一撃必殺に憧れる
ボクシングには一撃必殺の技がある。
もちろん一撃で必殺するには準備が必要で、いままでの経験と積み重ねてきた練習をモノにできる奴だけが会得できる。
だけどわたしは、一撃必殺を会得できなかった。
ボクシングの歴は長かった。周りからは女だからと見下されたけど小中高大と続けてきた。
練習態度もまじめ、とはいかないが。自己流の練習メニューを毎日休みなく続けたし、ミットを何千何万何億……下手したら何京も叩いた。
それなのに一撃必殺を会得できなかった。
理由は単純。わたしが小柄だったからだ。
体格のないわたしはパワーで打ち勝つよりも技術で翻弄するタイプだったのだ。
それでも一撃必殺には憧れがあった。
相手を一発KOすることはどんなに気持ちがよいのか、知ってみたかったのだ。
だからわたしは、一撃必殺に憧れる。
――……――
わたしが目を覚ましたら、仰向けに寝ていた。
腕には数本のチューブが邪魔くさくつけられ、奇妙な液体を流す。それと連結してある機械が、画面上の光を忙しく動かしている。
見たことはあるけど馴染みのない空気。
几帳面に除菌された病室なのだろう。
壁際にある窓から日光が入り、室内には空調の音しかなく、病室はどうやら個室らしい。
ぼんやりとだけど、自分の居場所はわかった。
ここまで見たことを頭のなかで整理し、
「わたし、試合に負けたのか」
はっきりしないけれど、わかる。
誰かと戦ってボコされた。
病室に運ばれるのは、試合でド派手に負けた時だと決まっている。
こいつはいままでの二十年間で学んだ真理だ。
たしか大学のインターハイに出場して、頭の悪そうなゴリラ顔の女と対峙した。
ゴングが鳴って、いつもどおりアウトレンジからヒット&アウェイで戦う予定だった。持ち前の機動性で翻弄し、ボディを嫌がらせの如く突きまくって、バテたところに相手が出すゴミパンチに合わしカウンターを決める。いつもの必勝パターンに持っていく予定だったんだ。
「最悪」
頭で整理していくと、試合を思い出せた。
ゴングが鳴り、距離を取ろうとしたら、足元が滑ったんだ。
身体を支える力がなくなって崩れる視界越しに、ゴリラ女のストレートが直撃。
「最悪だクソッタレ」
薄れてゆく記憶のなかで興奮気味にカウントを取るレフリー。
ここまで思い出して完全に理解できた。
ぶっ飛ばされて負けたんだ。
「あぁ……クソッタレ」
試合で負けたことが最悪だ。
足が滑ったのが最悪だ。
ゴリラに負けたことが最悪だ。
そしてなにより、一撃必殺されたことが最悪だ。
くらったことが最悪最低なんだ。
思考するなかで何度も最悪と罵った。そうするしかなかった。そうしておかないと目ん玉からしょっぱい水滴が溢れそうになって、悔しさでたまらなくなる。
「クソ最悪だ。最低最悪だ。クソ、クソッタレ! なんだよ、なんだったんだよ。今まで耐えてきた練習はなんだったんだよ!」
「静かにしてくださる? チンパンジーさん。個室とはいえ病室なのだから、ねぇ」
聞き覚えがある声がする。
透き通る声色で、とても苦手な声。
よくよく周りを見ると、黒く長ったらしい髪をしたマネージャーが、退屈そうに足を組んでいる。
わたしが苦手とする手合いの女。
クソッタレの代名詞みたいなロン毛女が居やがる。
「テメェなんでここに!?」
「なぜって、保護者の居ないチンパンジーさんの監視と抑制のため。看護師じゃあなたの世話はできないでしょ?」
ぶっきらぼうとあらわすより、わたしの反応を楽しんでいる。イスにふかぶかと座り込んで、ふてぶてしくわたしをチンパンジーと称する、お嬢様気品なヤツ。
「監視……わたしのことを猛獣と思ってんのか」
