスの一つであった。
そんな心中を知ってか知らずか、俊男はすぐに話を続ける。
「それじゃ、今年もコツコツ貯めるつもりなんだな。今、どのくらい貯まってるんだ?」
「えっと……先月末で一〇〇万に到達したよ」
「マジで!? 指定校推薦っていくら必要なんだっけ?」
「二〇〇万」
「おぉ、余裕じゃん! それならちょっとくらい無駄遣いしても――」
「駄目よ。俊男、あんたに使う金なんて一銭もないわ」
「なんで恋奈が口挟むんだよっ!? 関係ねーだろうが!」
「あるわよ。私には、真面目な幼馴染を守る義務があるからね」
そう言って、恋奈はニッと笑った。幼げな顔立ちが一層引き立ち、俺は恥ずかしさについ目を背けてしまう。
「ちっ……分かったよ。しゃーねぇ、俺もコツコツ貯めるとするか」
「俊男が? 無理無理、授業受けてるだけで精一杯でしょ。私と同じような成績なんだから」
「そりゃ、そうだけどよ……。銀河が頑張ってるの見たら、俺も少しぐらいって気がしてさ」
「まぁ……その気持ちは分かるけどね」
雑談の最中、二人は少し神妙な面持ちになる。
黄金学園では、授業を受けるのにも仮想通貨――理事長により≪ゲロン≫と名付けられている――を支払う必要がある。
例えば数学の場合、必修科目なので全校生徒五〇〇人に対して一〇のクラスが開講されているが、それぞれの教師による授業内容の質・レベルは異なっている。一般的には人気の高い授業ほど料金が高くなっているのだが、最低のクラスでも一定の額は支払う必要があるため、月末テストで低順位を取り続けている生徒にとっては重い負担となるのである。
一方で俺は、あえてエコノミーに留まり続けることで費用を抑え、授業もそれほど人気がないものを選んでいる。おかげで毎月七~八万ゲロンは貯まっていき、今に至っているというわけだ。
とはいえ、俊男と恋奈がサボっているのかというと、決してそうであるとは言えない。
「二人は運動部に入ってるんだから仕方ないよ。大会で成績を残せば、一気にボーナスも入るだろうしさ」
「そう簡単じゃねぇんだって。いい額貰えるのなんて、レギュラーの奴だけだし」
「私はもうレギュラーだけどね」
「マジで!? くそっ、いつの間にそんな――」
「フフ。ガタイさえ良ければいいってもんじゃないんだよ、俊男クン」
そう言って、玲奈は自慢気な笑みを見せた。俊男は悔しそうに歯噛みするも、返す言葉がないようである。
「俊男も頑張れよ。俺、野球好きだし、甲子園行ったら絶対観に行くからさ」
「……オウ。絶対エースナンバー掴んで、甲子園のマウンド立ってやる! 恋奈には負けねぇ!」
「私と張り合ってどうするのよ。バレー部じゃなく、同じ野球部の人間と勝負してよね」
「ハハハ」
二人のやり取りを笑いながら、かつて抱いていた感情を心の奥底に押しやる。
好きなスポーツを思い切りプレーしてみたい――そういう思いは、物心ついた頃からずっと胸の内にあった。
だがそれと同時に、自分がどうしようもない運動音痴であることにも気づかされていた。同級生との外遊びや体育の授業では、何度恥をかいたか分からない。
そして結局、俺は一度も≪挑戦≫しないことを選んだ。周りに比べれば得意だった勉強にしがみつき、コツコツと努力を積み上げることだけを続けた。おかげで黄金学園の入試は余裕を持ってパスし、名門大学への指定校推薦もほぼ手中に収めかけている。
間違っていない。俺の選択は、きっと正しかったはずだ。
そうして自分を納得させようとしていると、聞き慣れない電子音が周囲に響き渡った。
「ん……誰だ?」
俊男がブレザーのポケットからスマートフォンを取り出す。だが、その動作を行っているのは彼一人ではなかった。
教室中のクラスメートたちが自らの端末を手に取り、ほとんど一斉に画面を操作している。
俺もまた、少し遅れてスマートフォンを取り出すと、メールアプリを起動してその内容を確認した。
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From:金城美雷
To: 天川銀河
件名: ☆☆☆とっておきのお買い得情報☆☆☆
おはようございます! 金城美雷です♪
今日はエコノミークラスの皆さんにとっておきの商品情報を
お届けします!
それは……なんと……
ワタクシ、金城美雷の≪恋心≫*.゜。:+*.゜。:+*.゜。:+
驚きましたか? でもこれ、本気なんです。
価格はなんと、ゲロン一括払いで1,000,000円!!!
安い! と思った方! 今がまさに買いどきです!
詳細が知りたい方、購入を検討しているという方は以下の連絡先
までお願いします♪
黄金学園高等学校 2年F組
金城美雷
TEL:090-××××-△△△△
MAIL:Mirai.K@ougongakuen.jp
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「なんだ、これ……?」
最初に声を出したのは俊男だった。それを皮切りに、一人、また一人と反応が増えていく。
俺はというと、メールの文面に対する理解が追い付かず、スマホの画面に目を落としたまま身体を硬直させていた。
「金城美雷って、あの金城さんだよね? 私、連絡先なんて教えてないはずだけど……」
「俺もだよ! つーか話したことすらねぇ。どういうことだ?」
「さぁ? 分かんないけど、なんか怪しいよねぇ。本人じゃないっぽいっていうか」
「悪戯ってことか? 確かに≪恋心≫を売るとか、ワケわかんねーよな」
「ファーストクラスの金城さんがこんなことする訳ないし。きっと、誰か暇な人間の仕業ね」
恋奈の推理は、他のクラスメートたちにも納得しうるものだったらしい。皆、続々とスマホから興味を失い、それぞれに朝の談笑を再開する。
そんな中、俺はメールのある文章から目を離せずにいた。
――価格はなんと、ゲロン一括払いで1,000,000円!!!
一〇〇万円。それは、俺が一年間をかけて貯めてきた金額と全く同じであり、奇妙な偶然を感じずにはいられなかった。
3
黄金学園では、生徒同士によるゲロンのやり取りが認められている。
お互いの所持品を売り買いすることはもちろん、一方的にお金を渡したり、あるいは受け取ったりすることもできる。
手順は非常に簡単で、まず≪売り側≫ががま口型の電子端末――入学時、生徒全員に貸与される――を操作し、売り情報を相手の端末に送信する。≪買い側≫は情報の中身を確認し、問題なければ承認を選択。すると≪売り側≫の端末が発光するので、≪買い側≫は自らの端末を接触させ、ゲロゲロリン♪という軽快な電子音が流れて取引は終了。履歴はいつまでも残るので、相手が不正を働けば生徒会に申し立てすることができるようになっている。
取引の内容は実に様々で、過去には優秀な生徒が作ったノートのコピーだったり、料理好きな生徒(もちろん女子)が作ったお弁当だったりが人気を博した。他にも好きな異性の隠し撮りデータや、スリーサイズといったパーソナルな情報なども、密かにやり取りされていたという。
だが――誰かの≪恋心≫が売り出されるというのは、今までに一度も聞いたことがない話だった。
「しっかし、驚いたよなァ。まさかあれが本気だなんてよ」
醤油ラーメンを啜りながら、俊男が大声で話す。昼休みになり、食堂は多くのエコノミー生徒たちで賑わっていた。向かい合わせで座っているとはいえ、声を張らなければかき消されてしまいそうである。
「あぁ……本当に。てっきり誰かの悪戯だと思ったんだけどなぁ」
「みんなそう思ってたに違いないぜ。あの女が本当に現れるまではな」
言いながら、俊男は器に大量のコショウを投下した。恋奈がいたら文句を言って騒ぎ立てているところだろうが、彼女は友達と教室で昼食を摂っている。
俺は二時間目が終わった後、クラスメートから聞いた話を思い出していた。
――金城のあのメール、どうやら本気みたいだぜ。さっき隣のクラスの奴が、直接交渉されたってよ。
その情報に、クラス中が再び大きく沸いた。悪戯だろうと決めつけていた俊男や恋奈もすっかり盛り上がってしまい、金城を探しにいくかという話まで出たほどだった。
だが、結局それは実行されず、興奮冷めやらぬまま昼休みを迎えたというわけである。
「銀河。お前、買ってみる気はねぇのか?」
「え?」
「だってよ、エコノミーで一〇〇万なんて大金持ってる奴、数えるほどしかいないはずだぜ。ライバルは圧倒的に少ないってわけだ」
「それは、そうだけど……」
「お前には指定校推薦って目標はあるけどよ。二〇〇万なら、残りの二年間で貯めれんだろ? それならこの際、勉強以外のことに投資してみてもいいんじゃねぇか?」
「勉強、以外……」
俊男の言葉が胸の内でこだまする。抑圧してきた感情が呼び起こされるような感覚に、手に持っていた箸がするりと抜け落ちる。
そんな時、凛とした声が食堂の喧騒を切り裂いた。
「そこのハゲくん! いやぁ君、良いこと言うねぇ」
立っていたのは、他でもない金城美雷だった。
照明の光を鳶色の瞳いっぱいに湛えながら、こちらにじいっと視線を向けている。
「君が天川銀河くんだね。ちょっとお話したいことがあるから、一緒に来てくれる?」
「……はい?」
「あー、時間は全然取らせないから。あっちのレストランでゆっくりお食事しましょ」
時間を取らせないのにゆっくり? 何言ってるんだこの人???
