麻のカーテン
「ただいまー」
夫の返事はない。2LDK家賃9万のこの家はファミリータイプのマンションだがそう広くない。
玄関の戸を後ろ手に閉めて鍵をかけると、そろそろと夏用の白いスリッパを履いて薄暗いリビングの戸を開ける。
部屋の中央にごっそりと積まれたダンボールを見て、由美は肩から息を吐いた。同時に肩にかけていたバッグの紐がするっと落ちた。
カタンと金具の音が響く。
この惨状は夫の卓也がネットで買い物をし、その外側だけリビングに捨てているからだろうと想像はつく。
二日間妻が出張に出かけていたらこれほど家が荒れるのか。
一人暮らしをしていた事もあるはずなのに。
卓也への落胆がじんわりと夏の汗とともに心と服に染み込んでくる。
由美は暗澹たる気分でリビング南正面の窓を見た。
ゆらゆらと夜の灯りが麻のカーテンからこぼれる。このカーテンは一目で気に入り新居引越しと同時に買ったものだ。まだ二年しか経っていない。
そう、まだ結婚してから二年しか経ってないのだ、と由美は噛み締めるようにごちる。
前傾姿勢になりかけていた姿勢をぐいっと起こすと、ダンボールを片付け始めた。これは面倒な作業だな、と思うがファンデーションを今すぐ落としたいという欲求が勝る。
卓也へは連絡を取らない。
何故かというと今日は結婚記念日だから。
絶対に由美は連絡を取らないと決めている。
新婚旅行中、甘えてくる女が好きだ、はっきりと卓也はそういった。
素直に甘えてくればいいんだよと得意げに言った。
その顔には根拠の無い自信と驕りしかないと由美には感じられなかった。
嫌悪ではなかった。この人は無邪気なのだ。そう思った。
卓也と由美は同じ年だ。だから由美はその言葉がずっと不思議だった。
交際中も由美は甘えたことは無かったし、結婚してから卓也がそういうのも理解出来なかった。
ダンボールの片付け終わって、メイクも落としカーテンを開けて窓の外を見る。
このマンションはわりと高台にあって見晴らしも良い。段々畑のような地形に建てられたので南向きの窓からは東京の夜景が見えた。
この部屋は卓也が気に入って借りたものだ。
しかし由美も気に入っている。特に夜景が。
しんとしたリビングでアナログ時計の時を刻む音が聞えてくる。
ソファに深く腰掛けるとざわついた気分は収まった。
スマホがある場所は見ない。
そっと目を閉じる。
卓也は今日を忘れられるような人じゃないと、本当は確信している。
玄関が騒がしくなった。鍵が開いてどたばたと誰かが入ってくる音がする。
無邪気な子供のように屈託のない声。
「おかえり!!」
「おかえりは貴方じゃない」
もじゃもじゃ頭の卓也は嬉しそうに目尻に皺を寄せて笑うと、どっさりと紙袋を由美に渡した。汗だくになったTシャツを脱いで、新しいものに着替える。
「今日休みだったから色々探したよ」
由美に紙袋を開けてみせる。
出てきたものは由美が欲しかった冷えすぎないパジャマ。
由美が、値がはるからと去年こっそり諦めたものだ。
「由美が欲しいかなと思って実はこつこつへそくりをしていたんだ」
由美は言葉をなくす。
このパジャマを買うには相当貯めないといけない。
卓也に長期間貯めるという計画性があったのか。
一年前からの由美への観察眼があったというのか。
「あ、これ」
カーテンとお揃いの布地で出来たテーブルクロスとクッション。由美の好みにあっている。色が若干濃い目なのが渋い。
他にも由美の好みのものばかり出てくる。使い勝手もきちんと考慮されている。
普段家事をやらないのに、どうしてこういう事ができるのだろうと心底呆れかえる。
新婚旅行のときの我が物顔の卓也とは違う卓也のような気がした。
嬉しさで言葉が震える。
「記念日を忘れていないっていうこと、分かったから。ありがとう」
「その言葉が聞きたかった」
卓也はそういうとぺこりと軽く頭を下げた。
「今年もよろしくお願いします」
もじゃもじゃ頭に白髪が一本あるのを見届けてから、由美も頭を下げた。
「こちらこそよろしくお願いします」
心を込めて、そういった。
寂しい事を言う様だが、結婚しても絶対別れないという事は無い。
由美はだから自分にはないモノを持っている卓也を伴侶に選んだ。
卓也だって何か理由はあるだろう。
由美に100%を求めていない。
2回目の結婚記念日に卓也から感じたのはそれだった。
自分なりに相手を愛せればそれでいい、それに応えてくれれば嬉しい。
そういう卓也の気持ちだった。
由美は単純にそれが嬉しかった。
これから夫婦として何かあるだろう。
出産もあるかもしれないし、難しいかもしれない。
双方の仕事もどうなるか分からない。
家の問題も将来的にはあるだろう。
卓也とだったら新しいアイディアが浮かぶかもしれない。
そう期待してこれからいこうと思う。
なーんか全てがずれている(笑)