「猛獣? ありえないな、分類するなら珍獣の類だと思うぞ。管理と躾けが特殊な絶滅危惧種の可愛いかわいいチンパンジーさん」
「クソ、やっぱりテメェは苦手だ」
マネージャーは、イジワルな笑みを浮かべて、
「ふふーん苦手ねぇ、私はあなたのこと大好きよ」
余裕ぶった返しをしてくる。
あぁ、やっぱり苦手だ。
そう思っていてもマネージャーには関係ないらしい。いけ好かない秘めごとたっぷりな笑みを張り付けている。
「こんな殺風景な場所、あなたの好みじゃないわよね。テレビでもつけるかしら?」
「そんな気分じゃねーよ」
この女は自己中なのだろう。人の気を知らないで、自分勝手に首を突っ込んで笑いだす。
タチが悪いたらありゃしない。
「あら意外。こういう俗物は大好きだと思っていたけど」
「好きだからって見るとは限らねぇだろ。勉強になったなクソマネージャー」
「えぇ、いい勉強になった。これでまた一つチンパンジーさんの生態に近づけたわけだね。この調子ならもっと仲良くなれそう」
ワザと言っているのは明白なぐらい、すがすがしく微笑んでいる。
憎たらしい。歯がゆい、じれったい。
どうせマネージャーは、やり取りを楽しんでいるのだろう。
口喧嘩じゃ勝てない。
でも黙るのは嫌だ。
なんでもいい、言い返せ。
「クソ野郎」
「元気みたいね。よかった」
「いや、よくないだろクソ野郎。どこが元気なんだよ」
「元気あるじゃない、だってあなたがクソ野郎って言えるのは元気な証よ。とっても安心した」
やっぱり動じない。マイペースに笑みを作りやがる。
クソッタレ。超クソッタレめ。わたしの気を知らないで、のんきに笑いやがって。
もう限界だ。
「気分は大丈夫っと、じゃ今度は身体のほうね。喰らったのは頭だったかしら」
「あぁ……頭だけだ。だけど」
なぜか息が詰まる。
そして、
「わたし、ボクシングやめる」
喉から出てきたのは、辛いときになんども頭に浮かんでは掻き消してきた言葉。
一〇年以上わたしを付きまとっていた甘えに満ちた呪いの言葉だ。
「やってらんねぇよ。わたしが積み上げてきたモン出す前に終わっちまう戦いなんて、やってらんねぇ。今まで逃げずに居たけど限界だ。もう、本当に嫌だ……」
思いを残すことなく吐きだす。
そうすると、目ん玉から熱いのが流れて、全身が火照り始める。
「だってそうだろ、あのゴリラもわたしと同じで何千何万何億回ミットを叩いてきたんだろうけど、アイツは一発で全てを出せるんだぞ」
「……」
「理不尽じゃん。あんなの、あんまりだ。わたしの努力は全てっ……無駄だったんだ」
しょっぱい感覚が口に飛び込んでくる。
悲しくて吐露したけど、胸が苦しくなっただけ。
わたしの努力は全て無駄だった。
無力感が突き刺さる。ぐりぐりと傷口が開いて、体内にため込んでいた熱が、噴き出した。
積み上げてきたモノは空っぽだったんだ。
なんの足しにもならない、無駄なこと。
無駄なんだ。そう、無駄。
「無駄? そうかしら」
「そうだろ。じゃなきゃこんなところで寝てない」
「単純に考えすぎよ。チンパンジーさん」
「いや、そうじゃん。努力したものがあったとして、それに結果が伴わなきゃ無と同然なんだよ」
「経営者みたいなこと言うのね」
「悪いのか」
マネージャーが少し間をおいて、わざとらしく鼻で笑った。小ばかにしているのだろう。
「珍しいって意味よ」
「わたしは絶滅危惧種らしいからな、そりゃ珍しいだろうよ。クソが」
そうだ笑え。
笑って見下せよ。
雑魚なわたしを指さして笑えよ。
これが負け犬にとってふさわしい姿だ。
ボクシングはやめるんだ。身勝手に、意地張って続けてきただけなんだから、やめてしまうのもいいじゃん。戦うことも負けることも、もう嫌なんだ。
「そうか、そうなんだ……無駄だというのね。玲奈」