強烈な引力に顔を向けているだけの俺だったが、腕をがっしり掴まれると、そのまま席から引っ張り出された。
「ハゲくんごめんね、銀河くん借りるから」
そう言い残し、金城は俊男の元から立ち去っていった。腕を掴まれている俺もまた、そのまま退場する形となる。
ややあって、背後から一言、
「俺はハゲじゃねえーっ! これはただの坊主だよっ!!!」
力強い声が聞こえてきて、金城は「面白い友達だね」と笑ったのだった。
4
金城が案内してくれたレストランは、エコノミー御用達の食堂と同じフロア、そのもっとも奥まった場所に位置していた。
まるで高級ホテルの中にある店のような豪奢な外観。内部も期待を裏切らない造りになっていて、ほのかに薄暗い店内を歩いていると、ここが学校であることを忘れてしまいそうだった。
「さて、何食べよっかなぁ。銀河くんも頼んでいいよ、ここはあたしの奢りだから」
「……いえ、そんな」
「気にしなくていいから。それと、あたしに向かって敬語は禁止ね。堅苦しいの、嫌いだから」
「は、はい。分かりまし……分かった」
「それでよし。はい、メニューあげる」
手渡されたメニューに視線を落とすと、驚きのあまり静止してしまった。
どの料理も、先程までいた食堂の数倍から数十倍の値段が記載されている。何しろ、ただのコーヒー一杯すら一〇〇〇ガロンなのだ。あんな泥水のような液体に、一体どれほどの価値があるというのか。
「すみませ……じゃなかった、ごめん。俺はもうお腹一杯で」
「あぁ、そうだよね。それなら飲み物でも頼んだら?」
「あぁ、うん…………じゃあ、オレンジジュースを一つ」
「オッケー。それじゃ、注文するね」
金城はウェイターを呼び寄せると、手慣れた所作で注文を済ませる。その姿はどこぞのご令嬢のようであり、自分とは別世界の人間であると思わずにはいられなかった。
そんな彼女が、エコノミーの人間に≪恋心≫を売ろうとしているなんて――
「あの……金城さん」
「美雷でいいよ。銀河くん」
「あ、えっと……美雷。俺をここに連れてきたのって……例の、≪恋心≫の話?」
「おぉ、察しが良いねぇ。その通り、今日のあたしはセールスマンとして、君に会いに来ました」
そう言って、美雷は胸元に手をあてた。それだけの仕草なのにも拘わらず、その姿は妙に絵になってしまう。
「と言っても、あたしが伝えたいのはただ一つだけ。君が一〇〇万ガロンを支払ってくれたら、あたしは君に恋をしてあげる。それだけ」
「…………それだけ?」
金城はコクリと頷いた。買うつもりなどなかったものの、その反応にはつい色々と聞きたくなってしまう。
「恋をするって、どうやって? き……美雷は、俺のこと何も知らないだろ?」
「そうだねぇ。でも、付き合えば自ずと知っていくことになるじゃない?」
「それは、そうかもしれないけど……。付き合うって、普通好きな人同士が始めることじゃないか。俺のことなんて、好きにならない可能性もあるわけだろ?」
「それはないよ。ちゃんと好きになる」
「だから、どうやって?」
「それは……約束する。そうとしか言えないねぇ、今は」
曖昧に口を濁し、美雷は水の入ったグラスに口をつけた。色白い喉がこくん、こくんと小さく動き、一つ大きく息を吐く。
「……あたしさ。今まで、男の子と付き合ったことってないんだ」
「え……そう、なの?」
「うん。だから恋をするってこと自体、正直言ってよく分かんない。でも、いつかは結婚したいって思ってるし、その時にはそういうのが必要だってことも知ってる。だからあたしは、今のうちに色々と経験してみたい。誰かに≪恋心≫を捧げて、自分がどうなるのか試してみたいんだ」
金城はにっこりと笑った。その笑顔はとても眩しかったが、俺には彼女の言うことが理解できなかった。
≪恋心≫を捧げる相手どうこうではなく、自分自身を試してみたいだなんて――
胸の内に灯った感情は、いつしか強い語気となって口から飛び出ていた。
「だったら、どうして一〇〇万ガロンなんて要求するんだ? 恋愛の練習がしたいなら、美雷に興味を持っている連中に適当に声を掛ければいいじゃないか」
「それだと、真剣みが足りないじゃない」
「……は?」
「一〇〇万を払ってでも、あたしの≪恋心≫を買いたい人――そういう人は絶対にふざけないし、真剣に向き合ってくれるに違いない。そう思ったの」
金城の瞳は強い光を湛えていた。ただでさえ美しい彼女の顔貌と相まって、迫力に飲み込まれそうになる。
だがそれ以上に、彼女に対する怒りの感情が俺を強く突き動かした。
「……ふざけるなよ」
静かに椅子を引いて立ち上がると、鳶色の双眸をじっと見つめる。
「相手に真剣さを要求しながら、自分は『恋心を試してみたい』だって? そんな、人の心を弄ぶような考え方……誰にも受け入れられるはずがない」
「弄ぶだなんて、誤解だよ。あたしはそんなつもりじゃ――」
「だったらどういうつもりだっていうんだ! ……悪いけど、金城の態度は俺にとって傲慢そのものだよ。そんな相手に対して一〇〇万も払えるほど、俺は金持ちでもお人好しでもない」
そう言い残し、俺は金城の元を去った。一度も振り返らなかったが、彼女が追ってくる気配は感じられなかった。
一目惚れで始まった彼女への≪恋心≫は、こうして儚くも終わりを告げたのだった。
5
「ええっ! 金城美雷の≪売り≫を断ったって、ホントかよ!?」
放課後、教室内の清掃をしている最中に、俺は幼馴染二人に対して全てを話していた。
学内で最高級のレストランに連れていかれたこと。そこで直接≪恋心≫を売られたが、買わなかったどころか怒って立ち去ったこと。
俊男はしきりに残念がっていたが、一方で恋奈は俺の決断に賛同してくれていた。
「銀河、ぜんっぜん気にしなくていいと思うよ。あんたは正しい、よくやった」
「なに言ってんだよ恋奈! 学年一の美少女と付き合えるチャンスなんだぞ!? こんな美味しい話、もう二度とないかもしれないっていうのに――」
「俊男、プライドのないあんたならいいかもしれないけどね。恋愛の実験台にされるなんて……普通の人間ならそんな屈辱、耐えられるわけないじゃない」
恋奈は珍しく気を立てていた。こんなに怒っていると感じるのは、一年の頃に俊男が練りからしを詰めたハンバーグを口にしてしまい、あまりの辛さに泣いてしまった時以来である。
「ケッ。例えそうだとしても、金城が良い女だってのには変わりねぇよ。恋奈、もしかして嫉妬してんのか?」
「してないわよ! 俊男のクセに生意気なこと言って」
「なんだよっ」
「なによっ!」
両者、朝と同じように火花を散らせ始める。
だが、俺が割って入ろうとしたタイミングで、予期せぬ闖入者が目の前に現れていた。
「やぁ、随分と狭い教室だねぇ。ここで五〇人も生活しているなんて、これじゃまるで刑務所だ」
いかにもファーストクラス、といった風体の男だった。それは単に臙脂色のブレザーを身に着けているというだけではない。
女性を思わせるような美しい顔貌に、首の中ほどまで伸びたサラサラの黒髪。足元にはいかにも高そうな黒革のローファー、そして右手には同素材のビジネスバッグ。
そして何より、顎を上げて周囲を見下すようなその態度が、男の学内での地位の高さを物語っているようだった。
「やれやれ、エコノミーたちは自分の教室を掃除するのか。貧乏ってのは辛いねぇ」
「……お前、瀬場だな? ファーストクラスのいけ好かない野郎だって、聞いたことがあるぜ」
「ほう、僕の名前を知っているのか。その評判は気に入らないが、とりあえず誉めてやろう……ハゲくん」
「だからハゲじゃねぇって! これは坊主っていう髪形なの!」
俊男の地団太を踏むような反応を華麗にスルーし、男は俺に対して切れ長の瞳を向けてきた。
「やぁ、君が天川銀河だね。僕は瀬場京介」
「……あぁ、よろし――」
「しかし、名前を聞いてどんな男かと思えば、凡庸そのものじゃないか。美雷嬢は相変わらず男を見る目がないな」
大袈裟に肩をすくめながら、瀬場は溜息を吐いてみせた。なるほど、『いけ好かない野郎』という評判はその通りらしい。
だが、コンプレックスを指摘された俺以上に、隣に立つ小さな幼馴染が感情を爆発させていた。
「何よあんた、いきなり現れて失礼じゃない!」
「……おや、これは失礼。君の身長が低すぎて、今この瞬間まで視界に入っていなかったよ」
「…………な、ん、だっ、てぇぇぇぇえええええええ!!!???」
バレー部の脚力を生かして飛び出そうとする恋奈を、俊男が寸でのところで抑え込む。
「俊男、どうしてあんたが止めるのよっ。離しなさいって!」
「嫌だね。だってお前、アイツの顔殴る気だろ。そうなったら停学だぞ?」
腕を振り回す恋奈に対し、それを必死で宥めようとする俊男。
そんな二人のやり取りをよそに、瀬場はいつしか真剣な表情を浮かべていた。
「さて、本題に入ろう。君には是非とも、美雷嬢のことを諦めてもらいたい」
「……はい?」
「彼女はおよそ完璧な存在だ。勉強もスポーツも、学生に求められる全ての要素において敵う者はいない。よって、僕は彼女を妻に娶ることに決めた。だから君のような凡庸な男には、早々に希望を捨てて諦めてもらいたいのだよ」
「……あの」
「なんだい?」
「……俺、もう本人に断り入れてるんですけど」
その瞬間、瀬場の身体は見事なまでに凍り付いた。
それから一〇秒後、ようやく理解が追い付いたらしく、慌てて笑顔の仮面を張りつかせる。
「ふ、ふ……そうか。自分と美雷嬢が釣り合わない存在であると判断し、早々に身を引いたということか。エコノミーにしては賢い判断じゃないか、褒めてあげよう」
「……あぁ、それでいいです」
正直に全てを話せば、更に面倒くさい絡みが発生するだろう。そう考え、俺はあっさりと白旗を上げることにした。
「さて、これで用件は済んだな。せいぜい掃除に励んでくれたまえ、エコノミーの諸君」
「……うっせバーカ、電柱にぶつかって鼻折れろ」
「うん? 何か聞こえたような」
「なんでもないでーす。さよーなら」
恋奈がブンブン手を振ると、瀬場は何か言いたそうにしていたものの、すぐに身体を翻らせた。
だが次の瞬間、再びその全身が硬直する。
その理由は――
「…………美雷、嬢……?」
瀬場が思いを寄せてやまない人物、金城美雷が目の前に立っていたからだった。
「どうして、こんなところに……。天川には断られたんじゃ……?」
瀬場の発言に対し、金城は何の反応も見せなかった。路傍の石を見るかのような視線を一瞬送った後、その隣を通り過ぎ、俺の前で足を止める。
「天川銀河くん。あたしはあなたにプライドを傷つけられました」
突然の告白。だが、俺に戸惑う時間も与えないままに、彼女はそのほっそりとした人差し指をこちらへ向けてきた。
「よって、ここに宣言します。君があたしのことを好きになるように仕向けて、絶対に≪恋心≫を買わせるということを」
「……………………はい?」
金城が何を言っているのか、その真意が理解できない。
だが、彼女が自信に満ちた笑みを浮かべているのを見て、俺はたった一つの真実を悟っていた。
金城美雷という人間が、とんでもない負けず嫌いなのだということを。
6
地方都市に存在する黄金学園は、都会の人間が羨むほどの広大な敷地を持っている。
南側には正門から続く銀杏並木が連なり、北側にはグラウンドや体育館、プールなどの運動施設。西側には複合商業施設が存在し、生徒たちはガロンを使ってショッピングや映画鑑賞、温泉などを楽しむことができるようになっている。東側には学生寮があり、遠方からの入学生を受け入れる態勢も整えていた。
そして一際目を引くのが、敷地内の中央に位置するピラミッド型の校舎である。
その全面に渡って黄金色を塗りたくられた建築物は、全一〇階構造となっており、生徒たちはクラスによってその居住階を区分けされていた。
最上階は言わずもがなファーストクラス。その下にはSEクラス、Eクラスと続き、講義室や食堂が存在する階を挟んでエコノミークラスという順になっている。
