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 わたしがそのひとに出会ったのは、大学に入ってすぐだった。


 合コンだったかサークルの新歓だったかは覚えていない。大学生御用達の安っぽい居酒屋で、飲み会が始まって一時間も経ったころだろう。参加者それぞれが自らの思惑やお目当てを胸に秘め、あるいはただ騒ぎたい一心でジョッキやグラスを片手にテーブルを回遊する中、そのひとはお店の端っこで椅子に身体を預けていた。そのひとの周囲だけが真空みたいに静謐な雰囲気でありながら、少しも寂しそうではなくて、わたしはつい見入ってしまっていた。


 うつくしい、ひとだった。身に着けているのは白いシャツに春物のカーディガンとチノパン。キャンパスを歩けばどこでも見かける服装。それでいて、なんとなく古風な印象も受ける。じっと観察していると、その印象は衣服の仕立ての良さから来ているものだとわかった。形だけを真似た量産品ではない、本物。バカ騒ぎをしている周りの量産型大学生たちと同じように見えても、値段が一桁は違うのではないだろうか。


 それでいて、服に着られている印象もないのは、その中性的な容貌によるところが大きいだろう。気怠げですらある落ちついた立ち居振る舞いも相まって、貴族的な品の良さを感じさせる。退屈さを紛らわすように年季の入ったジッポーを手に取り、しなやかな白い指先で挟んだ煙草に着火する仕草には妙な色気があった。ありふれたチェーンの居酒屋よりは、高級なショットバーが似合いそうなひとだった。


「ねえ、ここいいかな?」


 そのひとがどこの誰かも知らないのに、そんな気安い声のかけ方をしてしまったのは、きっと酔っていたからだろう。まだそのときは自分の容姿に自信を持ちきれずにいたのもあって、わたしが自分から知らない人に話しかけるのは珍しいことだった。そんなわたしを見て、相手は少々驚いたようだった。誰かに声をかけられるとは思っていなかったのかも知れない。


「……構わないよ」


 その答えを聞いて、わたしは自分の鼓動が少し早くなっているのを自覚した。どうやら、わたしは緊張しているらしい。女の子みたいだ、と思う。


「ありがとう」


 挙動不審にならないよう、ゆっくり丁寧な仕草を意識して対面で腰掛ける。空いた皿は片付けられ、そのひととの間にあるのはお互いのグラスだけ。融けかけの氷が浮いた赤に近い紫色の中で、ぷつぷつと弱々しく泡が弾けている。


「ね、それ、カシスソーダだよね」


「え? うん、そうだよ」


 持ってきたグラスを揺らしてのわたしの問いに答えると、そのひともつられたように自らの杯を手にし、そして少しためらうような間を置いて、ゆっくりとテーブルへ戻す。もしかしたら、お酒には強くないのかも知れない。好みか強がりかは知らないが、男たちはビールのジョッキを手にしている者が多いのに、そのひとだけはカクテルグラスを、それも甘いカクテルを飲んでいたのも、それを裏付けるように思われた。


「お酒、強くないんだ?」


「どうだろう。人並み、だと思うよ」


 口調は平静だが、むっとした表情が隠し切れていない。お酒に弱いと言われて自尊心が傷ついたのだろうか。しかし、居酒屋で提供される薄いカクテルの一杯も飲めないのでは、下戸と評されても仕方ないだろうと思う。


「きみは、強いの?」


「人並み、かな」


 軽い挑発の色を帯びた問いかけに、わたしは即答した。そのまま自分のグラスに七割ほど残ったカシスソーダを、一気に喉へ流し込む。気の抜けかけた炭酸で割った、グレープジュースのような味。


「ぷはー!」


 くらくらと心地よい酩酊感。正直なところ、お酒の良し悪しはあまり分からない。甘いのが好き、というのがお酒についてのわたしの好みの全てだ。


「……大丈夫?」


「ん、大丈夫。飲めないなら、あなたのも飲んであげよっか?」


「いや、もう飲まないから、いいよ」


「ソフトドリンクとか、頼まなくていいの?」


「ん……えっとね」


 そのひとは周囲を気にする素振りを見せると、耳を貸せというようなジェスチャをした。わたしが身を乗り出すと、耳元に口を寄せて囁く。そんな気障ったらしい行動も、そのひとがするのなら不思議と嫌味には感じられなかった。


「誘ってくれた友人への義理は果たしたし、こっそり抜け出して飲み直そうと思っててさ。きみさえよかったら、ぼくと一緒に、どうかな」


「ん……」


 少しだけ、迷った。そのひとはわたしのことを勘違いしているだろうと思ったからだ。しかし、そのことを説明するには少々人目があり過ぎる。わたしにも、これからの大学生活があるのだ。初めからつまづくのはできれば避けたい。