真剣な顔。
さっきまでの意地悪い笑みから、神妙な表情に変えたマネージャー。
珍しくわたしの名前を読んで、急接近してきた。
ベッドのなかまで覆いかぶさり、まるでインファイトをするかのような距離。
「な、なんだよ。いきなり」
「いいから、目を見ていて」
「ば、バカか。とりあえずクソ近いから離れろ」
「断る」
チューブが邪魔で動けられない。
するとマネージャーが、わたしからこぼれた涙を、指でふき取った。
「ちょ……て、テメっなにしやがる」
「気にするな、玲奈」
マネージャーの目が、瞬きせずにわたしを捕らえる。
「私は知っているぞ。玲奈がどれだけ頑張ってきたのか……この目で見たからな。だけど知ることしかできなくて、支えてやれなかった。玲奈が傷だらけでいるのをわかっていて、なにもできなかった」
神妙な表情。見たことないほどにまじめだ。
「だけど、だけど玲奈。こんな無力な私だけど、あなたの努力は無駄じゃないって言える」
そうわたしを見つめて、言葉を繋げる。
「私は玲奈が戦う姿に救われたのよ? 何度でもなんどでも、自分のことをクソッタレて罵りながらも立ち上がる姿を見て、私はすごく救われた。それなのに、そのことを無駄だったとは絶対に言わせない。だから、私の気持ちを伝える」
マネージャーの目は潤んでいて、心なしか声は上擦っている。
「私は玲奈のことが好き。玲奈に救われたときから……本気で好き」
「なに言っ!」
「話はまだある」
マネージャーのほっそりした指が、わたしの唇に添えられる。
喋るな、の合図。
「玲奈が戦う姿は人を熱くさせるの、これは絶対に無駄なんかじゃない。玲奈が繰り出した拳は、私のなかにしっかりと積み重なっているよ。ほら、触れてみて」
マネージャーがわたしの手を握って、自身の胸へとつけた。
胸の柔らかい感触越しに、トクントクンと鼓動が鳴る。
暖かくて息苦しく、妙に愛おしい感覚だ。
「わかる? 私の気持ち。緊張して恋しくて高揚して、とても幸せで大切な気持ち。玲奈のおかげなの……玲奈の拳があったから私の心臓が動いているの」
「……わたしの拳が?」
「玲奈の拳が、玲奈の積み重ねてきた努力が、私を生かしてくれた」
わたしと正反対で、傷一つない顔がゼロ距離まで近づく。
いつのまにか、ベッドに侵入。
まるでクリンチをかけられたかのように逃げ出せない。
蜜のように甘い匂いが、マネージャーの吐息に合わせて香ってくる。
いままでヤツの顔は苦手だった。ことあるごとに突っ掛ってきて、うっとうしいぐらいお節介をするし、いつまでも監視してくる。わたしは何度も嫌味を投げつけるのに、お構いなしに近づいてくる。
苦手なその面構えは、なんだか可愛く感じてしまって、見つめていると胸が熱くなる。さっきまでの悲しい熱ではなく、もっとこう……尊いような感じ。
「だから今度は玲奈の悲しみを、私が肩代わりする。私が積み重ねに意味を持たせるから」
そう告げてマネージャーの胸が、わたしの胸と密着する。
ほっぺた同士がくっつき、首筋にマネージャーの吐息が当たって、わたしの鼓動と重なる。
「玲奈。大好き」
ふわふわとした囁きが、わたしの脳裏に電撃を走らせる。
胸が締め付けられて、血液が沸騰しているかのように全身が熱い。
とんでもない一撃だ。ゴリラのパンチよりも断然、心に響きやがる。
「な、ななな――!?」
「言葉を忘れたの、チンパンジーさん」
「好きって、好きって!」
「どうやら効果抜群ね」
そう聞かれてわたしは、図星だった。
どうやらわたしは、たった一回、大好きと囁かれただけで惚れてしまったらしい。
一撃必殺。たった一回のアタックでわたしはノックアウト。
こんなことが起きるから、わたしは一撃必殺に憧れる。