つまり、俺たちの居住階はピラミッドの最下層。通学の際は移動が少ないため便利に思えるが、エレベータを自由に使える資格を与えられていないため、講義室や食堂へ向かうには階段を利用しなくてはならない。これが、日頃から身体を動かしている俊男や恋奈にとってはともかく、運動不足の俺にとっては結構きついのである。
「くそ……これも、指定校推薦の、ためっ……!」
そうして階段を上り下りすること、一年で数千回。
その努力を無にしようとする存在が今、教室前で腕を組んで待っていた。
「来たか……」
あの宣言から、週が明けて最初の月曜日。ここまで何のアプローチもないことに肩透かしを食らっていたが、ようやく仕掛けてきたということだろう。
俊男や恋奈、他のクラスメートたちの視線を受けながら、俺は覚悟を決めて教室の扉をくぐった。
「銀河くんってひどいよねぇ。こんなにあたしを待たせる人、今まで一人もいなかったよ?」
駆け寄ってきた金城に気付くも、俺は歩くスピードを緩めない。
「ちょっと、いきなり無視? ていうかどこ行く気?」
「家だよ。学校終わったら、帰るのが普通だろ」
「はーん、そりゃそうだ。ならあたしも一緒に帰ろ!」
そう言って距離を詰めてくる金城に対し、俺は同じ分の距離を取った。
間違っても、こいつを好きになってはいけない。そうなれば最後、上手いこと言い包められて≪恋心≫を買わされるのがオチだ。
そうならないためには、徹底的に隙を見せない必要がある。
「……難しい顔してるねぇ。もしかして生まれつき?」
「違うわ! 今ちょっと考え事してたから――」
慌てて口を閉ざしたものの、少し遅かったらしい。
金城はぱあっと表情を明るくし、
「なぁんだ、ちゃんと反応してくれるんだね。安心安心」
輝くようなその笑顔に、俺はすっかり目を奪われてしまっていた。
*
銀杏並木を二人並んで歩いていると、あちこちから好奇の視線が突き刺さってきた。
だが、それも無理はない。ファーストクラスとそれ以外の人間のカップル自体、学内で見かけることは全くと言っていいほどないからである。加えて、金城は超が付くほどの有名人。注目されるのは致し方ないというところだった。
「また難しい顔してる。今度は何を考えてるのかな?」
ニコニコ顔を向けてくる金城を、今度は徹底的に無視する。さっきは『少しぐらいは返事をしても構わない』という甘い考えが失敗を招いた。ならば、一言も口を開かなければ同じ轍を踏むことはないはずである。
「ねぇねぇ、鳥のうんちって何で白いんだろうねぇ。心がキレイだからかな?」
「…………」
「あっ、あそこに一〇〇ガロン落ちてる! ……って、残念。ガロンは仮想通貨なのでした~。銀河くん、騙されたからって恥ずかしがることはないよ?」
「…………」
「あー、何だかスタバ行きたいなぁ。久しぶりにベンティアドショットヘーゼルナッツバニラアーモンドキャラメルエキストラホイップキャラメルソースモカソースランバチップチョコレートクリームフラペチーノ飲みたいなぁ」
「…………ッ」
限界だった。
金城のボケなのか天然なのか分からない発言に対し、何のツッコミも入れないということに。
だから、金城が「コンビニ寄っていい?」と聞いてきたとき、俺は恐るべきスピードで首を縦に振っていた。
「いらっしゃいませー」
そこは、正門近くに位置する学内のコンビニだった。放課後限定の営業だが、生徒のアルバイトによって運営されており、その給料はガロンではなく現金で支払われているという。
金城は一分足らずで買い物を済ませると、店舗の横にあるベンチに腰を下ろした。俺が付き合ってやる義理はないのだが、何を言われるか分からないので隣に座っておくことにする。
「はい、銀河くんはこれ」
「……?」
「新発売のイカゴロまんだよ。美味しかったら、今度あたしも買おうと思って」
どうやら実験台にするつもりらしい。≪恋心≫のことといい、こいつと結婚したら一生尻に敷かれそうだ。
「さーて、いただきます」
金城は礼儀正しく手を合わせると、板チョコレートと裂きイカを両手に持った。甘いものを食べたら塩辛いものも食べたくなる、ということなのだろう。とはいえその組み合わせはどうなんだと言いたかったが、会話が発展するのが怖いので何も言えなかった。
代わりに渡されたホカホカの中華まんを、恐る恐る口にする。
「…………不味い」
イカゴロというからにはある程度覚悟していたが、尋常じゃなく臭い。イカの臭いが口から鼻に抜け、嘔吐感をもたらしてくるほどだ。俺は慌ててコンビニに駆け込むと、すぐに水を買って咀嚼物を胃に流し込んだ。
ベンチに帰ってくると、金城が苦笑いを浮かべていて、
「アレ、やっぱり不味かったかぁ。ごめんね、実験台にしちゃったみたいで」
「みたいじゃなくてそのものだろ! くそっ、まだ口の中にイカの香りが――」
そこまで言いかけて、俺は慌てて口を塞いだ。これではまた金城の思う壺ではないか。
だが、当の本人はその反応を喜ぶどころか、むしろ憂いを帯びた表情を浮かべていた。
「……金城?」
またしても、つい口を開いてしまう。
それに対し、金城は恐る恐るといった様子で鳶色の瞳を向けてきた。
「あたしのこと……まだ怒ってる、よね」
その声は、金城のものとは思えないほどに小さく震えていて。
「……あの後、考えてみたの。もし自分が銀河くんの立場で、あたしにあんなこと言われたら……って。そしたら、もう最悪! って思った。どんだけ上から目線なんだよって、思われてもしょうがないよね」
自嘲するような笑みを浮かべながら、金城はベンチから立ち上がった。
「ごめんなさい。銀河くんの気持ちも考えずに、あんなこと言ってしまって……。本当に、無神経だったと思う」
入学式の時に見た、育ちの良さを思わせる見事なお辞儀。それを目の前で見せられ、俺の感情はにわかに揺さぶられていた。
「……金城の気持ちは、分かったよ」
立ち上がり、腰を折っていた金城の肩をポンと叩く。
彼女は少し驚いたような面持ちだったが、徐々に表情を崩していき、最後には爽やかな笑みを見せた。
「ありがとう。銀河くんは優しいね」
金城の美しさに目を奪われながら、俺は少しばかり考えを改めていた。
いくら優秀な人間とは言え、彼女も同じ高校二年生。自分と同じような間違いを犯すこともあるだろうし、その振る舞いが傲慢に映ってしまうこともあるかもしれない。
ならばたった一度の過ちぐらい、素直に許してあげるべきではないだろうか――
そう思い始めた時、金城がまだこちらに視線を向けていることに気付いた。
「実はもう一つ、銀河くんに謝らないといけないことがあるの」
「……何だ?」
嫌な予感がする。手のひらに汗がにじみ出てきたところで、彼女は悪戯がばれた子供のような笑みを浮かべた。
「あたしはさ、別に恋愛がしてみたかった訳じゃないの。自分の≪恋心≫を売ってみようと思ったのは、もっと別の理由」
「…………は?」
思わず口から出た反応は、俺にとって正直なものだった。再び、金城が何を考えているのか分からなくなってしまう。
「なんだよ、それ……。まさか、単なる金目当てだったとか言うんじゃないよな?」
「そんなわけないじゃない。あたし、こう見えて結構お金持ちなんだよ?」
「知ってるわ! あんな高級レストランに通ってるような奴が貧乏な訳ねぇし。でも、だったらどういう理由だっていうんだよ?」
「うん、それなんだけどね……」
そこで言葉を切ると、彼女は少し言いづらそうに、
「一言で言えば、暇つぶし」
「…………はい?」
今、聞き間違えをしたのだろうか。暇つぶしと言ったように聞こえたのだが。
緊張から解放されたせいか、金城はすっかり寛いだ態度を見せていた。
「だってさぁ、最初はここでの生活が楽しいって思ってたけど……結局、あたしが何でも一位になっちゃうじゃない? そしたら何でも手に入っちゃてさ。豪華な教室だろうが、高級な料理だろうが、何でもね。それが一年も続いちゃうと、もう飽きてきちゃって」
あっけらかんと話す彼女に対し、俺は理解が追い付いていなかった。
学校生活が退屈だから、≪恋心≫を売った……? それが、彼女にとって≪暇つぶし≫?
「まさか、俺を試していたのか……? 一〇〇万という大金を積んででも、お前の≪恋心≫を買うかどうか……」
「銀河君に、だけじゃないけどね。自分の≪恋心≫がいくらで売れるのか……興味あったんだぁ。一〇〇万で売れなかったらもっと値段下げようと思ってたけど、こうなっちゃったら仕方ないね。あはは」
「…………」
何が『あはは』だというのか。こっちは全く面白くない。それどころか、恋愛の実験台にされるよりも圧倒的に屈辱である。
「銀河くん? どこ行くの?」
「……帰る」
「待ってよ、あたしも行くから一緒に――」
「ついて来るな! この性格最低クソ女!」
そう言い放ち、俺は脱兎のごとく駆け出した。
案の定、今度は物凄いスピードで追いかけてくる。
「最低はともかく、クソってなによクソって! あたしは鳥のうんちってこと!?」
「何言ってんだよお前ッ! 勝手に自分の話と混同してんじゃねぇ!」
「とにかく訂正してっ。女の子をうんち呼ばわりするなら、銀河くんだって最低ってことになるんだかんね!」
「ふ、ふざけるなぁぁああああああっ!!」
ありったけの声量で叫びながら、俺たちは通学路を駆け抜けていったのだった。
7
金城による猛烈なアプローチは、その後も勢い留まることを知らなかった。
放課後になると教室前に張り込みされているのは当然として、昼休みに手作り弁当を持って来たり(これが意外なほど美味い)、授業の合間にも何かと声を掛けてくるなど、徹底した攻めの姿勢が続いた。
金城は性格最低クソ女だ。他人のことを見下し、傲慢な態度をこれでもかというほどに見せつけてくる。
だが、そんな彼女に振り回されているうち、自分の中に別の感情が生まれ始めていることにも気づいていた。
あんな女を好きになってはいけない。そう思いながらも、いつしか金城と過ごす時間は着実に増えていったのだった――
*
そして、激動の四月を乗り越え、迎えた五月。
初夏の陽気に包まれた街の一角で、俺はある人物がやってくるのを待っていた。
時刻は午前一〇時。休日ということもあり、行き交う人の数は意外なほど多い。
そんな中、駅の方角から駆けてくる人影を見て、俺は思わず息をのんだ。
「ごめーん、服を選んでたら遅くなっちゃって」
白と薄青のストライプ柄が爽やかなワンピース。風に吹かれて揺れる黒髪の上にはストローハットを被っており、同じく夏らしさを演出していた。
そして何より目を引くのは、その下から覗く輝くような笑顔。
「おはよう、銀河くん。今日は一日よろしくねっ」
その待ち人――金城美雷のあまりに完璧なデートファッションに、俺はすっかりドギマギしてしまっていた。
「お、おう。じゃあ……行こうか」
「……あれ、銀河くん。もしかして緊張してる?」
「そそそ、そんな訳ないだろ。別に普通だよ」
「……ふーん。じゃあ、こういうことしてもいい?」
強張っていた左手が、滑らかな手の感触に包まれる。手を握られたと分かった瞬間、俺はそれを思い切り払いのけてしまっていた。
「あっ、銀河くんひどい! せっかく女の子が勇気を出したっていうのに」
「…………仕方ないだろ、こういうの初めてなんだから」
「え、何か言った?」
「何でもねぇよ! それより早く行こうぜ、時間がなくなっちまう」
「……はいはいっ」
緊張でどうにかなってしまいそうな俺に対し、金城はどこまでも余裕の表情を見せていた。
*
一週間前の帰り道、俺と金城は正門近くの学内コンビニに立ち寄っていた。
その日は偶然にも新発売のホットスナックが多く、例によって金城はその全てを購入したのだが、『合計金額が七〇〇ガロンを超えたらくじ引き一回』のキャンペーンが適応され、くじを引くことになったのである。
そして結果は――見事一等賞。遊園地のペア入場券を手に入れた金城は、開口一番にこう言った。
「銀河くん。今週の日曜日、空いてる?」
これが単なるデートの誘いであれば、俺は頑なに断っていただろう。
だが、目の前でくじが当たった光景を見せられ、他に行く相手がいないのだと主張されてしまえば、無下に断ることもできなかった。
こうして俺は、人生初のデートを、遊園地という定番のスポットで迎えることになったのだった――
だが結果的に、俺の見立ては甘かった。
