第二話 リペア・マインド
私は、その場で立ちすくんでいた。ベンチに座っている彼女から、目を離すことができなかった。黒く艶のある長い髪、ぱっつんとした前髪、そしてアンダーリムの眼鏡が目についた。駅で私が平手打ちをしてしまった際に、吹き飛ばしてしまった眼鏡のヒビは、彼女が掛けているアンダーリムの眼鏡には入っていなかった。
「……も、もしかしたら人違いかも……」
私は、当時もことを振り返る。絶望し線路に身を投げるもなぜか助かり、馬乗りされ胸をもまれていた。その時は頭が混乱していたため、どうしても彼女が当人だったと確証を得る事ができなかったのだ。
どうにかして、彼女に話しを聞くことができないだろうか。そんなことを考えてながら、彼女の様子をもう少しだけ伺うことにした。
「あっ……!」
一瞬だけど、彼女と目が合った気がした。私は、なぜか思わず目を逸らしてしまう。どうして、目をそらしてしまったのだろう。……なんとも、いたたまれない気持ちになってしまった。しかし、このままでは何も進展しないと思い、私は少し勇気を出して、再度彼女に視線を合わせることにした。
彼女は、ベンチに広げていた資料を丁寧にまとめ始めていた。どうやら、用事が済んで片付けをしている様子だった。私の事は気にも留めない様子に見えた。もしかしたら、目が合ったのも私の自意識過剰かもしれない。
「はぁ……」
そんな、ネガティブなことを考えてしまっていた。私のいままでの経験上、こういうネガティブ思考に入ると事が上手くいった試しがなかった。彼女のことは、また次の機会に話した方が良いかもしれない。
私はもう一度彼女を見ると彼女に背を向け、重い足取りで立ち去ることにした。
「ちょ、ちょっと! お待ちなさい!」
後ろからの突然の声に、私は背筋を伸ばす。少し高い女性の声が、中庭全体に響き渡る。驚いて私が振り向くと、先程までベンチに座っていた彼女は立ち上がり、少し怒った表情で私をじっと見つめていた。辺りを見回して、他に誰もいないことを確認する。
「……え……、もしかして私……?」
私は、右手の人差し指で自分を指しながら、彼女に確認をしてみた。
「あ、あなた以外に、ここには居ないじゃないですか! 折角、ベンチを座れるようにしたのですから、お座りになってはどうですか!?」
なぜだろう、彼女はとても怒っているようだった。どうやら、目が合ったのは気のせいではなかったようだ。彼女は、私の座るスペースを空けるために、ベンチに広げていた資料を片付けていた……らしい。駅の時といい、見た目大人しそうな人だったが、もしかすると見た目とは裏腹に積極的に行動するタイプなのかもしれない。
私は、コクリと頷くと小走りで彼女の近くに近づいていく。隣で軽く会釈すると、少し間を開けて彼女の隣に座る。
「……」
「…………」
「………………」
沈黙――。
中庭に吹く風が、もうすぐ訪れる春の訪れを待つ木々を揺らし、カサカサと音を鳴らしている。いろいろ聞きたい事があるのだけれど、何から聞いていいのか頭の中が整理がまったくできていなかった。私は、膝の上に置いた手をもじもじとさせながら、何か言わないと! と思いながら考えを巡らせていた。
「私は、神之月 時名と申します。あなたはのお名前は?」
「……え……?」
突然、彼女が語りだした為、彼女と話そうと考えをまとめていた内容は全て吹き飛んでしまった。私はまたしても、呆然とし体を硬直させてしまう。
「名前です! 私はちゃんとに名乗ったのですから、あなたも名乗るのが礼儀ではないでしょうか!?」
「え!? あ!? うん! そ、そうだね! 私は理子。岬 理子っていうの。よ、よろしくお願いします……」
「ええ、宜しくお願い致します」
私の名前を聞いて、彼女は満足そうな表情をする。多少ツンツンしている感じではあったが、悪い人ではなさそうだ。
「え、えっと、神之月さん……」
そう、私がいうな否や、彼女は、また怒ったようなふくれっ面になり、私に抗議してくる。
「と、時名で構いませんわ――! こほん……私も理子と呼ばせて貰いますが、宜しいですか?」
「う、うん。大丈夫、大丈夫……!」
おしとやかそうな見た目とは違って、やっぱり気の強い女性だなと私は再認識する。
「え、えっとじゃあ、時名さん……」
……もしかしたら「さん」付けが気に入らなかったのだろうか。少しばかりにふくれっ面になるも、妥協してくれたのだろうか、今度は抗議はなく、私の話に耳を傾けてくれた。