「えっと、とりあえず出て、歩きながらお話しましょうか」


「うん。先に出て待ってるね」


 言うが早いか、そのひとは煙草とジッポーを掴んで席を立った。あまりに自然で堂々としているためか、誰の注意も引かず、そのまま出ていってしまう。わたしはと言えば、こっそりとバッグを回収するのに五分、トイレに行くふりをして店外に出るのにさらに五分かかってしまった。出てこないと見て置いていかれたかも知れない。そんな考えが焦りを生み、表の階段を駆け下りるわたしは、途中で足を踏み外してしまった。


「わっ……きゃっ!」


 慣れないヒールを履いていたのが災いした。踏み留まろうとしてかえって足を挫き、残りの三段ほどをそのまま落ちそうになる。階段の脇で壁にもたれて煙草をふかしていたそのひとと目が合ったのは、その瞬間だった。


「……っ!」


 酔っぱらって鈍った頭では、どのように受け止められたのかまでは分からなかった。結果として、わたしもそのひとに抱きしめられるような格好となっていた。こういうとき、なにを言うべきだろうか。迷ったわたしがとっさに口にしたのは、我ながら酷く間抜けな一言だった。


「や、やわらかいですね……?」


「えっ……!」


 顔が熱くなる。なにを言ってるんだ、わたしは。ちがう、そうじゃない。見ろ、相手もあからさまに動揺して、胸を押さえているではないか。それよりもっと、言うべきことがあるだろう。そう、怪我をしなかったか、とか。


「あっ、ちがくて、その、だいじょうぶでしたか?」


「うん、ぼくは大丈夫。それより、きみこそ怪我しなかった?」


「うん、ちょっと足を挫いただけ……」


「よかった。立てそう?」


「うん」


 手を引っ張って、助け起こしてもらう。服と髪を軽く整えて、酷いことになっていないのを確認する。声に反応してこっちを見ていた通行人も、わたしが足を踏み外しただけとわかると興味を失ったように視線を外してしまう。おそらく、気付かれていないはず。ただ、目の前にいるこのひとを除けば。


「ところで、その……」


 遠慮がちに切り出される。流石に、隠してはおけないだろう。


「……気付いたよね、やっぱり」


「ぼくも、その……隠しててごめん」


「やっぱり、貴方も、なんだよね?」


 先ほど抱いた疑念が、その言葉で確信に変わる。同時に親近感にも似た感情が湧き上がってきた。このひとと仲良くなりたい。改めて、そう思った。


「お互い、誰にも言わないってことで……どうかな?」


「そうしてくれると、ぼくも助かる。ところで……まだ名乗ってなかったよね」


「そうだったね。じゃあ、わたしから。春川春、ハルって呼んで欲しいな」


「ハルさん、だね。ぼくは秋山楓。好きに呼んでくれていいよ」


「楓さん? ううん、アキさん、って感じかな」


「うん、じゃあ、それで」


 それから小一時間。自己紹介を終え、行きつけなのだというバーに腰を落ち着けたわたしたちは、メニューを前にすっかりくつろいだ会話を交わしていた。


「それでね……」


「あ、その前に注文しよう」


「うん。んー、わたしはピーチフィズにしようかな」


「ぼくはギネスにする。なにか食べたいものは?」


「適当でいいよ」


 わたしの言葉に軽くうなずいて、ウェイターを呼ぶ姿まで堂に入っている。その様子を眺めながら、ひとつ気付いたことがあった。注文を書き留めたウェイターがテーブルから離れたのを見計らって、問いかける。


「ところで、ギネスってビールだよね?」


「うん、そうだよ」


「お酒強くないのに、大丈夫なの?」


「え?」


「え?」


 わたしの言葉を受け損ねたような不思議な顔は、すぐに得心顔へ変わる。


「……ああ! カシスソーダが飲めなかったから心配してくれてるの?」


「うん……えっ、違うの? ……あ!」


 そうして、わたしはようやく自らの早とちりに思い至った。恥ずかしさに、赤面してしまう。そこへ、グラスを二つとスティックサラダをトレーに乗せたウェイターがやってきたので、思わず両手で顔を押さえてしまった。


「とりあえず、乾杯しようか?」


 わたしが落ち着くのを待って、アキさんは優しく言ってくれた。言われるがままにグラスを触れ合わせたわたしは、それまで飲めなかったうっぷんを晴らすかのように勢いよく喉に流し込んでいくアキさんがあまりに格好よくて、ただぼうっと眺めていることしかできなかったのだった。

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