遊園地であれば、普通に乗り物に乗ったり、普通にお化け屋敷で肝を冷やしたり、定番のデートを体験できるものだと思っていた。
それなのに――
「……なに、これ?」
「何って、アイマスクと耳栓だけど」
「俺が言いたいのはそういうことじゃなくて! どうしてこれを手渡してきたのかって聞いてんだよ!」
園内で一番大きいジェットコースターの列に並びながら、俺は緊張も忘れて声を荒げていた。
「あぁ、言ってなかったっけ? 普通に遊園地回ってもつまんないから、≪縛りプレイ≫やろうって」
「≪縛りプレイ≫……?」
「銀河くん知らない? ほら、ゲームでアイテム使うの禁止したり、セーブするの禁止したりするやつ」
「それは知ってるけど……。遊園地で≪縛りプレイ≫ってどういう」
言いながら、俺は金城が何を意図しているかを理解してしまっていた。
彼女もそれを察したらしく、ふふんと形のいい鼻を鳴らす。
「果たして、銀河くんは耐えられるかな……? この遊び、すんごーく怖いらしいよ」
「らしいって、お前……やったことある訳じゃないのか?」
「うん」
「マジかよ……」
思わず天を仰ぎそうになったが、列が前に進んだのを見て、いよいよ決断しなければいけない時が来たことを悟った。
「……仕方ない、やるよ。金城だけにやらせるのも気が引けるしな」
「さすが銀河くん、そう言ってくれると思ってたっ」
そう言って、金城はひしっと身体を触れさせてきた。
「怖かったら、いつでもこうしていいからね?」
「……うるせぇ」
落ち着いたように振る舞いながらも、心臓の鼓動はずっと高く鳴り続けていた。
**
そして、悪夢のジェットコースターから三〇分後――
「ぎゃあああぁぁぁあああああ!!!!!」
暗闇の中、突如として現れた包帯男の姿に絶叫する。
だが、駆け出そうとした足が強い力に引っ張られ、俺の身体はバランスを崩すとそのまま床へと叩きつけられた。
「ぐえっ!!!」
情けない声が口から漏れる。その隣には、アイドルと見紛うほど美しい女の顔があった。
「ちょっと銀河くん、いきなり動き出さないでよ! あたしも一緒に転んじゃったじゃない!」
「いやだって、あいつが驚かすから……」
「あの人は悪くないでしょ。ここはお化け屋敷なんだから」
そう言って、金城はゆっくりと起き上がった。俺もそれに倣いながら、左足に結ばれた白布を忌々しく見つめる。
ジェットコースターで一生分とも思える絶叫を上げた後、俺たちは乗り物ゾーンから離れた位置にあるお化け屋敷に来ていた。ここならアイマスクや耳栓は意味をなさず、普通に楽しめるに違いない――そう、考えていたのだが。
――甘いねぇ、銀河くん。ほら、早く左足出して。今のうちに縛っちゃうから。
運動会の定番競技、二人三脚。それをこのお化け屋敷でやると聞いた時、俺は一つの確信を抱いていた。
この女、頭がどうかしちまっている。
自慢じゃないが、俺はお化け屋敷が得意ではない。そのため、驚いて何度も走り出そうとするのだが、その度に左足を引っ張られてしまい、二人揃ってずっこけるということを繰り返していた。
「まったく、いい加減に慣れてよね。これじゃお洋服が台無しじゃない」
「…………すいません」
平謝りしながら、金城の動きに合わせて進んでいく。相変わらず周囲は暗闇なので、何が飛び出してくるか分からない恐怖で手汗が滲んでいた。
「……金城はお化け屋敷、得意なのか?」
気を紛らわせるための質問だったが、金城は小さく首を傾げた。
「さぁ? だってあたし、今日が初めてだから」
「…………はい?」
「ジェットコースターにしたってそう。遊園地に来ること自体が初めてだから、何が好きとか得意とか、まだよく分かんないよ」
あまりに意外な答えに、俺は返事をすることさえ忘れてしまっていた。
こいつはおそらく、良いところのお嬢さまだ。そうでなければ、あの見事なお辞儀や品の良い所作はあり得ない。
それなのに遊園地に一度も行ったことがないというのは、一体どういうことだろうか。
「銀河くん、足止まってる」
「……あ、悪い」
両足を交互に動かしながら、金城の横顔を見つめる。
こいつは、これまでどんな人生を送ってきたのだろう。どんな家庭で育ち、どんな友人たちと出会い、どんな過程を経て黄金学園へと進学してきたのだろう。
そんなことが、俺は知りたくて仕方がなくなっていた。
***
園内に夕日が差し込み始めた頃、俺はベンチに身体を預けるようにして座っていた。
「銀河くん、お疲れさま。――はいっ」
「…………サンキュ」
金城からペットボトルを受け取ると、喉を鳴らすようにして勢いよく飲み下す。
せっかく遊園地に来たからには、全部のアトラクションを体験したい――そう意気込む金城に対し、俺は反対する言葉を持たなかった。彼女の輝くような笑顔を隣で見ているのは悪くなかったし、初めての遊園地を心行くまで楽しんでほしいという思いもあった。
そして――結果がどうであったかは、その表情を見れば明らかだった。
「今日は本当にありがとう。銀河くんのおかげで、楽しい時間を過ごせました」
「……やけに素直だなぁ。傲慢さが持ち味の金城らしくもない」
「なら取り消す? 飲み物も返してもらおっかな~」
得意の悪戯っぽい笑み。俺が慌ててペットボトルを引っ込めると、彼女は「じょーだん」と手のひらを振った。
「初めての遊園地が、銀河くんと一緒で良かった。この世にこんな楽しい場所があるだなんて、あたし……知らなかったよ」
夕陽に照らされ、その笑顔は黄金色に輝く。
こいつは俺に≪恋心≫を買わせたいだけだ、決して本心じゃない――そう思いながらも、俺は吸い込まれるようにして彼女の表情を見つめ続けていた。
金城のことを、もっと深く知りたい。
その素直な想いが、重く閉ざされていた心の扉を開かせようとしていた。
「あのさ、金城。笑わないで聞いてくれ」
「うん?」
「……その、良かったら……俺と友達になってくれないか?」
「…………えっ?」
鳶色の瞳が大きく見開かれる。その反応に決意が揺らぎかけるも、俺は続く言葉を絞り出した。
「お前が俺に≪恋心≫を売ろうとしているのは分かってる。でも、俺は……お前ともっと対等な関係でいたい。お金のやり取りなんか無しに、純粋に……お前のことがもっと知りたいんだ」
もしかすると、あっさりフラれるかもしれない。だが、今日のデートで見せてくれた輝くような表情の全てが嘘だとは、俺にはとても思えなかった。
金城は顔を伏せたまま、こちらを見ようとはせず、
「それが……銀河くんの答え?」
「……あぁ、そうだ」
二人の間に沈黙が訪れる。
やがて、思い切ったように顔を上げた後、彼女はゆっくりとベンチから立ち上がった。
「だったら、このゲームはここで終わり。今日までありがとう、天川銀河くん」
「……え」
俺の反応をよそに、金城はあっさりと背中を向けた。声を掛ける間もなく、ずんずん人ごみの中へと進んでいく。
その姿が見えなくなりかけた時、俺はようやく立ち上がっていた。慌てて駆け出しながら、「待てよ!」と声を張り上げる。
「どうして……今日はあんなに、楽しそうだったじゃないか! それなのに、どうしてゲームだなんて言うんだよ……。どうして、≪恋心≫を売ることに拘るんだよッ!」
その言葉に、金城はピタリと足を止めた。
だが――振り向きざまに見えたその表情は、先刻までと明らかに異なっていた。
「……楽しくないよ」
周囲の喧騒にかき消されそうな声が、わずかに俺の耳に届く。
そして金城は、鳶色の双眸をこちらに向けたまま、はっきりとその言葉を口にしたのだった。
「だってあたし、銀河くんのこと……別に好きじゃないから」
再び遠ざかっていく背中を見つめながら、俺は茫然とその場に立ち尽くし続けていた。
8
翌週は、雨が降り続いていた。
テレビの中では、初々しい女性キャスターが今後のお天気情報について伝えている。
『今週は、全国的に雨模様が続くでしょう。お出かけの際は傘をお忘れのないように――』
その透き通るような声に耳を傾けたまま、俺は自室のベッドに横になっていた。時刻は午後四時を回り、いつもなら図書室で自習している頃である。
だが俺は、もう二日も学校に行っていなかった。
両親には体調不良を主張し、さほど苦も無く仮病を獲得していたが、明日もとなれば顔色が変わってくるだろう。
いつまでも引きずっているわけにはいかない。たった一度、女にフラれたぐらいでこうなってしまうなんて、心が弱いにもほどがある。
しかし――
だってあたし、銀河くんのこと……別に好きじゃないから。
「……ッ」
どうしても、思い出してしまう。あの時、金城が口にした言葉を。彼女が浮かべていた、虚無を見つめているかのような表情を。
金城は今頃、どうしているのだろう。遊びを本気にしてしまった俺を、馬鹿な奴だと笑っているのだろうか。あるいは、新たな相手を探すのに忙しく、既に俺のことなど忘れているのかもしれない。
いずれにせよ、金城美雷という人間にとって、俺はもう不要な存在なのだ……。
そう思い至った時、不意に部屋の扉をノックする音が聞こえた。
「お兄ちゃん、お客さん。恋奈ちゃんだよ」
「……は? 恋奈?」
俺が返事するのも待たず、妹は扉を開けて入ってきた。
その背後から、ショートカットの見慣れた顔が勢いよく飛び出す。
「よっす、銀河。元気にしてた?」
「……恋奈!? な、なんだよ、急にいきなり」
しどろもどろな返事に対し、恋奈は小さくため息をついた。
「『急に』と『いきなり』は同じ意味でしょ。幼馴染相手にテンパってどうするの」
「そ、そりゃ……恋奈が悪いんだろ? 家に来るなんて、相当久しぶりだし……」
「あぁ、そうかもね。もしかして小学校以来かな?」
言いながら、恋奈は部屋の中をぐるりと見回した。いつの間にか妹は消え、扉はきっちりと閉められている。
「ところでさぁ……銀河。学校、サボったでしょ」
不意にズバリと飛んでくる声。俺が言葉に詰まっていると、恋奈は「やっぱりね」とため息を吐いた。
「一体どうしたっていうのよ。高校入ってからは貰えるガロンが減るからって、熱出した時も授業全部受けてたじゃない」
「それは、そうなんだけどさ……」
恋奈の言う通り、俺は高校に入ってから一日たりとも学校を休んだことはなかった。何しろ出席日数は≪仮想給与≫に影響し、ひいては指定校推薦の可否にも影響するのだ。例えどんなに体調が悪くとも、病欠など考えたこともない。
それなのに、今回はどうして休んだのか――上手い言い訳を思いつけずにいると、恋奈は再び口を開いた。
「ひょっとして、金城さんにフラれでもした?」
本人は冗談のつもりだったのだろう。しかし俺の反応を見るや、彼女の顔色は見る見るうちに変わっていき、
「……ほ、ホントに?」
「…………」
「……そ、そうなんだ」
「…………」
「…………」
見慣れた部屋の中に重苦しい沈黙が立ち込める。
恋奈はかなり気まずさを感じているようだったが、一方で俺の心中は少し違った。
これをきっかけに、ため込んできた感情を全て吐き出してしまいたい――そういう欲求が胸の内に湧き上がっていたのだった。
しかし、そこには躊躇いの気持ちもある。単純に勇気が出ないということもあるし、恋愛の話を他人にするということに対し恥ずかしいという思いもあった。
そうして、心中で葛藤し続けること数十秒。
先に口を開いたのは、気まずそうに顔を俯けていた恋奈だった。
「……銀河はさ、変わったよね」
その言葉に顔を上げると、微笑みが良く似合った顔と目が合う。
「……金城さんと出会ってから、銀河は明るくなった。一年の頃はずっと何事にも興味がないって感じだったのに、最近はすごく生き生きしてるっていうかさ」
「……そう、なのか?」
「そうだよ。それに、すごく行動的にもなった。だってフラれたってことは、自分の気持ちを伝えたってことでしょ?」
「それは……まぁ……」
「すごいよねぇ。私なんて、誰かに告白しようと思ったことすらないよ」
そう言って、恋奈は少し照れ臭そうに笑った。褒められているのかよく分からなかったが、取りあえず黙って受け取っておくことにする。
「それでさぁ、銀河。あんたはこれで諦めるつもりなの?」
「……えっ?」