「……えっと、さっき、駅で私に馬乗りして、む、胸を揉んでたの……時名さん……?」
「ええ、そうです」
「あ、うん……そうなんだ……」
やっぱり、私の記憶は間違えてなかった。時名さんが当事者だった。
「あ、あの!? 眼鏡……、ごめんなさい。ああ、その前に思いっきり引っ叩いてしまってごめんなさい」
私はベンチに座りながら、時名さんに深々と頭を下げる。
「こほん……。いえ、私も役得……はっ!? じゃなかったわ、べ、別に気にしていません。眼鏡も予備が幾つかありますので、ご心配には及びません」
「あ、うん……。ああ、じゃなくて! 眼鏡の修理代は弁償するよ……。でも、今は持ち合わせがないから、後でもいいかな……」
私は申し訳なさそうにしながら、覗き込むように時名さんの様子を伺う。
「ええ、そうですね、出世払いで構いませんよ」
少し意地悪そな笑みを、時名さんは私に向けてくれた。
「………………」
なんだろう……。何か、私自身がいままで感じたことのない、何か新しい感情が芽生えた気がした。どこか恥ずかしいけど嫌な感じじゃない……。背中をくすぐられるような、こそばゆい気持ちだ。
そんな、私は駅の出来事をゆっくりと思い出す。
「……白パンツ……」
突然、あの時の衝撃の映像が私の目の前に蘇ると、私はうっかりその言葉を口に出してしまった。
「はい?」
「あ――! あ――! あ――! 何でもない! ナンデモナイヨ! 時名さん!」
私は、その場で立ち上がり両手を振り誤魔化そうとする。時名さんは、そんな動揺した私の姿を見て、キョトンとした表情をしていた。
「え、ええ……、よくわかりませんが、わかりました」
上手く誤魔化せたのだろうか、時名さんがこの件で追求してくることは無かった。私は顔を真っ赤にしつつ、ベンチに座ると何回か深呼吸をする。時名さんは、そんな私の姿を見て私が落ち着くのを待ってくれているようだった。
再度の沈黙――。ただ、先程の沈黙とは違い、心地よい沈黙だった――。
暫くして、私は落ち着きを取り戻した。さっそく、私は時名さんに聞きたいことを話し出した。
「……あの、駅で私に何をしたの?」
どうやって話を切り出そうか? いろいろ考えてみたが、良い案が思いつかず、結局、直球で疑問を投げつけることにした。線路に飛び降りる直前から、白パンツを見るまでの記憶が、どうしても曖昧だったのだ。それに、あれ以降、絶望という黒く深い靄が心にかかることはなかった。昨日までの私とは、別人といっても良いだろう。
そして、その原因を作ってくれたのが時名さんであると、確証はないが確信は持っていた。
「ええ、私は、あなたの壊れた心を、あの時、修復しました」
「……え!?」
心を……修復……?
私は、時名さんの顔をじっと見つめる。その表情から、冗談を言っている様子では無かった。
それに……これは、私自身が体験したからだ。
【コワレタココロヲシュウフクスル】という言葉に共感することが出来る体験を――。
「…………」
どう返答して良いかわからず、私はダンマリしてしまう。
「クス……。理子は信じますか? 心を修復するなんて、こんな話?」
時名さんは、さきほどの小悪魔的な笑みを浮かべて、私に質問する。でも……表情は少し哀しみ、諦め、そんな感情が混じっているように見えた。
私は、時名さんの問いに答える。
「――。うん、信じるよ――。だって、私の心が壊れていたことは、私自身が一番知っていたから――」
「……そうですか。でしたら、私の力が、お役に立てて良かったです」
時名さんは髪を手ぐしながら、安堵の表情を浮かべる。
「その力を、私は【リペア・マインド】と呼んでいます」
「え……?」
「壊れた心を見抜き、その心を修復する能力の事です」
「リペア……マインド……?」
「私の家系では、稀にそういった能力を持った人間が生まれるのだと、死んだ母様から聞いています」
「う、うん……そうなんだ」
なんだか、とても重い話しをされている気がした。私なんかが聞いて良いのだろうか……。そんな事を考える。でも、聞かないという選択はしなかった。私は、もっと聞きたかった。時名さんの事を、もっと知りたいと思ってしまったからだ。
私は相槌を打ち、彼女の言葉に耳を傾けることにした。
「私には出来ないけれど、母様は人の心を読む事が出来たといっていたわ。もっとも、その力のせいで周りからは気持ち悪がられていたという話だけれど」
「……そうなんだ……」