「金城さんのこと、今でも好きなんでしょ? そうじゃなきゃ、落ち込んで学校サボったりしないもんね」
その通りだった。だが、あまりに核心を突く言葉に、俺は再び押し黙ることしかできない。
「フラれて落ち込むのは分かるけど、チャンスは一度きりじゃないと思うよ。私が金城さんだったら、告白は何回されても嬉しいと思うし」
「……それは、相手が好きな奴だったらの話だろ。俺は金城に『好きじゃない』ってはっきり言われたんだぞ?」
「そうなの? でも、嫌いって言われたわけじゃないんでしょ?」
「同じだよ。言葉のニュアンスが違うだけで」
「そうかなぁ。本当に嫌いだったら、もっとはっきり拒絶すると思うけどなぁ」
恋奈の言葉に少し心が揺らぐも、気を遣われているだけだと思い直す。
「いいんだよ、あいつは結局高嶺の花だったんだ。俺なんて眼中になかったんだよ」
ほとんど投げやりに言い放つと、恋奈は少し間を置いたのち「そう」とだけ返した。
それから、その小さな口がゆっくりと開き、
「……だったら、なおさら挑戦するべきじゃない」
気付けば、彼女の瞳はこちらを射るように見つめていた。
「金城さんは勉強もスポーツも断トツで、おまけに超がつくほどの美人さん。そんな高嶺の花を一度で落とせるほど、銀河、あんたはいい男だっていうの?」
「……なんだよ、それ。俺が自惚れてるって言いたいのか?」
「そこまでは言ってないよ。でも、自分が高嶺の花だと認めてる相手だったら、そう簡単に上手くいかなくて当たり前じゃない?」
恋奈の言葉は正論だった。だが、それをそのまま受け入れることができるほど、俺は決して大人ではない。
「……お前には分からないよ。誰にも告白したことがないような人間には」
恋奈が気遣ってくれているのは分かっている。それでも、そんな言葉しか返すことのできない自分が嫌になってくる。
もういっそ、金城のことなど忘れてしまいたい――
そんなことを本気で思い始めたとき、恋奈が目の前に近づいてくるのが見えた。
そして、その小さな右拳が高々と振り上げられ――
ごちーん、という衝撃が脳天を襲った瞬間、俺は反射的に「痛えっ!」と大声を上げていた。
「何すんだよっ!」
叫ぶようにして抗議すると、恋奈は悪びれた様子もなく言った。
「だってムカつくんだもん。いつまでもウジウジしてるし。私のこと馬鹿にするし」
「……はぁ?」
「悔しかったら見返してみなさいよ。まぁ、あんたみたいな男には無理かもしれないけどね」
そう言って、恋奈は肩をすくめた。こちらを馬鹿にするような態度に腹が立つも、そうじゃないだろうと内心で首を振る。
恋奈は身体を張って精一杯のエールを送ってくれたのだ。それすら理解できないというのなら、俺はもう幼馴染失格である。
「……恋奈」
「うん?」
「……俺だってさ、本当は諦めたくない。せっかく勇気を振り絞って告白したのに、こんな結末は嫌だって思ってる。でも……怖いんだよ。またフラれるかもって思ったら、傷口に塩を塗られるような思いがするっていうか」
そんな俺の弱音に対し、恋奈はあっけらかんと笑った。
「大丈夫だって。例えこっぴどく振られたって、人間死ぬわけじゃないし」
「そりゃそうかもしれないけどさ! ……いや、そうか」
確かに、別に死ぬって訳じゃない。そう考えると、不思議と心が軽くなる気がした。
「安心しなよ。骨は拾ってあげるからさ」
「……それ、やっぱり死ぬって意味じゃね?」
「そうだっけ? ごめんごめん」
明るく笑う恋奈の姿を見て、落ち込んでいた気持ちが少しずつ晴れやかになるのを感じていた。
「……ありがとう、恋奈」
ぼそりと照れ隠しに小さく呟きながら、俺は密かに決意を固めたのだった。
9
六月に入り、じめじめとした暑さが肌に纏わりつくような季節になっていた。
エコノミーの人間たちが居住する下層フロアには冷房が設置されていないため、自分の席に座っているだけでも汗が噴き出てくる。
そんな仲間たちをよそに、俺は冷房の効いたエレベータの中にいた。鉄の箱は音もなく上昇を続け、ほとんど揺れも感じさせずに目的の階へと到達する。
扉が開くと、そこには高級ホテルと見紛うような豪華な風景が広がっていた。
床には臙脂色の絨毯が敷き詰められ、壁や天井にはアンティーク調の電飾。エレベータホールは驚くほどに広く、天井はどこまでも高い。
俺は一つ深呼吸すると、意を決して未知の領域へ踏み込んだ。
目指すのは、エレベータから真っ直ぐ伸びた廊下の先にある、一枚の扉。
フカフカの感触を踏みしめながら、一歩、また一歩と近づいていく。
そして扉まで到達すると、俺は迷いを振り払うようにして勢いよく押し開いた。
眩い光に目を細めながらも、徐々に見えてきた教室の景色に目を走らせ――
最前列の席に金城の姿を見つけた時、彼女もまたこちらを振り返っていた。
他の生徒たちも軒並み俺を注目し、訝しむような、あるいは値踏みするような視線を向けてくる。
その中で一人、俺にとって見知った人物がツカツカと歩み寄ってきた。
「やぁ、どこかで見た顔だと思ったら、いつぞやのエコノミー君じゃないか」
ファーストクラスの『いけ好かない野郎』、瀬場京介だった。四月の初め、わざわざエコノミークラスにやってきて「金城のことを諦めてほしい」と迫ってきたのを覚えている。
「一体どういうつもりだい? いくら君が凡庸な頭脳の持ち主だとしても、許可なくこのフロアに忍び込んじゃいけないことぐらい分かるだろう。そもそもどうやって侵入した? 事と次第によっちゃ、教職員に報告――」
「許可ならある。俺は今日から、ファーストクラスの一員なんだから」
そう言って、俺は瀬場に向かって電子学生証を掲げてみせた。その表面には、ファーストクラス所属を示すFの文字がはっきりと刻まれている。
「ど、どういうことだ……? 君のような凡庸な学生が、このフロアに到達できるはずが……」
「確かに、俺には学年五位に入るような実力はない。でもな……例えどのクラスであろうとも、金さえ払えば入れるだろ?」
「……まさか、山田の奴より金を積んだのか?」
「そういうことだ。競り合うと面倒だから、事前に話はつけたけどな」
そう言って、俺は少し得意げな笑みを見せる。
黄金学園では、自分が所属するクラスを選択することができる。ただし、上位のクラスになるほど必要なガロンが高くなり、結局は月末テストの学年順位が高い者――つまり『高給取り』がその地位を占めるという構図になっている。
だが、コツコツと稼いだガロンを貯め、ごく短い期間のみ在籍するという条件付きであれば、誰もが上位クラスに所属することが出来る可能性があるのだ。
もっとも、競争になった場合は成績の良い方が優先されるため、事前に話をするなどして折り合いをつける必要はあるのだが。
ちなみに山田というのは学年五位の常連で、地位よりも金に目のない男だった。
「……山田に賄賂を渡したのか。そうでなければ、あいつがこの地位を譲る訳がない」
「別に悪いことじゃないだろ? この学校ではガロンについてあらゆることが許される」
「……そうだな。確かに、悪いことじゃあ無い」
そう言って、瀬場はクックッと笑い出した。その声は次第に大きくなっていき、耳障りな音量となって俺の鼓膜を震わせる。
「どうやら、僕は君のことを誤解していたようだ。凡庸でありながらも、少ない収入をセコセコと積み重ねる、身の丈に合った考え方ができる男だと思っていた。だが、そんな一時の優越感のために貯金を全て使い果たすほど愚かな男だったなんてね」
「……なんとでも言えよ。俺は、金城に用があってここに来たんだ」
醜悪な笑みを浮かべる瀬場を無視し、俺は金城の元へと歩み寄った。彼女は革張りのチェアに腰かけたまま、こちらをじっと見つめている。
にわかに湧き上がってきた緊張を振り払おうと、俺は努めて明るい声を出した。
「よう、金城。久しぶり」
「……銀河くん、さっきの話は本当なの? 貯金を全部使っちゃったって」
「あぁ」
「どうして? 君には指定校推薦っていう大切な目標があったはずでしょ? それなのに――」
遮るように首を振ると、俺は正直な思いを吐露した。
「俺にとってはさ……金城と一緒にいられることの方が、ずっと重要だったんだ」
鳶色の瞳が見開かれる。そんな彼女の反応に対して、俺は畳み掛けるように続けた。
「俺の気持ちはあのときから変わらない。この教室にいられる一か月間で、お、お前に俺のことを好きにさせてみせる!」
震える声を誤魔化すようにして叫ぶ。それにいち早く反応したのは、無関係なはずの瀬場だった。
「おいおい、随分勝手な真似をしてくれるじゃないか……。前にお願いしたよね、美雷嬢のことは諦めてほしいって。それを今になって覆してくるとは、いったいどういう了見なのかな」
「べ、別に、お前の許可は必要ないだろ。俺は金城と話しているんだから」
「それが思い上がりだって言ってんだよ! 君のような凡庸な存在では、美雷嬢とは決して釣り合わない。潔く身を引いて、同じエコノミーにいたおチビちゃんと恋愛ごっこでもしてるがいいさ」
「……なんだって?」
あからさまな挑発に、俺は思わず瀬場を睨み付けてしまう。
だが、事が発展するよりも早く、金城はおもむろに口を開いた。
「銀河くん、君の言いたいことはわかった」
鳶色の双眸がまっすぐにこちらへと向けられる。
「でも……無駄だよ。あたしはもう、君のことなんかこれっぽっちも興味ないんだから」
はっきりとした口調。そして、はっきりとした言葉。
誰にでも分かる明確な拒絶に対し、瀬場は大げさなくらいの笑い声を上げた。
「ハッハッハッ、これは愉快だねぇ。どうだい君、皆の前で『公開失恋』した感想は?」
「…………別に、どうってことない」
「強がらなくてもいいじゃないか。なんなら僕が、心の見舞金を出してやろうか?」
安い挑発に感情が爆発しそうになる。だが、それを寸前のところで堪え、俺はすっかり興味を失った様子の金城に向き直った。
「……何をどう言われようと、俺は簡単に諦めたりしないよ。どうしても嫌だって言うなら……俺のこと、『嫌い』だって言えばいい」
その言葉に、再び金城の顔が持ち上がる。だが、そこには俺を拒絶しようという強い意志は感じられなかった。
口を開こうとはするものの、たった三文字の言葉は最後まで出て来ず――
「……よかった。とりあえず一か月間よろしくな、金城」
俺が胸をなでおろす一方で、金城は最後まで口を閉ざし続けたのだった。
10
そして、一週間後。
俺は放課後になると、急いで教室を飛び出し、校舎の入り口近くで張り込みを開始した。
たくさんの生徒たちが行き交う中、一際輝くような容姿を持つ彼女が現れるのをじっと待つ。
話し掛けた後どうするのか。そもそもどうやって話しかけるのか。そんなプランすら持たないまま、俺は今いる場所に立っていた。
なぜなら――端的に言って、俺は焦りを感じていたからである。
「……金城の奴、すぐに出てきてくれるかな」
金で買ったファーストクラスの地位にいられるのは一か月。
その一か月で、金城に「お前に俺のことを好きにさせてみせる」と息巻いたものの、ここまで全くと言っていいほど成果は上がっていなかった。
このままでは、口先だけの男になり下がるばかりか、二度と金城と仲良くなるチャンスは得られないだろう。
そう考え、俺は眠い目を擦りながら、決死の覚悟で彼女が現れるのを待っていた。
そして――
「……来たっ!」
金城がプリーツスカートを揺らしながら歩いてくる。だが、その隣にはいけ好かない野郎が纏わりついていて、俺は咄嗟に駆け出そうとした足を止めた。
「……くそっ。瀬場の奴、相手にされてないってのに」
止まらない独り言を呟きながら、俺は静かに彼女らの後を尾けていった。
銀杏並木を通り、正門を抜けて右へ。瀬場は左の駅へ向かうはずだが、ついて行こうとして頭に拳骨を食らう。
「……ふん。ざまぁみろってんだ」
そうして粘着男を引き剥がすと、金城はその先を真っ直ぐに進んでいった。俺はチャンスとばかりに距離を詰め、話し掛けるチャンスを窺う。
だが、ここからどのタイミングで接触したとしても、不審がられるのは明らかだった。
――まずいな。今日のところは引き下がって、明日またトライしてみるか……?