「だから、私も極力この力は使わないようにしているわ。今の世の中、平穏に生きるために。それに、心が壊れている人は今の世の中大勢いるのよ。そんな人たちを全て救おうとするほど、私は強欲な神様ではないし……」
彼女は寂しそうな表情で、語っていく。
「じゃ、じゃあ、どうして私を……、私の心を直してくれたの?」
私は、率直な疑問を彼女に問いかける。
「……え!?」
突然の私の質問に、時名さんは驚いた表情をする。そして、目を瞑り何かを考えているようだった。私は、時名さんの横顔をじっと見つめ、その答えが出るのを待つことにした。
「そうね、理由は……」
「……り……、理由は?」
私は、喉を鳴らし、彼女の答えを今か今かと待つ。
「……ごめんなさい。思いつかなかったわ」
「え!?」
「そうね、理子を救った理由は、後で理子が納得できる回答を考えておくわ。それで良いかしら?」
「あっ、うん……」
話の流れでつい「うん」と返事をしてしまったものの、まったく期待した答えではなかったのだ。どんな理由か気になってしかたが無かったが、無理に聞いても今はきっと応えてくれないと思い、いつか、時名さんが話してくれるのを待つことにした。
「……あ! そういえば、私が線路に落ちる時、誰かが引っ張りあげてくれたと思うんだけど、時名さん、その人のこと覚えている?」
「……えっ? 引っ張り上げたのも私ですけど。かなり強引でしたが、ああでもしないと間に合いませんでしたから。危機一髪とはまさにこの事ですわ」
当時を事を振り返っているのか、うんうんと頷いている時名さん。私は時名さんに近づくと、そのか細い腕の二の腕を両手で握ると揉み始めた。
「ひにゃぁぁぁ!!!!」
突然の私の行動に、言葉にならない驚きの声を時名さんが上げる。しかし、私は時名さんの二の腕を更に揉み揉みし続ける。
「……わ、私みたいにぷにぷにしていない……。時名さん……結構筋肉あるのね……」
「え、ええ、こ、これでも……腕力には……ひゃん……少し自身がありましてよ……」
恥ずかしそうに耐える時名さんの表情に、私はときめきのような何かを感じてしまう。
「あ、あの……、そ、そろそろ揉むのを止めて頂きたいのですけれど……」
「ご、ごめんなさい! つい……気持ちよくて……!」
名残惜しいけど、私は両手を時名さんの二の腕から離す。
「はぁ……」
時名さんは、顔を少し赤くしつつ、安堵した様子を見せるのだった。
それから、私と時名さんは、少し他愛のない世間話をした。
時名さんは、最近こちらに住むようになって、四月からこの学園に通うことになったのだという。今日は通う前に、学園の見学をしたかったらしく許可をもらって来たとのことだった。ベンチで広げていた資料は、学園の入学パンフレットとのこと。
「……そうなんだ、じゃあ、春から一緒に通えるね」
「ええ、そうですね」
時名さんと初めて合って、まだ数時間しか立っていなかったのに、今まで感じたことの無いほど楽しいと時間だったと実感していた。しかし、その楽しい時間も、もうすぐ終わろうとしている。
家を飛び出してきた私は、これから一夜を過ごす場所すら決まっていない。この後、どうなってしまうのか分からない状態だった。人並みの生活をするには、義父に、また体を捧げなければならないのかもしれない。
「……う、うう……」
悲しかった……。時名さんと話した数時間が、眩い時間だったからこそ、今の自分がどれだけ惨めな立場にいるのか痛感してしまっていたのだ。
「……それじゃあ、そろそろ行きましょうか?」
時名さんが、ベンチから立ち上がる。夢のような時間は、終わりを告げた。私は弱々と頷き、ベンチから立ち上がる。そして、ふらふらとその場から立ち去ろうとする。
そんな私の左手を、時名さんは両手でがっしりと掴む。少し痛いほど、ぎゅっと握りしめる彼女の両手は暖かく、その痛みすらも心地よい感じがした。
「……どこに行かれるのですか?」
「え、あ……。うん、どこに行くんだろう……」
私は、俯きながら自分自身に問いかける。
「そうですね、今日は、私の家に来てはどうですか?」
それは、本当に突然の申し出だった。
「え……でも……! 悪いよ……そんなの……」
「……はぁ、あのですね、悪いと思ったら誘っていません。私がしたいから誘っているのです。さぁ、行きましょう」
私は半ば強引に、時名さんに引っ張られていく。私の手を握る時名さんの手は、いままで会った誰よりも、大きく暖かく感じたのだった。