そう考えながら歩を進めていると、金城は住宅街の途中で不意に足を止めた。黒い金属でかたどられた立派な門をくぐり抜け、その先にある豪奢な屋敷へと進んでいく。
「……まさか、これが金城の家?」
一言で形容するなら、とにかくデカかった。青い屋根に白い壁、所々に橙色のレンガ模様が施されており、張り出しから伸びた立派な柱が地面へと続いている。その手前に広がる庭にはガーデニングが施されており、多種多様な花々が色とりどりに咲き乱れていた。
その威容に、俺は思わず唾を飲み込んでしまう。
――金城の奴、本当に住む世界が違う人間だったのか……。
そのことを実感しながら、そういえば、と思い出す。この街には『金城病院』という個人経営の病院があり、自分が何度かお世話になっていたということを。
もしかすると、金城は院長先生の娘なのかもしれない。
だとすれば、彼女が俺のような凡庸な男をパートナーとして選ぶ可能性は、一体どれくらいあるのだろうか。
「………………帰るか」
もはや、ここにいて何ができる訳でもない。暗い気持ちに浸りながら、俺はとぼとぼと来た道を引き返そうとしたのだが――
「あれ。もしかして、姉のお客さんですか?」
聞き慣れない声に顔を上げると、そこには見慣れない男の顔があった。
「あぁ、これは失礼しました。僕は金城守。金城美雷は僕の姉です」
「え……お、弟さん?」
俺が驚き身を竦ませていると、守くんは鳶色の瞳をきょとんとさせながら、
「こんなところで立ち話もなんです。すぐに姉を呼んできますから、居間で少し待っていてください」
「え? いや、俺は……」
今さらこの場所にいた理由を言い繕うこともできず、俺は弟くんの後をついて行くしかなかったのだった。
*
「で、どうして銀河くんがここにいるわけ?」
金城の怒ったような口調に、俺は座布団の上に正座したまま答える。
「そ、それはその……成り行きで」
守くんと出会ってから一〇分後。俺は金城邸へ足を踏み入れ、すぐに呼び出された金城と対面していた。もちろん彼女は不機嫌顔で、俺は急な展開に何といえばいいのか分からず。とにかくここにいてもしょうがないからと、わざわざ自室に上げてくれたのは良かったのだが――
「ふぅん、成り行きね。君は偶然ウチの前までやってきて、偶然守に声を掛けられたと。そう言いたいんだ?」
「そ、それはその……全てが偶然ではないというか……」
「あたしの後をつけてきたの? それとも住所を調べ上げた?」
「…………前者です」
膝を震わせながら答えると、金城は深くため息を吐いた。
「足、崩していいよ」
「…………かたじけない」
なぜか武士風の受け答えが口をついて出るも、金城は決して表情を崩さなかった。
「ちょっと待ってて。何か飲み物持ってくるから」
そう言って、彼女は部屋を出ていった。俺もまた深く息を吐きながら、改めて部屋の中を見回してみる。
想像よりもずっと質素な部屋だった。広さこそ一〇畳ほどはありそうだが、勉強机にローテーブル、シングルベッドが置かれている以外には何も無い。カーペットやカーテンも無地の灰色だし、年頃の少女の部屋とはとても思えなかった。
金城の趣味なのか、それとも他に何か理由があるのだろうか。
そんなことを考えていると、金城がお盆にグラスを載せて戻ってきた。
「はい、ウーロン茶。銀河くん、お茶の中では一番好きだったよね?」
「……あぁ。ありがとう」
覚えていてくれたのか。そんな小さな驚きに感動するも、自らの発言を後悔したのか、その後の金城の対応は冷たかった。
「何をしに来たのか知らないけど、それ飲んだら帰って。あたしも暇じゃないんだから」
「…………分かった」
ウーロン茶の入ったグラスをぐいっと傾ける。冷たさが身体に染み渡り、俺は自然と息を吐き出してしまう。
「なぁ、金城」
「なに?」
「お前さ……本当に、俺には全く興味がないのか?」
鳶色の瞳をじっと覗き込む。宝石みたいにきらきらと輝くそれは、ほんの少し揺れているように見えた。
「……前にも言ったはずでしょ。何回も聞かないで」
「確かにそうだな。でも、それはあくまで前の話だろ? 俺だって、出会った当初は金城のこと、はっきり言って好きじゃなかった」
言いながら、俺は当時の記憶を思い返す。
恋心を買わないかと持ち掛けられた時、俺は自分でも驚くほど激昂した。それからもしつこく付きまとわれたが、こいつのことを絶対に好きになってはいけないと心に強く念じた。
しかし――いつの間にか、俺は金城に恋心を奪われてしまっていた。
そして今、金城のことが好きだという純粋な気持ちに突き動かされるまま、こうしてここにいる。
「……だからさ、金城の気持ちだっていつかは変わるかもしれない。そう思ったら、簡単には諦められないんだよ」
気恥ずかしさを押し殺しながら、ニッと口の端を持ち上げてみる。だが金城はそれにつられるどころか、こちらを見ようともしていなかった。
「……馬鹿みたい」
だから、ぼそりと呟いたその言葉が、金城のものとも分からなくて。
「こんな女のどこがいいって言うの。自分勝手で、傲慢で」
「……確かにな。でもその分、すごく自由だと思う」
「え?」
金城が顔を上げる。俺は鳶色の瞳を見つめながら、
「最初は正直、嫌な奴だって思った。でも、お前に好き勝手振り回されているうちに、こっちも段々楽しくなってきたっていうかさ。自由なお前の傍にいるのが、いつの間にかすごく居心地良くなってたんだ」
「あたしが、自由……」
「あぁ。金城ってさ、自分のコンプレックスとか周りの目とか、そういうのに縛られない所あるだろ。俺はきっと、そういう所に憧れたんだと思う」
金城にフラれてしまった後、密かに胸の内で整理していた想い。それを余すところなく口にすると、俺は静かに返事が来るのを待った。
だが――金城の反応は、俺が想像したものと大きく違っていた。
「……やっぱり、何も分かってないんだね」
低い声で呟くと、鳶色の瞳を伏せたまま、その場にゆっくりと立ち上がる。
「もう帰って。君はそもそも、招かれざる客なんだから」
飲みかけのグラスが乱暴に片付けられていく。俺は流石に納得がいかず、気付けば声を張り上げてしまっていた。
「何も分かってないってどういうことだよ。俺がお前の気持ちを理解してないっていうことか?」
「……関係ないでしょ、もう」
「関係あるに決まってるだろ! 俺は自分なりに、お前のことを真剣に――」
そこまで言いかけ、俺は口を閉ざしていた。
なぜなら――金城の表情が一瞬、悲しげに歪められていたから。
「……もういいでしょ、早く帰って!」
叫ぶように主張する彼女の言葉に、俺は黙って従うことしかできなかった。
11
金城美雷という人間は、自由奔放を絵に描いた存在だと思っていた。
生徒会長選挙に立候補して当選し、三役を決めた後にすぐ解散したり。授業中に早弁してもバレないか挑戦し、三日目でカレーを持ってきたのが災いして速攻で叱られたり。学生寮の裏手で勝手にキャンプを始め、不審者がいると警察に通報されて大問題になったり。
そんな学内でも有名なトラブルメーカーは、俺に対しても手綱を緩めることはなかった。≪恋心≫を強引に売りつけようとしてきたり、遊園地で縛りプレイを強要してきたり。その大胆な行動は俺にとって真似できないことであり、自由と呼ぶに相応しいものだった。
だが――本人にとって、事情は全く違ったのだろうか。
――やっぱり、何も分かってないんだね。
あの言葉の裏には、一体何が隠されているのだろうか。俺の知り得ない何かを、金城は一人きりで抱えているのだろうか。
そして――彼女は今も、そのことに苦しみ続けているのだろうか。
どれだけ考えても、答えは出なかった。かと言って、そのことについて直接問い質すことができるほど、俺たちは親密な関係にはない。
自分がどう行動すべきかを決められないまま、俺は暗い思考の海を彷徨い続けた。
*
翌週。
俺は図書室で遅くまで自習した後、正門前である人物がやってくるのを待っていた。
眠い目を擦りながら参考書に目を通していると、暗がりの向こうから数人の集団が歩いてくるのが見える。
そのうちの一人がこちらに気付いたのか、エナメルバッグを揺らしながら駆け寄ってきて、
「おい銀河、何でこんなところにいるんだよ。もう七時だぞ?」
「お前を待ってたんだよ、俊男」
「は、俺?」
物心ついた頃からの幼なじみの一人――俊男は、今日も練習用のユニフォームに身を包んでいた。夏の大会が近くなり、練習にも熱が入っているんだろう。
泥だらけの胸元や膝を見て、俺は内心で労いの言葉を掛けながら、
「疲れてるところ悪いんだけど、話があるんだ。帰り道でいいから、一緒に帰らないか?」
「……いいけど、お前がそんなこと言うなんて珍しいなァ。もしかして、また金城美雷にフラれたか?」
「……そんなとこだよ。恋奈でも良かったんだけど、今日はお前に相談してみたくて」
気恥ずかしさに頭をかいていると、俊男は「しゃーねーな」と言いながら、足を止めたままの仲間たちの所へダッシュで戻っていく。
そして一〇秒後、俊男は彼らに手を振りながらこちらに戻ってきた。
「さっ、聞かせてもらおうか。銀河と金城の大恋愛ストーリーをよ」
「何だそれ……無駄にハードル上げるなって」
「そうか? わりぃわりぃ」
ハッハッと豪快に笑う俊男の姿に、俺は一抹の不安を感じずにはいられなかった。
**
「ふーん……何もわかってない、ねぇ」
自宅までの帰り道、俺はあの日起こったことを全て話していた。
俊男は、金城の後をつけてしまったことに対し「ストーカーじゃんお前」、彼女の部屋に上げてもらったことについて「何だよそれずるいな良い匂いしたか?」などと好き勝手反応していたが、最終的に部屋を追い出されてしまった話については首を傾げていた。
「うーん、金城が自由ってのは的を射てると思うけどな。あいつがそうじゃないなら、真面目に学校通ってる奴はみんな奴隷みたいなもんだろ」
「……ひどい表現だな」
「だってよ、俺なんか炎天下の中必死でボール追っかけまわしてるんだぜ? 金城の奴が好き勝手やってる間によォ。……あのクソ監督、取れないノックばかり無駄打ちしやがって、いい加減にしろってんだ」
「……」
「あぁ、わりぃわりぃ。話逸れちまった」
笑いながら、俊男は再び考えるようなしぐさを見せ、
「ただ、女心ってのはよく分かんねぇからなぁ。この前だって恋奈に『お前身長伸びたんじゃね?』って言ったら、いきなり怒り出してよ。適当なこと言わないでよって……意味わかんねーよな? こっちがせっかく褒めてんのに」
「…………それは多分、お前が悪いよ」
「そうなのか?」
当たり前だろ、お前にはデリカシーがなさすぎる。
そう言ってやりたいところだったが、相談に乗ってもらっている手前、あまり強く咎めるのは気が引けてしまう。
そうして俺が黙っていると、俊男はそれほど気にした様子もなく、
「まぁとにかく、女ってのは何考えてるのか分かんねー生き物なんだよ。傍から見て自由気ままにやってるようでも、金城にとっちゃ何か狙いがあるのかもしれねぇ。……まぁ、あいつは根っからの変人っぽいから、話を聞いたところで理解できないかもしれねぇけどな」
そう言って、俊男はハッハッと笑った。俺は反応する気も失せてしまい、暗くなった帰り道をすごすごと歩き続ける。
やっぱり、俊男に相談というのは無理な話だったか――
そう考えていると、俊男は不意に立ち止まった。
「なぁ銀河。お前、まだ金城のことが好きなのか?」
「……そりゃそうだろ。じゃなかったら、こんな風に相談したりしないって」
「…………そうか」
俊男は思考するような間を置いてから、続きの言葉を口にした。
「お前は金城が好きだと思った時……そんな、難しいことを考えてたのか?」
「……えっ?」
「金城のどんなところが好きとか、何を考えていそうだとか。そんな具体的なことを考えていたのかって聞いてんだよ」
「それは……」
おそらく、考えてはいなかっただろう。なぜなら金城を好きだと自覚したのは、明確なきっかけがあったからではないのだから。
俺はただ、金城と一緒にいることが楽しくて――
そう思い至った時、俺はハッとして幼馴染の顔を仰ぎ見た。
俊男はニッと黒く焼けた頬を持ち上げ、
「銀河はさ、難しいことを考えすぎなんだよ。そいつといる時間が楽しくて、これからもずっと一緒にいたいと思った。付き合いたいと思う理由なんて、それだけでいいじゃねーか」
「…………そうだな」
言いながら、俺は目の前を覆っていた靄が晴れていくのを感じていた。
俺はずっと、遠回りになるようなことばかり考えていた。金城に好かれるにはどうしたらいいかとか、彼女が口にした言葉の真意は何なのか、などと。
だが、俺は一番大切なことを忘れていた。好きになった人に、自分の精一杯の想いを伝える――そのことを、俺はまだやり遂げてはいなかったのだ。
ならばもう、迷う必要はない。俺の為すべきことはただ一つである。
「その顔、どうやら悩みは吹っ切れたみてぇだな」
「……あぁ。俊男の言葉がヒントになるなんて、ちょっと意外だけどな」
「なっ……お前、相談に乗ってやったってのにその言い草は――」
「冗談だよ。ありがとう、俊男」
そう言って拳を差し向けると、俊男はやや不満そうだったものの、すぐにコツンという感触を返してきたのだった。
12
七月に入り、本格的な暑さが訪れた黄金学園。
そのピラミッド型校舎の最上階に位置する展望台で、俺は他でもない想い人、金城美雷を待っていた。
周囲を大きなガラス窓で覆われ、黄金学園の敷地はもちろん街全体の景色も眺めることができるこの場所は、カップルのデートに最適な場所である。
とはいえ、今は放課後のまだ明るい時間帯。他に生徒は誰もおらず、俺は静かに彼女が現れるのを待っていた。緊張で胸はドキドキだが、度重なる疲労が災いし、今にもすぐ寝ついてしまいそうである。
そうして、俺がうつらうつらと舟を漕ぎ出し始めた時――
「銀河くん。おーい、銀河くんってば」
待ち望んだ声。瞬時に目を開けると、そこにはやはり金城が立っていた。
しかし、その表情はどことなく不満そうで、
「銀河くんって意外と大胆だよねぇ。人を呼び出しておいて、自分はコックリ寝落ちしてるだなんて」
「ち、違うんだこれは……。つい春の陽気に」
「今はもう夏よ。もしかして寝ぼけてるの?」
刃物のような鋭い声。俺がどう言い繕おうか悩んでいると、金城はフッと表情を緩めた。
「冗談よ。今日は特別に、君の話を聞いてあげる」
そう言って、彼女は一枚の封筒を掲げてみせた。そこには『金城美雷さま』という宛名が、ミミズの這ったような字で書かれている。
「……読んで、くれたんだな」
「まぁね。最初は冗談にしか思えなかったけど」
そう答える金城の表情は、あの豪邸で顔を合わせた時よりもずっと柔らかいものだった――。
*
月末テストの結果が発表される前日、俺は金城の下駄箱に一通の封筒を忍ばせていた。
無論、ラブレターなどではない。そんな安いアピールで、彼女の心が動かせるとは思っていない。
色々と書くには書いたが、俺が本当に伝えたかったのはたった一つの文章だった。
==============================
金城へ
いよいよ、俺のファーストクラス生活はあと一日で終わります。
でも勘違いしないでほしい。俺は決して、お前のことを諦めたりはしない。
その証拠に、俺は来月もファーストクラスに残ってみせる。この一か月の間、死に物狂いで頑張ってきた勉強の成果を発揮して、ね。
結果はどうなるか分からない。でも、もし学年上位五人の座に割って入ることができたら、俺にチャンスを恵んではくれないだろうか。もう一度だけ、お前とちゃんと向き合って話がしたい。
金城にとってはメリットのない話かもしれないけど……どうか、俺の願いを聞き入れてほしい。
よろしくお願いします。
天川銀河
==============================
ファーストクラスに初めて足を踏み入れたあの日から、俺は密かに努力を続けてきた。
金で買った地位のままでは、金城と同じ景色を見ていることにはならない。彼女にとって相応しい存在になるためにも、隣に立ち続ける自信を得るためにも、俺にとっては必要な挑戦だった。
正直言って、どれだけ勉強したか分からない。睡眠時間は極限まで削ったし、休み時間などのごく僅かな空き時間にも単語帳を開くなど、一つでも多くの情報を頭に詰め込もうとした。おかげで四六時中あくびが出るし、目が充血して家族には心配されたが、自分が解ける問題のレベルはメキメキと上がっていった。
そして、迎えた結果発表の日――
結果はなんと、金城に次ぐ二位。
俺はあの瀬場を破り、見事にファーストクラスの座を獲得することに成功したのだった。
**
「それで、話したいことって何?」
俺のしたためた封筒をポケットに仕舞いながら、金城が単刀直入に聞いてくる。
俺は少しばかり怯みながらも、勇気を持って彼女に向き直った。
「金城。お前はこの前、俺に『何も分かってない』って言ったよな」
「……言ったけど、それが何?」
「そんな怖い顔すんなって。……俺さ、あの後色々考えてみたんだ。金城は俺の知らない何かを抱えていて、それに苦しんでいるんじゃないか……って」
金城は何も言わなかった。明確な返答がない辺り、もしかして図星なのかもしれない。
とはいえ、俺はそのことを積極的に追及するつもりはなかった。
俊男のアドバイスを思い出しながら、宝石みたいに輝く瞳をじっと見据える。
「でもな……そんなことは関係ねぇ。俺はお前の事情を知らなくても、お前のことを好きになったんだから」
彼女が反応するのも待たず、俺は更に言葉を続けた。
「もう一度言う。金城、俺はお前のことが好きだ。コンビニで買った不味い中華まん食わされた時も、遊園地で縛りプレイをやらされた時も、お前が隣にいたから楽しかったと思ってる。だからさ……もしよかったら、俺の恋人になってもらいたい」
言い終わると、お互いに長い沈黙が続いた。俺は恥ずかしさに顔を背けたかったが、全身に力を込めるようにしてそれを堪える。
一方で、金城もまた何かと戦っているようだった。一度開けようとした口を閉ざし、再び考え込むということを繰り返す。だが、俺にしてあげられることは何もなかった。今はただ、彼女の答えを待つことしかできない。
――頼む、神様。恋愛成就のお守りはないけど、俺に運を恵んでくれ……!
そうして神に祈り始めたその時、薄桃色の唇がゆっくりと動き出した。
「…………ありがとう。銀河くんの真っ直ぐな気持ちは、すごく嬉しい」
消え入りそうなほど小さな声。俺が耳をそばだてていると、すぐにその続きが発せられた。
「でもね……銀河くんの気持ちを受け入れることはできない。だってあたしには、その資格がないんだから」
「……資格?」
「そう。あたしは今まで、銀河くんにひどいことをしてきた。≪恋心≫を無理やり売りつけようとしたり、銀河くんの真剣な気持ちを『ゲームだから』って切り捨てたり。人として許されるべきじゃないと思ってる」
「そんな大げさなもんじゃないだろ。俺は別に――」
「あたしが気にするの!」
叫ぶようなその声に、俺は思わず口を閉ざしてしまう。
金城は暗い表情を浮かべたまま、話の続きを口にした。
「……あたしはこういう人間だから、簡単に性格は変えられない。例え銀河くんが大丈夫と思っていても、またいつか傷つけるに決まってる」
「そんなことないって。少し、自分を卑下し過ぎじゃないか?」
「ううん、これは正当な評価。だってあたしは、ずっとそうやって生きてきたんだから」
鳶色の瞳は真剣な色を放っていた。出会った時はあれほど傲慢な態度を見せていたのに、今はここまで縮こまってしまうなんて。
本当の金城がどこにいるのか――俺は結局、そのことが知りたくなってしまっていた。
「……金城。もし良かったら、お前の過去を教えてくれないか」
彼女はしばらくの間逡巡した後、やがて静かに頷いたのだった。
***
金城の両親は、想像通り『金城病院』を経営している医者だった。
同じ大学の医学部で出会い、卒業してすぐに結婚。その後、祖父が経営していた病院を父親が引き継ぐ形になったのだという。
二人に子供を設ける意思はなかったが、年齢を重ねるにつれ、表面化していったのは『次なる後継ぎ』の問題だった。
「……両親はね、男の子が欲しかったらしいの」
そう言って、金城は寂しげに虚空を見つめる。
「でも、あたしが先に生まれた。だから両親は、あたしのことをかなりほったらかしにしたらしいの。仕事が忙しいからって、世話の全てを自分たちの両親に任せたりしてね。でも、二人目の子供に男の子が生まれた時、その態度はまるで違った。幼いうちから頭が良くなるような英才教育を施して、何が何でも大学の医学部に合格させようと意気込んでた。あたしなんかは、適当に保育園へ預けられてたのにね」
「……ひどい話だな」
「まぁ、あたしは当時幼かったから、そういう対応の違いは分からなかったんだけど。でも、小学校に上がる頃になると、流石に感じるようになってた。テストでどれだけ一〇〇点取っても、通知表でオールAを貰っても、ほとんど褒めてくれることはなかったから。でも、たまに気まぐれで『すごいぞ』なんて言葉を掛けてくることがあったから、それが嬉しくて頑張ってた時期もあったかな。まぁそれも、あんまり長くは続かなかったんだけどね」
金城は苦笑いを浮かべた。俺はどう反応すればいいか分からないまま、黙って耳を傾け続ける。
「中学校に上がる頃には、もう全部気付いてた。両親があたしに毛ほども興味がないんだってこと。だからさ、気を引こうってわけじゃなんだけど、色々なことをやったよ。授業中に早弁したり、学校の中庭で焼肉始めたり、体育の授業中にサボってゲームやったり。不良になるほどの勇気はなかったから、いわゆる非行みたいなことには関わんなかったけどね」
「……なるほど。そういうヘンなことは、中学の時からやってたわけだ」
「ヘンとは失礼ね、あたしだって考えてやってるんだから。……ただ、先生に怒られて家に電話がかかってきても、あたしは全く心配されなかった。お前のせいで弟の進学に影響が出たらどうするんだって、頭ごなしに怒られるだけでさ。なんかあたし、この家で居場所無いなって」
金城の声は少し掠れていた。あまりにひどい話に、俺はいつしか拳を握り締めていたことに気付く。
「黄金学園に入学したのは、単に家が近かったって理由だけ。頑張って一位を獲り続けているのも、銀河君の言う『ヘンなこと』を思い付きでやっているのも、平たく言えばただの暇つぶし。人の迷惑も考えないまま、意味のないことを繰り返すだけ。あたしっていう人間はさ……ただ、それだけの存在なんだよ」
俺は、いつか金城が話していたことを思い出していた。
――自分の≪恋心≫がいくらで売れるのか……興味あったんだぁ。
あの時も、金城は暇つぶしという言葉を口にしていた。俺はそれに対して激昂したが、金城自身はずっとそういう生き方をしてきたということなのかもしれない。
「……銀河くんはさ、あたしのことを自由だって言ったよね? でもそれは違う。好き勝手やっているのは、自分が何をすればいいのか分からないだけなの。そんな人のことを、本当に自由だなんて言える? そんな思いやりのない人が、自分を絶対に傷つけないって言える?」
鳶色の双眸は真剣な光を放っていた。俺に反論する間も与えないまま、彼女は言葉を続ける。
「……銀河くんに『友達になりたい』って言われた時、本当はすごく嬉しかった。あんなに真剣な気持ちをぶつけてくる人、生まれて初めてだったから。でも……だからこそ、怖かったの。何もない空っぽのあたしが、銀河くんを傷つけてしまうことが……すごく、怖かったの」
いつしか、金城の声は震えていた。
学内では変人と称され、自由奔放に振る舞っているように見えた彼女が、そんな思いを胸に抱いていたなんて――
もっと早く聞き出せばよかったと思う一方で、後悔より先にやるべきことがあると思い直す。
なぜなら俺は、『今』の金城美雷と向き合っているのだから――
「……金城。お前は空っぽな奴なんかじゃないよ」
俯いていた顔が持ち上がるのを見て、俺は言葉を続ける。
「何をすればいいのか分からないなんて、そんな奴は学校にごまんといる。俺だって同じだ。将来の夢なんかないし、勉強だって自分の意志でやってるわけじゃない。それでも、お前は自分だけが空っぽな奴だって言うのか?」
「…………それは」
「それに、思いやりがないってのも違うな。もし金城がそういう人間なら、そもそもそんなことで思い悩んだりはしない。ましてや、俺を傷つけるのを怖いと思ったんだろ? そんな奴に思いやりがないっていうなら、思いやりがある奴の定義を教えてほしいね」
思いの丈をぶつけるようにして勢いよく言い放つ。
それに対し、金城は涙に濡れた声を途切れ途切れに絞り出す。
「……きっと、後悔するよ? あたしみたいな女を選んだのが間違いだったって、そう思う日が来るよ?」
「なんだよそれ。百歩譲ってそんな日が来たとしても、それは選んだ俺の責任だろ」
「……それは……そうだけど」
涙目でこちらを見つめる金城を見て、俺は思わず吹き出してしまう。
「金城って極端だよなぁ。最初はあんなに自信満々な態度だったのに、ここまでしおらしい感じになるなんてさ」
「……し、仕方ないでしょ。むしろ、こっちが本当のあたしなんだから」
「そうなのか? まぁ、どっちでもいいや」
そう言って、俺は再び金城に向き直った。
「金城。改めて言うけど、俺はお前のことが好きだ。この気持ちはずっと変わらない」
「…………ずっと?」
「あぁ。お前が俺に愛想をつかさない限りはな」
言いながら、自然と頬が緩む。恥ずかしいことを口にしているという気持ちは、いつしかどこかへ行ってしまっていた。
金城は目元を拭うばかりで口を閉ざしていたが、やがて一言、
「……本当に、あたしのことが好き?」
「あぁ」
「……本当に? ホントのホントのホントに?」
「本当だって! 何回言わせる気だよ?」
つい声を荒げてしまうも、金城はそれに怯んだりはしなかった。
「……だったら、それを行動で証明して」
そう言って、ほっそりとした人差し指が唇にあてがわれる。それはまるで、そこに同じものを合わせなさいと言っているようで――
「ほ、本気で言っているのか……?」
コクリ、と小さな頷き。俺は思わず唾をのみ込みながら、手のひらに汗がじっとり滲んできているのを感じていた。
それを左右の華奢な肩に置き、俯いていた顔を覗き込むようにして見つめる。
「いいんだな、金城?」
返事は何もなかった。しかしその沈黙を肯定と受け取った俺は、女の子らしい柔らかな身体をゆっくりと抱き寄せていき――
唇が触れてしまう直前、確かにその囁きが聞こえてきたのだった。
「……ありがとう、銀河くん。大好きだよ」
そうして俺は、今まで経験したことのない甘美な感触に酔いしれていったのだった――。
<エピローグ>
夏休みを迎えた俺たちは、街の中心部から少し離れた屋内プール施設を訪れていた。
外の気温はすでに三〇度。まさにプール日和ということもあり、施設内部は大勢の家族連れで賑わっている。
そんな中、いち早く着替えを終えてしまった俺は、一人寂しく彼女がやってくるのを待っていた。
一体どんな水着を着てくるんだろう――期待に胸を躍らせていると、聞き慣れた清涼感のある声が後ろから飛んできた。
「銀河くん、おまたー」
振り返ると、そこには天から舞い降りた天使が立っていた。
白くきめ細かな肌に、制服の上からも想像できるほどだった見事なプロポーション。そしてそれを引き立てているのは、まっさらな純白のビキニ。
ビキニ。
ビキニ。
そう、ビキニなのである。
「よ、よう。遅かったな……」
ドギマギしながら心にもないことを呟くと、金城はわかりやすく頬を膨らませた。
「銀河くんってデリカシーがないよね。それとも、ただの意気地なし?」
「違うわ! ……そ、その、似合ってるよ。水着」
「はい一〇点。誉め言葉は平凡でもいいけど、遅かったから一〇点」
「ぐっ……」
俺が悔しさに拳を震わせていると、金城はいつの間にかスタスタ歩いていってしまっていた。
「ちょっ、待てよ!」
「あー、あたしお腹空いちゃったなぁ。なんかホットドッグとか、フライドポテトとか食べたいなぁ」
「……買ってくればいいんだろ! 買ってくれば!」
「あと飲み物も欲しいなぁ。あたし、メロンソーダが好きなんだよねぇ」
「……分かったよ、それも買うから!」
「それにマッサージも受けたいなぁ。最近肩が凝ってきちゃって」
「……それは俺が揉むから! プロを呼ぶのは勘弁してくれ!」
そうして後を追いかけ続けていると、金城はピタリと足を止めた。
「……何だよ。やっぱり俺のマッサージじゃ不服だってか?」
「ううん、そうじゃなくて。……やっぱり先に、銀河くんと泳ぎたいなぁと思ってさ」
恥ずかしそうに頬を染める金城に対し、俺は思わず動きを静止させていた。
まさか金城が、こんなにも男心をくすぐることを言うなんて――
俺はすばやく彼女の手を取ると、プールに向かって歩き出した。
「ちょ、銀河くん?」
「買い物は後回しにしよう。俺もその……金城と、泳ぎたいからな」
「……そっか」
ぎゅっ、と小さく手を握り返してくる感触。俺はそれに身悶えしながら、気付けばプールの縁までやってきていた。
俺が先にプールへと入り、後から入ってきた金城を優しく優しく支える。
素肌が触れ合って緊張感が一気に増す中、彼女はじっとこちらを見上げてきた。
「……ねぇ銀河くん。あそこに俊男くんがいるよ」
「え? どこ?」
慌てて周囲を見渡すも、それらしい姿はどこにもない。
「なんだよ、どこにもいないじゃ――」
そうして視線を戻そうとした瞬間、気付けば唇が塞がれてしまっていた。
ふわりとした感触、それに触れ合った素肌を通して彼女の熱が伝わってくる。
「き、金城……?」
顔を離すと、彼女はすっかり頬を赤らめていた。熱っぽく潤んだ瞳が、こちらを真っ直ぐに見上げてきて、
「……へへ、ごめんね? 我慢できなかった」
ちろりと舌を出す仕草に、俺の中の何かが爆発した。
「なぁ、金城」
「うん?」
「……これ以上はやめてくれ。理性が保たなくなる」
その正直な申し出に対し、金城は思い切り吹き出して笑ったのだった。
自信家な表の金城と、臆病な裏の金城。
それはどちらも本物であり、どちらかが偽物ということはない。
その全てをひっくるめて、俺は彼女のことが好きだった。本人は『自分は空っぽ』なんて言ったこともあったが、これほど人間らしい女の子は他にいない。
例えこの先どんなことがあっても、俺は金城の隣を歩き続けていたい――
「さーて、泳ぎますか。まずは流れるプールを逆向きで自由形だよっ!」
そして、太陽みたいに輝く彼女の笑顔を、ずっと近くで見続けていたい。